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雪の陰翳  作者: 苳子
88/110

第8章 10

 深更になってようやく帰室した朱華を、夕瑛は起き上がって迎えた。同じ室内の簡易寝台に横になっていた彼女は、首元を寛げただけの軍服姿だった。前線ではいつ非常時となるか分からないため、就寝時に寝衣に着替える習慣はない。


「私は寝ているよう命じたはずだけれど」

「つい先ほどまでお言葉通りにしておりました。けれど、主人あるじがお戻りになられたのですから」


 通常、主人より先に休むことなどありえない。夕瑛が体調を崩していることに気付いた朱華は、先に休んでいるように命じていた。

 朱華の傍らに、彼女を部屋まで送ってきたらしい霜罧の姿を見つけ、夕瑛はもう一度頭を下げた。


「恙なく宴はお開きになったのですね」

ひとえに公のお能力ちからで」


 夕瑛に会釈を返し、そう応じる霜罧に、朱華はふんと面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「なんの役にも立たない特技でね」

「なにを仰られます、ああして見事勝利なさったではありませんか」

「これでまた、ざる姫の武勇伝が一つ増えただけのことでしょう」

「――まぁ、それは否定できかねますが」


 込み上げてくる笑いを押し殺しきれない様子の霜罧を一睨みし、朱華は夕瑛の肩を押して自室に入る。そして炉辺に直行すると、その前の床にじかに座り込んだ。


「まぁ、またそのようなはしたない真似はおよしください」

「いつもよりお召し上がりになられましたので」


 主の後を追う夕瑛に、霜罧が後ろから声をかけた。


「酔ってなどいない。そなたらの前だけであれば良いと言ったのはそなたでしょう、夕瑛。霜罧もさっさと扉を閉めなさい。暖気が逃げる」


 振り返りもせずに言葉を投げつける主に、二人は苦笑いしあう。


「霜罧殿も中へお入り下さい」

「いえ、もうお休みになられるでしょうから、私はもうこれで失礼いたします」


 扉口で押し問答する二人に苛立ったのか、朱華は振り返った。


「霜罧、さっさと閉めなさい。聞こえなかったのか」

「――これは失礼いたしました」


 入室するか瞬時迷った末、彼は詫びながら室内に一歩踏み込み、静かに扉を閉じた。既に朱華は燃え盛る炎に照らされながら、膝を抱えて丸くなっている。微笑しながら悠然と義兄と闘飲とういんしていた優雅な女性の面影はすっかり失せていた。


「お水は如何ですか?」

「ありがとう、もらうわ――霜罧にも」


 夕瑛から水の満たされた杯を受け取りながら、朱華は背後に立つ補佐役を振り返った。


「私は――」

「いいから座りなさい。この体勢は首が疲れる」


 無愛想に命じると、また膝に顎を乗せてしまう。夕瑛と霜罧はやれやれと目配せを交わす。


「と仰られるからには、その、またお隣に失礼してもよろしいのですか?」

「そこしかないでしょう」


 朱華はもぞもぞと敷物の上で移動し、一人分の空間を作る。霜罧は苦笑しつつ一言断ってその隣に腰をおろし、夕瑛から水を受け取った。


「夕瑛は寝ていなさい」

「――お言葉ですが、流石にそういうわけには……」


 隣に座る霜罧に今更ながら気づいたように、朱華は眉を上げて「ああ」と小さく呟いた。


「少々酔っておられますね?」

「――多少ぼんやりしているのかもしれない」


 朱華は水を飲み干すと、小さく呟いた。夕瑛は朱華の身振りに従って、主が座るべき椅子に腰かけた。座り心地の悪そうな顔をしている夕瑛に、霜罧は同情するような表情を浮かべた。

 

「お疲れなのでしょう。ここまでずっと騎乗だった上、義兄上とご同席だったのですから」


 労う霜罧に朱華は無言で一瞥を返し、苛々した様子で髪を束ねる紐に手をかけた。夕瑛が止める間もなく、艶やかな髪がその背や肩に流れ落ちる。見事な黒髪が火焔の明かりを受けてうねるようだった。

