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雪の陰翳  作者: 苳子
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第8章 7

 彼は抜きん出て背が高いわけではないが、すらりと均衡のとれた容姿をしている。一見してすぐ分かる美男子で、顔立ちも派手だが、声や表情、まとう雰囲気も明るい。


義兄(あに)上……」


 呼びかけに笑顔で応じながらも、密かに溜息を吐いた主人に、珂瑛と霜罧は目配せを交わした。

 茈枳(さいき)は朱華の来るのを待たずに歩み寄って来た。


「久方ぶりだね、我が義妹(いもうと)よ。元気そうでなによりだ。それにまた一段と美しくなったね、光り輝くようだ」

「ありがとうございます。こちらこそ、すっかりご無沙汰を……」


 朱華は最後まで口上を述べられなかった。ざわっと周囲も騒めく。


「他人行儀なことを言うものではないよ、義兄妹の縁は切れるものではないのだかね」


 茈枳は義妹を抱き寄せると、子供にするように頭を撫でながら言い聞かせるように話しかけた。


「義兄上……」


 朱華は困惑顔で口ごもった。昔からのことなので、特に動揺はしていない。身内では男女の区別なく抱擁の挨拶は珍しいものではないが、もとは他人同士である義理の間柄ではありふれたことではない。だが、相手が幼い子供であれば普通のことでもある。

 銀華が結婚した時、朱華はまだ十一歳だった。茈枳もまだ当時十五歳。さすがに年上の一の姫二の姫にはしなかったが、幼かった朱華と五の姫は会えば必ず抱擁された。男性に対して潔癖なところのある五の姫は逃げ回り、朱華は憮然としてなされるがままだった。

 しかし、今や朱華は嫁き遅れと言われてもおかしくないほどの年齢であり、茈枳は一児の父でもある。


「義兄上、その……」


 朱華は言いづらそうにしながらも、茈枳の体をそっと押しやる。義兄は怪訝な顔だったが、朱華の顔と周囲の雰囲気からようやく察してくれたようだった。


「これは失礼したね。いつまでも十一の幼い子のつもりで接していたようだ。このような麗しいな淑女を相手に誠に申し訳ない」


 彼は何事もなかったかのように朱華を解放し、悪気など全く感じさせない笑顔で詫びる。元来持ち合わせる空気が明るいので、確かに大したことではないように感じさせてしまう。


「しかし、久しぶりに改めて会ってみると、まことに美しくなったものだね。我妻に負けず劣らずではないかい? やはり〝葉の五人姉妹〟の名は伊達ではないね」


 頭の先から爪先まで何度も吟味するように眺め、感心したように褒めそやす。朱華は居心地悪い思いをしながらも、なんとか笑顔を維持していた。

 そこへ遠慮がちに初老の男が口を挟んできた。


「王配殿下がお待ちです。そろそろ中へお入りになられてはいかがでしょう」

「ああ、城代の言う通りだね。足止めをしてしまったようで申し訳ない。積もる話はまた後ほど」


 茈枳はあっさり引き下がった。

 朱華だけでなく、苴州将軍代行の珂瑛もまだ王配への挨拶をすませていない。実の娘を迎える王配からは、一泊して体を休めていくよう事前に申し入れがあった。そのためにささやかな宴も予定されている。宴の準備がある以上、賑やかし好きの彼が加わらないはずがない。

