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雪の陰翳  作者: 苳子
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第8章 9

 飲み比べがはじまった時点で、茈枳さいきはすでに赤ら顔だった。一方の朱華はいつもながらに白い顔をしている。彼が酒豪だなどという評判はいっさいない。娘たちの企てに気づいた王配が、とっさにでっち上げただけのことだった。それまでに既に杯を重ねていた茈枳は、酔いが回りそこまで頭が回らないようだ。


「では、私がお注ぎ致しましょう」


 そう買って出たのは霜罧だった。


「手心を加えるのは無しにしておくれよ」

「まさか、そのようなことは致しません。主が最も嫌うことですから」


 霜霖は伏し目がちに応じた後、確認を求めるように朱華に視線を寄越す。最初から勝者が明らかな勝負を持ち掛ける時点で卑怯極まりないのだが。そんなことをおくびにも出さない霜罧に呆れながらも、朱華は尤もらしく頷いてみせた。彼女はそこまで清廉潔白な人間ではない。


「ならば任せよう、如何かな、義妹いもうと殿?」

義兄あに上がよろしければ」


 しおらしく応じれば、彼は満足げに頷いた。


「では、酌はそなたに任せよう」


 決定権を委ねられ、彼に不服はないようだった。

 王配に席を空けさせるわけにはいかず、城代が席を空け、茈枳がそこに移る。彼が譲った後に朱華が腰掛けた。並んで座った二人の前に霜霖が座を占める。既に瓶子が複数用意されていた。

 新たな盃が二人に渡され、霜霖が恭しく酒を注ぐ。茈枳は義妹の盃と比べ、量に差がないことを確認すると、一息に飲み干した。


「さぁ、義妹いもうと殿も一息に」

「では、お言葉に甘えまして」


 朱華はにこりと微笑を返し、同じく一度で飲み干した。

 二人が飲み干すと、早速、霜霖が瓶子を傾ける。白い顔でけろりとしている彼女が気になるのか、彼は次々と杯を空けては朱華にもそれを促した。

 結果的にとろんとした目つきで言動が怪しくなってきたのは、彼が先だった。朱華は変わらない様子で姉の夫を観察している。


「そなたの噂は確かなようだね、酔った素振りさえなしとはね」

「顔に出にくいだけで、そのようなことはありません」


 朱華は苦笑いしながら首を振る。


「頰が赤く染まる気配すらないのだね。そのように澄ました顔をして、乱れた様子もないとは。ここまで女性の身で強いと、些か可愛げがないと言われたことはないのかい?」


 茈枳は座った目で朱華を見据えた。口ぶりは冗談めかしているが、己の劣勢を悟ってか、苛立ちは隠しきれないようだった。

 いよいよ本格的に絡まれはじめらしい。朱華は零れそうになった溜息を堪えるために、残っていた酒をあおった。酔えるものなら酔ってしまいたいところだが、その気配すらない。いっそ茈枳が羨ましいほどだった。


「そのようなことはありませんでしたけれど、私を評してざる姫などと言う者もいるとか。やはり女だてらに酒に強いということは、良くは思われないのでしょう」


 苦笑いしながら伏し目がちに答えれば、茈枳はそれをどう解釈したのか、鼻先で小さく笑った。


「ただ売れ残った王女というだけで、女の身でありながら苴葉公の座が回ってきたのだからね、何か一つくらいは男より秀でるものがあってもらわなければね。まぁ、酒飲みの才能なぞは何の役にも立たないだろうけれどね」


 朱華は一瞬呆気に取られたが、霜霖の鋭い一瞥で自失を免れた。霜霖から長年囁かれ続けた陰湿な嫌味に比べれば、義兄の悪態など屁でもない。分かりやすい分、いっそ可愛らしいとも言える。


「そうですね」


 酔っ払いのこの程度の戯言で腹をたてる朱華ではない。しおらしく受け流しておけば、茈枳はそれで満足するようだった。酔い方としてはたちが悪いが、あしらい易い分まだましだとも思われる。


「四の姫に過ぎぬのに、女神さながら男並みに太刀をふるうような真似をなさるから、縁談はまとまらぬ。その上、女の身でありながら王統家の主人に据えられた挙句に、夫候補は王統家出身ですらないとは、つくづく不運な姫君だね。他の姉妹同様おとなしくなさっていれば、このようなことにはならなかったろうに」