 霜罧は咄嗟にその髪に手を伸ばしそうになったが、はっとして何とかその衝動を堪えた。

 彼も朱華ほどではないが、酒が入っている。気の緩みでとんでもない失態をしでかしかねない。近頃の朱華は霜罧に一方的にやり込められるだけではなく、嫌味も返してくる。かつては近づけば見せていた強張った表情も浮かべなくなった。こうして気を許した様子も見せる。それが返って彼の危機感を募らせている。ともすれば自分に都合の良い自分勝手な誤解までしかねない。

 

「――あれが世の男性の私への見解なのね」


 髪をかきむしるようにしたのち、膝に顎を乗せて力なく呟く。その横顔はひどく疲れて見えた。


「否定は致しませんが、あくまで一意見に過ぎません。それも偏見に満ちたものです。耳を傾ける価値のないものです。お惑わされませんように」

「……耳を貸す価値のない意見などある? 私は自分に都合の悪いことから目を背け、耳をふさいでいればいい立場にはないはずでしょう」


 いったい何があったのかという顔をしている夕瑛を一瞥した後、霜罧は水を一口含んでから杯を床に置いた。


「勿論、一部にはそういう意見もあるという程度のことは知っておかれた方がいいでしょう。ただ、それは耳を傾ける事とは異なります。では、そのような意見に耳を傾けた結果、あなたはどうなさるのですか? 今更ご退位なさいますか?」

「……そのようなことはしない」

「ですから、耳を傾けたところでどうしようもないと申し上げているのです。それぞれの立場や利害の違いで様々な意見を持つものがおります。それら全てを聞き入れていては二進も三進もいかなくなります。それはお分かりになりますね?」


 噛んで含めるように言い聞かせる霜罧を、朱華は鋭い目つきで睨んだ。


「――その程度のことは承知している。半分は愚痴よ」

「……失礼いたしました」


 莫迦にしているのかと問うような主の表情かおに、霜罧は素直に詫びた。彼女を侮っているつもりはないが、ついつい先回りしてしまう。彼女のことを買っていると言いながら、この体たらくでは不信を招いても仕方がない。


「私が女だてらに前代未聞の王統家当主就任したことを、面白く思わない男性の方が多いことは承知している。だが、茈枳殿にも言ったように、母上の判断に間違ったところもない。王統家の初代は直系の王子でなければならないという成文法はない。故に、私が苴葉家を再興することは間違ってはいない。それと同時に王女が始祖となったことがないことも明らか。先例のないことは先例を作ればいいだけのこと、という陛下のご意思に私は従うまで」

「それでよろしいかと」


 霜罧は同意を示すように頭を下げた。朱華はふうっと息を吐き、また膝に顎を乗せた。


「私に必要なのは苴葉公としての実績」

「しかしながら公が就任なさって一年も経ちません。焦っても良い結果とはならないでしょう」

「分かっている――分かってはいるのだけれど、酒に強いくらいしか見るべきところがないと言われると」


 朱華は頭を抱えるようにして呻き、また髪をかきむしった。分かってはいても、朱華に面と向かって言うものは少ない。彼女が直接言葉を浴びる事での衝撃をうまく受け流すことができずにいることに、霜罧はようやく気付いた。


「姫、基本的なことですが、酒宴での応酬は真に受けるべきではありません」

「そのくらいのことは承知していると言ったであろう」

「ならば、何故そのような顔をしておられるのですか?」


 霜罧の指摘に、朱華は言葉に詰まったような表情を見せた。


「分かっていることと、お出来になることはまた別の話だということですね」


 さらに言葉を重ねる彼を、朱華は面白くなさそうに見据え、溜息を一つ漏らした。


「――それも分かっている」

「真に受ける度に辛い思いをなさるのは姫です。戯言に度々傷ついていては損だと申し上げているだけです」

「それでそう割り切れるのなら、私とてとっくにそうしている」


 霜罧はそっと朱華の頭を撫でたい衝動に駆られたが、それもまた堪えた。夫候補であり、女王が指名した補佐役ではあるが、あくまで主従関係には違いない。出過ぎた真似はすべきではない。