 茈枳から解放されてほっとしていると、城代と呼ばれた男が案内を申し出た。その後に続いていると、並んで歩いていた霜罧が声を潜めて話しかけてきた。


「よく我慢なさいましたね」


 即座に返答せずにちらりと見れば、彼は面白がっているのを隠しもしない。


「他人事だと思って楽しんでいたわね」

「公が私と同程度には苦手とされてきた方ですから」

「趣味が悪い」

「申し訳ありません」


 主人にじろりと睨めつけられ、彼は悪びれたようすもなく頭を下げてみせる。


「悪いなどと欠片も思っていないのだろう」

「お望みでしたら、いつでも代わりに対応させていただきますよ」

「それは昨夜却下したはず」

「そうでしたね、失礼いたしました」


 口先だけは殊勝に詫びる霜罧に、朱華は諦めたように肩をすくめた。


「無難に対処しておられたように見受けられましたが、まだ苦手でいらっしゃいますか?」

「相変わらずでいらしゃる限りは……もはや、そなたよりかもしれぬ」


 朱華のため息交じりの呟きに、霜罧はおやと眉をあげる。朱華も思わず漏らした言葉にぎょっとなり、隣の彼の顔を見てしっかり聞かれたことを悟ると、また溜息を吐いた。


「私の聞き間違いでなければ幸いですね」


 心なしか喜色の混じった声に、朱華はふんと鼻先で笑う。


「比較対象が対象だ、それで喜べるとはそなたも安いな」

「己の価値は分かっておりますので」

「それは重畳」


 冷たくいうと、話は終わりというように手を振った。霜罧は愉快そうに頷いた。




 朱華から父である王配への挨拶はじきにすんだ。苴葉城での再会からさほど日数も経過していないこともあり、あっさりと終了した。

 一泊するために充てがわれた客間に引き上げ、ようやくほっと息をついた。

 前線の城であるため、王族用の客間であっても狭い。従者のための控えの間もない。一泊のための荷を解き、夕瑛は細々しく動き回っている。


「今朝のあれは噂になっていない?」


 夕瑛は手を止めず、ちらりと主を一瞥した。朱華は炉の前に椅子を寄せ、暖をとっている。州都と違い、山間部は未だに冬の寒さを思わせる。三日間にわたる騎行での寒さと疲労が蓄積し、疲弊しているのは夕瑛にもわかっていた。夕瑛自身も慣れない騎馬での旅に、かなり消耗している。主には見せないようにしているが、自分でも歯噛みしたくなるような小さな失敗をしてしまうようになっていた。幸い、主の生活に支障をきたすほどではなかったが。


「茈枳さまの奇行は昔から有名ですし、実際、義理とはいえ姫さまとはお身内ですから」

「――奇行ね」


 朱華は思わず小さく笑い、それから乳姉妹を振り返った。声に張りがなく、動きに鈍さが見え隠れする。彼女よりも騎馬には慣れている自分ですらこの体たらくなのだ。慣れない彼女が疲れていないわけがなかった。


「夕瑛、しているそれは、今する必要があるの?」

「いえ、そういうわけでは――ただ、後回しにするのは性に合いませんので」

「そなたは基本的に働きものね。怠け者の私とは対照的だわ――けれど、後回しでいいならここにかけなさい」


 朱華はそういうと椅子を空け、自分は炉の前の床にじかに座り込む。


「姫さま、そのようにはしたない真似は」

「そなたしかいないから構わない。それより、そなたに倒れられるほうが困るの。主命よ、座りなさい」


 朱華はきつい口調で言いつけ、不承不承のようすの夕瑛を無理やり炉辺に座らせる。不満げな乳母子めのとごに動かないように命じ、手ずから香草茶を淹れて彼女に手渡した。自分の分も淹れ、茶器を片手に炉辺の床にじかに腰をおろした。


「姫さま……」


 困り果てたようすの乳姉妹に、朱華は微笑みかける。


「これで勘違いするようなそなたではないでしょう。私は本当にそなたに感謝しているのよ。そなたがいないと困るの。だから私の命には従いなさい。ここでの雑用は霜罧になんとか手配させるから、そなたは休息に専念なさい。そんな顔をして、私に分からないと思っているの? そなたと同等に、私はそなたを大切に思っているのだから」


 そういって、朱華は夕瑛の膝を叩いた。笑みを浮かべて滾々と言い聞かせても、夕瑛の困惑の影は消えない。朱華はそれに構わず、心地よさそうに暖炉の火の恩恵に目を細めた。

 そこへ、扉が控えめに叩かれた。立ち上がろうとする夕瑛を押しとどめ、朱華自ら扉を開けに立った。


「――霜罧か」


 いきなり主人の登場に、さすがに霜罧も咄嗟に返す言葉がなかったらしい。かつてないことでもあった。朱華はそうと悟ると彼に入室するよう身振り示した。それに従う間に気を取り直した霜罧は、炉辺の椅子で居心地悪そうにしている夕瑛と目配せを交わしていた。


