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雪の陰翳  作者: 苳子
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第8章 8

 

 霜霖に伴われて朱華が入室した際、先に着座していた茈枳が眉をあげた。王配の姿はまだなかった。


「おや、お召し替えはなしかい?」

「生憎と軍装しか支度しておりませんでしたので」


 朱華は苦笑いしつつ、義兄に頭を下げた。

 州都を発つ前に、軍の視察に女性の衣装など不要と、朱華は夕瑛の提案を退けていた。王配からの宴の誘いに持参すれば良かったと悔いたが、彼が同席するなら話は別だ。


「真に残念だ、斯様かようたおやかさの増した義妹いもうとの華やかな姿も見てみたかったのだがね」


 すでに酒精がまわっているのかと疑うほどに、彼は陽気だった。如何にも残念そうに話すが、軽薄な印象は拭えない。朱華は苦笑いしながら短く詫び、自分の席に着く。その間、義兄からの粘っこい視線を感じた。思わず眉を顰めたくなる衝動を堪え、朱華は隣に腰を落ち着けた霜罧にそっと囁いた。


「視線を感じるのだけど」

「気のせいではないようですね」


 霜罧は穏やかな表情で何でもないように応じる。朱華は小さく息を吐いた。


「また悪い病気が出なければいいのだけど」

「前線に女性はほとんどいませんからね――流石に、義妹いもうと君を相手に迂闊なことはなさらないでしょう。妻の父君である王配殿下もいらっしゃいますし」

「……だといいのだけれど」


 義兄の女癖の悪さは周知の事実となっている。朱華が彼の存在を歓迎できない理由の一つでもあった。


「早いうちに酔い潰してしまう方がよろしいかもしれませんね」

「――気の重いこと」


 義兄の軽口に笑みを返しながら、朱華は気鬱な呟きを漏らした。


「そのような事態は私も許容できかねますので、ご協力いたします」


 傍らから霜罧のぞっとするような低い呟きが聞こえた。朱華はそっと伺いみると、彼は実ににこやかに茈枳の相手をしていた。




 宴には天守塔の最上階に近い、軍議にも使用される一室が用いられていた。正しくささやかな宴だった。朱華にとっては身内と呼べる顔ぶればかりだ。

 朱華の隣には、最後にやってきた父が腰を落ち着けた。反対側の隣には霜罧、さらにその隣に珂瑛が座る。王配の反対側には茈枳さいきが席を占めた。彼の隣には城代の姿があった。

 王配の着座を合図に従僕が酒杯に酒を注いでまわり、宴がはじまった。宴とは言え、夕餉を共にするという程度のもので、がくもない。気楽な席になるはずだったが、そうもいかないようだった。

 茈枳は食よりも酒を好むのか、目の前に置かれた食事にはあまり手をつけなかった。だからと言って酒豪というわけでもないらしい。早々に顔だけでなく、首まで赤くなっていた。

 朱華は霜霖からさり気なく促され、嫌々、だがにこやかに義兄に声をかけた。


「遅ればせながら、義兄上、若君のご誕生おめでとうございます」


 彼は座に飽きてきたのか、些か退屈そうな様子を見せていた。義妹から声をかけられた途端、表情を一点させた。朱華に声をかけても、いつのまにか霜霖が話し相手になっているということが繰り返され、思うように義妹に絡めずにいたのが不満だったようだ。

 祝いの言葉を述べた朱華は、いつのまにか霜霖が用意させていた瓶子を手に、義兄の傍に移動した。


「ああ、ありがとう」


 義妹が傾ける瓶子に酒杯を差し出しながら、彼は嬉しそうに笑った。


「やっと生まれたと思ったら、王子だからね」


 朗らかな口調で紡がれた言葉に、座は一瞬しんとなった。朱華も咄嗟に返す言葉がない。

 一の姫も二の姫も、婚儀から一年以内で王女を産んでいる。だが、三の姫は五年近く身籠もらず、昨年ようやく待望の第一子を得た。数十年ぶりの王子の誕生だったが、男子に王位継承権はない。


「――皆が待ち臨んでいた若君のご誕生ですものね」


 朱華は数瞬の後に、ようやく台詞を紡ぎだした。義兄の言葉には明らかに否定的な意味合いが多分に含まれていたが、彼女は辛うじて明るい口調でそれを有耶無耶にした。茈枳はそれに気付いているのかどうか定かではない表情と口ぶりで、その言葉を受ける。


「そうだね、この場合、よく考えれば王女より王子の方が将来の展望は開けるからね」


 自分のその言葉を祝すように酒杯を掲げ、一気に飲み干した。朱華は父の表情かおをまじまじと確かめたい衝動に駆られたが、どうにか堪えた。

 既に王太女である一の姫が三人の王女を出産している。さらに二の姫も二女の母である現状で、三の姫

 所生の王女に女王の位が回ってくる公算は低い。内乱の影響もあり、東葉とうは西葉さいは両王家共に独身の王子がいなかったため、現在のところ王女の夫は皆王統家出身である。しかし、原則としては王女の夫は王子であることが望ましいとされている。特に王位を継ぐ王女の夫は王子であることが求められる。一の姫の夫は王統家出身であるが、王子不在のための特例扱いでもある。それだけに、三の姫所生の王子は将来的には女王の王配となる公算も高い。なまじ王位から遠い王女よりも、王子である方が権力に近づける可能性は高いことにもなる。