「苴葉公としての先は長いのですから、いずれ嫌でもお出来になられるでしょう。そうでなければやってられるかということに、既にお気づきのようですから」

 

 笑みを含んだ言葉に、朱華は不審そうに霜罧を見る。彼の顔には励ますような、茶化すような笑みが浮かんでいた。


「……それは開き直れということ?」

「ご名答にございます」


 よく分かりましたね、と教え子を褒めるような表情に、朱華は眉を顰める。


「やはり、そなた、私を莫迦にしているわね」

「姫さま、そうではなくて、莫迦になることも必要だと仰っているのですよ」


 背後から夕瑛が助け舟を出した。朱華は首をひねって乳姉妹ちきょうだいの方を見る。彼女と霜罧の結託を疑うような表情に、夕瑛も苦笑いしてしまう。


「失礼ながら、茈枳様がそのお言葉に耳を傾ける価値のあるお方でいらっしゃるかどうかは、姫さまもご承知でございましょう。同じく、霜罧殿のことも。霜罧殿は姫さまの身をお案じになっても、莫迦になさるような方ではありますまい?」

「――子供扱いはされているようだけれど」

「実際にそうでございましょう。何事も不慣れでいらっしゃるのですから、常にご案じ申し上げているのは私も同じでございます」

「……そこまで私は頼りないのかしら……」

「そうではございません。それでも大切な方のことを案じてしまうのが人の情というものです。そのようなものかと深刻にとらえず、だからと言って粗末になさらず、お一人では何もかもはできないということをご承知であればよろしいかと」


 朱華は膝の上に腕を重ねると、そこに頭を預けて視線を泳がせる。長い髪は床まで届き、揺れる炎の明かりを躍らせる。


「――そなたがいなければ私は思いを抱え込んでしまうし、霜罧や列洪がいなければとても苴葉公としての役目は果たせない。それは分かっているつもりだったけれど、つもりであって実際は分かっていなかったのね」

「十二分にご理解なさっておられますよ」


 夕瑛がにこりと微笑むと、朱華は安堵したような表情を見せ、欠伸を噛み殺した。


「……なんだか急に眠くなってきたわ」


 そう呟くと、そのまま呆気なく目を閉じてしまった。


「まぁ、姫さま」


 夕瑛は慌てて近寄り、そっと主に肩を揺らしたが、彼女は目をあけない。


「お疲れだったのでしょう」


 隣に座った霜罧も主人の顔を覗き込み、苦笑いする。


「私が寝台までお運びしても?」

「お願いいたします。私では無理ですので」


 霜罧は頷くと、遠慮がちにそっと朱華に触れ、軽々とその体を抱き上げた。夕瑛はそこに横たえられるように寝具をめくり、霜罧が静かにそこに主の身を置くと肩までそれをかけた。


「宴では茈枳様から散々な言われようでしたからね」


 霜罧は宴での経緯を簡単に夕瑛に説明した。彼女は目を吊り上げた後、痛ましいような表情で主の髪に触れる。朱華は安らかな表情で寝息を立てていた。


「――まぁ、それでも茈枳様の言動の方が私よりはましだと言われました」

「あらまぁ」


 霜罧の苦笑まじりの呟きに、夕瑛はひとしきり笑った。


「それでは、私はこれにて。夕瑛殿もゆっくりお休みください。主が案じておられます故」

「はい、承知しております」


 二人は静かに会釈を交わすと、霜罧は音を立てないよう密やかに退室していった。

 霜罧を見送った夕瑛は寝台に戻ると、朱華の襟元を寛げてやり、顔にかかる髪を指先ですくって他所へやる。そっと乳姉妹の頬に触れ、かすかに笑みを浮かべると、彼女の命令を守るべく自分も簡易寝台にもぐりこんだ。

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