 酔った勢いでの失言か、それとも何らかの意図に基づく発言なのか。

 朱華は咄嗟に返す言葉が見つからず、思わず向かいに座る霜霖の顔を見た。

 霜罧がいくら王配の片腕にして要職に就く父を持つさん家の次男であっても、彼を窘められる立場にはない。あくまで一般の貴族は王族・王統家より身分は劣る。

 朱華の視線に気付かない霜霖ではないだろうに、目線一つ寄越さない。何も聞かなかったような穏やかな顔でいる。

 朱華はちらりと隣に座る父の様子もうかがったが、彼は薄い笑みを浮かべているだけだった。娘婿の発言を面白がっているようでもあり、明らかに四女が優勢な飲み比べを愉快がっているようでもある。


「姉君や妹君と比べての、わが身の境遇を義妹いもうと殿はどう思っているのかな?」


 助け船は出ないと悟り、朱華は引きつりそうになるのを堪えながら笑みを浮かべる。


「私は陛下の仰せのままに従うまでです。確かに苴葉公という大役は私には分不相応かもしれませんが、霜罧や枳月殿という頼もしい補佐役もおります故、彼らの力も借りながら任務に邁進するのみです――それに、枳月殿は苴葉家所縁の方でもありますし」


 朱華の言葉に、茈枳はしばし沈黙した後、小さく嗤笑わらった。


「枳月殿はまことに苴葉家の縁者なのだろうかね」

「……陛下がお認めになられたことです」


 思わず声音が低く響くのを、朱華は堪えられなかった。その変化に思考の鈍ったでも気付いたのか、彼は冷笑を朱華に向けてきた。


「真実苴葉家所縁の人間であったなら、何故彼に苴葉公の席が回ってこなかったのかな? 枳月殿は王家にとって希少な男性王族であるはずだろう?」


 茈枳は嘲るような声音で朱華に問いかけてきた。

 枳月は東葉王族を父に、苴葉家の姫を母に持つとされている。王配を除けば王家の男性はほぼいないと言っていい状況の中で、断絶した王統家を継ぐのは彼であってもおかしくはなかった。それでも朱華が苴葉家を継ぐことになったのには、それなりの理由があった。


「枳月殿は直系王族ではありません。その彼が苴葉家を継げるなら、他の王統家出身の者でも良いのではないかという意見が出たのではありませんか? 古来、王統家は直系の王族から始まっています。ただ、王女からはじまったという先例ためしがなかっただけのこと。女神からはじまる我が王家において、その分家たる王統家の始祖が王女であっても矛盾はありません。故に、私にお鉢が回ってきただけのことです。私にだけ王統家出身の夫も婚約者もいなかったと言うこともありましょう、そこは義兄上の仰る通りです」


 酔いの気配さえ滲ませない、整然とした口調で朱華は返した。意見を言うことは本来得意ではないが、この先苴葉公としてやっていくなら避けられない。この程度のことでやり込められるようでは、この先とても渡り合っていくことはできないだろう。

 朱華に堂々と言い返されるとは思っていなかったのか、茈枳は不快そうな顔をした。

 朱華はそれに気付かないふりをして、酒で満たされた杯を一息に空けた。茈枳もそれに負けじと一気に呷る。彼は既に首筋まで紅潮しており、目つきも怪しくなっている。完全に潰してしまうことは簡単そうだった。


「どうなさいますか?」


 霜霖がさらに酌をするか尋ねた。朱華は口元に心配するような笑みを浮かべて、隣の茈枳を一瞥した。義妹の余裕に焦りを感じたのか、彼は無言で酒杯を突き出した。瓶子を傾ける霜霖の整った口の端がわずかに上がったことに気づいたのは、朱華だけだった。