「夕瑛の体調が優れない。ここにいる間、外回りの従者を手配できない?」

「――ここで女性は難しいですが」

「外回りのことだけでいいから男性でも構わない。私なら自分のことは自分で大概のことはできる。それ以外のことは他の女官にでも」


 おやと言いたげな霜罧に、朱華はなんでもないように返す。


「戦場に出る可能性もある以上、自分のことは自分でできなくてはね――枳月殿もそう言っていたから」

「枳月殿下が」


 霜罧のなにか含むところのありそうな口ぶりには気づかないまま、朱華は心配そうに夕瑛を見る。


「父上も一通りのことはおできになるそうよ、戦場で一人はぐれて数日過ごしたこともあると仰っていたし。第一、苴州の主人になる以上、そのくらいの覚悟はしている」

「……そのようなことにならぬよう最善を尽くしておりますが、物事というのはどうなるかわからぬものですからね」


 霜罧はそう応じると、朱華の要望に応えるために一旦部屋を辞した。そして速やかに外回りの少年の侍従の手配をつけると、また戻ってきた。


「お寛ぎのところ申し訳ありません。先に打ち合わせしておきたいことがございまして」

「宴のこと?」

「はい。話が早くて助かります」


 朱華は頷くと、炉辺の敷き物に直接座り込んだ。夕瑛はなんとも居心地悪そうな顔で、椅子にかけている。朱華はそれには気づかない。


「気づいたのだけど、ここが一番暖かい。そなたもそこにどう?」


 朱華は少し体をずらし、一人分の空間を作る。霜罧は苦笑いする。


「ありがとうございます、しかし……」

「そこから主人を見下ろして話を続けるつもり? 私もこの姿勢は首が痛い」


 朱華はそう言うと、立てた片膝に顎をのせて背を丸めてしまう。幼い頃より寒さを苦手としてきた彼女を思い出し、霜罧は微苦笑する。視線を感じれば、夕瑛が愉快そうに彼を見ていた。


「承知いたしました。恐れながら隣に失礼いたします」

「私が構わないと言っているのだから、最初からそうすればいい」


 朱華は顔を上げると不満そうに言い、また背を丸めた。霜罧は仕方なさげにため息をついた。


「今後はそう致しましょう」

「ただし、私か霜罧殿だけの時にしてくださいまし。姫さまは段々お行儀が悪くなられる一方で」

「場所と相手は選んでいるのだから構わない」


 朱華は振り返って夕瑛にきっぱりと言い返し、また膝に顎を乗せる。


「私はその相手に選ばれたということでしょうか?」


 炉辺に腰を下ろしながら、霜罧が問いかける。


「行儀の悪さでそなたの想いが冷めるなら、一石二鳥」

「なにを仰いますやら。不愛想な姫君ともっぱらの御噂の幼少のみぎりからお慕いし、さらに忌み嫌われ八つ当たりされても変わらなかったものが、斯様なことでは今更揺らぎませんよ」


 霜罧は遠慮がちに距離を置いて敷き物に腰を下ろし、からりとした笑みを朱華に向けた。朱華は嫌なことを聞かされたように顔をしかめ、また溜息をつく。


「そなたはまことに変わり者ね」

「ご承知頂いておいた方が私も助かります」


 婉然と微笑して見せるのに、付き合いきれないと言うように朱華は肩をすくめた。


「で、宴の件とは?」

「席次が決まったようです。公の隣は王配殿下、下座側の隣が私になります。王配殿下の、公とは反対側の隣があの方です」

「……近いわね」


 朱華は膝頭に顎を乗せたまま、ふうっと息をついた。気の重い心内を隠そうともしない。その様子に、霜罧は密かに微笑する。


「なるべく私がお相手するように努めましょう」

「頼むわ」

「姫にも頑張って頂かねばなりませんよ」

「何?」


 朱華は不審そうに彼を見る。


「幸い、あの方は酒豪だという噂は聞きません。この際です。酔い潰してしまった方が厄介ごとにならずに済むかと」

「……それを私にしろと?」

「残念ながら、私はさほど強くありませんので。それに、女性から注がれた方が断りにくいでしょう」


 にこやかに言い切る霜罧を、朱華はじろりと睨みつけたが、結局は肩を落とした。


「わかった」

「うわばみ姫の御名に相応しいご活躍を期待しております」

「そなたも潰してやろうか?」

「一度経験しましたので、ご遠慮申し上げます。第一、あの方より先に私が潰れたらどうなさいますか?」


 にやりと笑みを向けられ、朱華は苦虫を噛み潰したような顔をする。


「そなたは本当に嫌な男ね」

「申し訳ありません」


 背後から、たまりかねたような夕瑛の忍笑いが漏れてきた。



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