 義兄の言葉に、朱華はまたもや返す台詞を見失う。

 そもそも王子がいないからこそ、前代未聞の女性王統家当主が誕生したという経緯がある。下手な言葉を返せば、自身の存在を否定することにもつながりかねない。


「一の姫の婿が王統家出身なのだから、その大姫おおひめの夫が必ず王子である必要はないとも言えよう。そう意気込まずとも良い」


 一の姫の長女はいち大姫おおひめと呼ばれている。いずれ母が王位に就けば、自動的に次期王太女となる。

 朱華の代わりに口を開いたのは碧柊だった。ここまでの言動に対処できるのは彼しかいないとも言える。彼は真意の知れない笑みを含んだ声でそう言うと、朱華の手から瓶子を半ば強引に奪い、娘婿にさしだした。

 義父の言葉をどう受け取ったのか、それとももう頭も回らないほどに酔っているのか。茈枳は飄々とした表情のまま、酒杯でそれを受ける。


「そうですね、義父上。息子も一人と決まったわけでなありませんし。この調子でいくと、もう一人くらい必要となるかも知れませんね」


 茈枳はそう言うと、朱華に片方の口の端を上げてみせた。二人のやりとりに息を潜めていた朱華は、その表情に一瞬ぽかんとしたが、じきにその理由に気づいた。

 苴州に入ってから半年以上経つが、朱華は未だに夫を決めていない。いったん血筋の途絶えた家を継いだ以上、家中かちゅうや領民の不安を思えば褒められたことではない。一日でも早い後嗣の誕生が待たれていることは、朱華とて分かっている。このまま婚姻問題を宙ぶらりんにしていれば、いずれ茈枳の息子を後継に迎える話がでてもおかしくはない。


「恐れながら、姫君でも若君でも、尊きお血筋の弥栄いやさかは我ら臣民の最も望むところです」


 霜霖が遠慮がちに、だが明朗な声音で口を挟んだ。朱華はほっとしながら、霜霖をそっと窺い見た。

 彼は茈枳の子の誕生を祝うように、酒杯を掲げてみせた。そして、朱華に目配せするような一瞥を寄越した。咄嗟にその意図を読みあぐねた朱華に、彼は再び一瞬視線を向けた。そうしながら酒杯をさらに高く掲げてみせる。朱華はそれでようやくはっとする。

 朱華は茈枳と父の間にいる。奪われた瓶子は依然父の手元にあった。まだ中身はそれなりに残っているはずだ。先程の二人のやりとりに、王配も気づいていたようだった。無言でそれを娘に返す。その向こうで、霜霖が従僕にさらに酒を用意するよう指示していた。


「その通りです、義兄あに上。私にとってもはじめての甥ですから、都にて会えるのが楽しみです」


 そう言って瓶子を傾けると、茈枳は酒杯を差し出した。そして、酒杯を掲げた霜霖に応じてみせた。彼は一息に飲み干し、再び朱華に注ぐよう促した。朱華は笑みを浮かべてそれに応じながら、傍らに新たな瓶子が準備されたのを確認した。


「そういえば、そなたは酒豪だともっぱらの評判のようだね」


 義兄の言葉に、朱華は思わず苦笑いしてしう。


「酒豪だなど、そのようなことは――」

「なにを謙遜しておる、吾が酔いつぶれても白い顔をしておったではないか」

「父上までそのようなことを」


 横合いからの父の言葉に、朱華はむっとして抗議する。碧柊は揶揄うような眼差しを返してきた。


「義父上までそう仰るということは、相当なものだね」


 茈枳は片眉をあげた。碧柊は宴席で醜態をさらしたことはない。かと言って酒量を抑えているわけでもない。淡々といつまでも飲んでいることは知られている。


「ああ、母親はこれ一杯でじきに寝てしまうのだがな、いったい誰に似たのだろうな」


 王配は手にした酒杯を、娘の眼前で冷やかすように揺らしてみせる。朱華はかすかに頬を赤らめ、抗議するように父を見据えた。


「公がお強いことに関しては、私も同じ思いでございますね」


 霜霖までが便乗し、朱華はますます顔を険しくする。


「霜霖、そなたも潰されたそうだな。朱華、諦めよ。そなたの武勇伝は吾の耳まで届いておる」

「……いうに事欠いと武勇伝とは、また不本意な言われようです」


 本気で気を悪くした朱華に、霜霖が宥めるように提案した。


「ならば公、ここは一つ、義兄あに上に汚名を雪いでいただくのは如何ですか? 茈枳殿と飲み比べして頂いては?」

「ほう、それは良い考えだな。そなたの飲みっぷりも吾の耳に届いておる。なかなか見事なものだそうだな。義妹との飲み比べ、さて、どちらに軍配が上がるであろうな」


 義父から意味ありげな一瞥を受けた茈枳は一瞬険のある表情をのぞかせたが、己の傍らで不満顔をしている義妹を見ると口の端を上げた。


「それは面白い趣向ですね。義父ちち上のお手前、まさか妻の妹に闘飲とういんで負けるわけにはいきませんね」


 すっかり当初の企てを忘れて憤慨していた朱華は、義兄から挑むように微笑みかけられてようやく我に返った。すかさずしおらしい笑みを返し、戸惑うように目線をそらした。


「――お手柔らかにお願いいたします、義兄あに上」


 朱華が伏し目がちではにかんだように微笑すると、茈枳は舌なめずりするような笑みを浮かべた。


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