 朱華が先にもう一杯空けると、茈枳もそれに倣った。もはやすっかり酒に飲まれている彼に対し、彼女は少しばかり脈が早くなっているような気がする程度だった。

 酔っ払い相手には無駄な繰り言かもしれないと思いながらも、朱華は念を押した。


「重ねて申し上げますが、枳月殿の身元を保証なさったのは陛下です」

「正確には吾だがな」


 おもむろに口を開いたのは碧柊だった。それまで黙していたためその存在を失念していたのか、義父の発言に茈枳はぎょっとしたようだった。


「枳月の父なら吾がよく知っておる。翼波との戦乱に巻き込まれ、枳月が苦労したこともな。彼の息子だと確信するに足る証拠が枳月にはあった。故に女王も彼が王族であると認めたのだ」


 その証拠がどのようなものであるかには触れなかった。真相を知る朱華は、父の言葉に偽りのないことは分かった。正確には、枳月の出生について確信を抱いたのは女王その人だったのだが。


「その証拠と仰るものは如何様いかようなものなのでしょうか?」

「そなた、陛下の言葉を疑うのか?」


 碧柊は娘婿に低く厳しい声で問いかけた。

 女王の言葉は絶対のものとされている。彼女が白いものを黒といえば、それは誰が見ても白くとも黒と言うことになる。だからこそ、彼女は無闇に言葉を発さない。特に公的な場においては。発したとしても、如何様いかようにも解釈できる物言いをし、断言することは少ない。そんな数少ない断言が、枳月の身元保証だった。

 義父からの鋭い眼差しに、茈枳はさっと顔色を変えた。流石に酔いが回っていても、己の失言に気づく程度の理性は残っていたのだろう。


「そのようなつもりはございません」

「ならば良い」


 慌てて否定した娘婿に、彼は一転して穏やかな声で返す。ほっとした様子の義兄に、朱華はなんとも言えない気分になった。

 彼は女王の夫である王配の前でさえ、酔いが手伝ってのこととは言え、これほどの言動を見せている。朱華の姉である妻を軽んじている気配も伝わってくる。姉は王統家に降嫁したわけではないとは言え、住まいは王城の外ではある。夫婦だけとなった時、いったいどのような会話が交わされているのか。朱華に苴葉公就任を断るよう迫ってきた時の姉の様子を思い出すと、暗澹たる気持ちに陥る。

 その昔、姉銀華には周囲が勧める夫候補が何人かいた。能力的にも人格的にも、周囲が認める人物ばかりだった。だが、当人がそれを全て拒み、よりにもよって最もお勧めされなかった彼を選び出した。彼が人より優れているのはその容姿のみ。だが、銀華にとって最も大切なことはそのことだったのだろう。国一番の美女と評判の自分に外見的に釣り合う男でなければならなかった。強い反対にあった彼女は、ますます意固地になった。

 当時まだ十二、三に過ぎなかった朱華にもその騒ぎは耳に届いていた。彼女は周囲が勧める夫候補から選んだ方が無難であることを、この時学習した。

 父の介入で茈枳の酔いが少なからず覚めたように見えたのは、朱華だけではなかったらしい。霜霖の意図に気づいた朱華は、すかさず自分の杯を差し出した。


「義兄上、勝負はまだ途中ですよ、さぁ」


 婉然と勧めれば、釣られたように彼も酒杯を霜霖に向けた。


まことに、これからが本番です」


 霜霖もその言葉尻に乗る。朱華は義兄に微笑みかけながら、一気に飲み干した。そうなれば、彼も応じる他ない。その調子で更に杯を重ねるうちに、間も無く彼は酒杯を手にしたまま鼾をかきはじめた。

 朱華はようやくほっとした表情で酒杯を置き、椅子の背にもたれた。


「思うたより手間がかかったか?」


 朱華にそう笑いかけたのは碧柊だった。


「父上のおかげで予想よりは少々かかったかもしれません」

「酔っ払いの戯言とは言え、聞き逃せんことを言いおったからな。茈枳は子が生まれてから言動が目に余る。銀華にこれを御することは難しいようでもあるしな」


 彼は溜息まじりにこぼした。朱華以外に城代や霜霖、珂瑛も居合わせているが、聞かれても構わない類のことであるらしい。


「公もよく堪えられました」


 疲れた様子で水に手を伸ばす朱華を、霜罧が労う。朱華はふっと自棄気味に笑い、片手を振ってみせた。


「あのくらい、そなたと比べればさほどのことではない」


 皮肉まじりにそう返されると、彼は流石に苦笑いを隠しきれなかった。


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