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雪の陰翳  作者: 苳子
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第8章 6

 山脈の裾がなだらかに傾斜する地に、その平山城はあった。

 有事の際には立てこもることが前提となる。山裾からかなり外れた飛び石のように突き出た丘陵に築かれている。城郭をめぐらせた足元には深い堀が掘られ、常に水に満たされている。跳ね橋を上げてしまえば、攻めるのは難しい。

 その跳ね橋を渡りながら、朱華はあたりを見回していた。跳ね橋の下にも深い堀がある。高い門塔から続く同じ高さの城壁は堅牢で、足場となりそうなものは見当たらない。州都の()州城よりもその守りは固そうだった。

 その向こうには白い山々と、まだ雪に覆われた大地が広がっている。


「姫さま、あまりぽかんとなさっては威厳にかかわります」


 傍らから夕瑛が馬を寄せて囁いた。朱華は慌てた様子を見せないようにしながら、乳母子に苦笑いを返す。

 門塔を潜るとすぐに、馬溜(うまだまり)の正方形の平地である曲輪があった。そこを曲がった先にもう一つ門が設けられ、その頑丈な扉は開かれている。

 その門塔を潜っても、さらに道は折れ曲がり、いくつもの曲輪(くるわ)と門を過ぎる必要があった。高い城壁に視界は遮られ、次第に方向を見失っていく。最後にはどちらを向いているのかわからなくなってしまった。

 導かれるままに城の深部まで進んだところで再び広い空間が開け、そこで行き止まりだった。その背後にはいくつもの尖塔を従える天守塔が聳え、唯一の入り口は正面入り口の門塔とさして変わらぬような堅固さを放つ門だった。

 その門の前で朱華を出迎えたのは、三日早く州都を発った珂瑛(かえい)だ。州兵の総数では国内最大規模の軍を率いての行軍に、数十人規模の領主一行が追いつくのは容易い。

 苴州軍の駐屯地はここより更に北方となる。だが、その手前に駐屯する王配を、平時に無視して通過するわけにはいかない。珂瑛の挨拶のための登城は、朱華の到着を待って行われることになっていた。

 天守塔の門まで騎乗できるのは王族だけと決まっている。王統(おうとう)家当主であっても、もっと手前での下馬が求められる。身分によっては城に入る手前で下馬しなければならない。勿論、平時に限られたことではあるが。

 そんな中、朱華は当然のように王族待遇を受けていた。




珂葉(かよう)茈枳(さいき)様から異議があったそうです」


 前日の夜、霜罧は珂瑛の使者からの報告をそう伝えていた。


「茈枳殿?」

「珂葉公弟、銀華さまのご夫君です」

「ああ、義兄(あに)上ね……」


 朱華は一瞬遠い目をして呟いた。その表情に、霜罧は同情するような苦笑いを浮かべた。


「なんと?」

「端的に言いますと、もう王族ではないのに特別扱いは如何なものかというようなことを仰られていたとか」

「ああ……」


 朱華は力なく呟き、既に疲れ切ったような表情で彼を一瞥した。


「珂瑛がわざわざそう言って寄越したということは、明日、義兄上はまだそこにいる予定だということね」

義妹(いもうと)君と親交を深めたいご所存ではないでしょうか」

「……さっそく息子を売り込んでくるつもりかしらね」

「あの方のことですからありえますね。公から先にお祝いは口になさった方がよろしいでしょう」

「となれば、自ずと私の後継ぎの話になりそうね」

「にっこり微笑んで曖昧になさっておられれば大丈夫でしょう、あの方相手なら。問題は珂葉(かよう)公です。間違っても言質を取られないようにお気をつけ下さい。幸いなことに明日、顔をあわすことはありませんが」


 億劫そうに頷く朱華を、霜罧が嗜める。


「珂葉公と会うときはそなたに同席してもらうから、構わない」

「私が出席できない会議ではどうなさるおつもりですか」


 実際に霜罧を伴うことのできない会議は複数ある。もっともな言葉に朱華は黙り込んだ。その様子に彼は微苦笑し、話を本題に戻した。


「天守塔の前までの騎乗を許可なさったのは王配殿下です。お言葉通りになさった方がよろしいでしょう。苴葉公は文字通り特別なのですから」

「しかし、私はもう臣籍降下したのだから他の公と変わらないでしょう」

「一代限りとはいえ、引き続き公の王族待遇を決定なさったのは女王陛下です。それに難癖をつける茈枳殿こそどういうおつもりか……おそらく、公の王族待遇が面白くないのでしょうが」


 妻が王女であっても、夫自身が王族でなければ妻と同じ待遇は得られない。同じ王族であっても、王女と王子も扱いは異なる。最も高位は女王であり、次は王太女、以下は王位継承順位となり、男性王族はその後である。

 その次が王統家となるが、こちらは男性優位となる。西葉王家を祖とする西葉王統家八門と、東葉王家から派生した東葉王統家四門の計十二家が存在する。各家の当主が準王族扱いとなり、中でも西葉王統家八門筆頭の嵜葉家と東葉王統家四門筆頭の苴葉家は一段高い家格とされる。表向き王統家の家格に東西の差はないとされてはいるが、千年以上の由緒を誇る嵜葉家とせいぜい百年程度の歴史しかない苴葉家を同格に扱うには無理があるというのが、これまでの世の認識だった。

 だが、朱華が臣籍降下し苴葉家を継いだことで、その立場は突出して高いものとなった。他の王統家の初代は皆王子であり、王女を始祖とする家は他に無い。さらにその母である青蘭は、王家の御先みおやである女神さながらに自らも戦場に立つこともあり、内乱を治め、葉を一つにまとめあげた。

 女神と女王を同一視する風潮もあり、五人の王女の存在も、他の世代より重く扱われている。

 正しく現代の女神の娘を、その領主に迎えることになった苴州の民は文字通り狂喜した。

 対翼波戦では最も被害を被ってきた苴州の民は次第に不満を募らせていた。挙句に当主の討ち死にとお家断絶である。朱華の苴葉家の名跡継承はその慰撫のためでもあった。戦の最前線である苴州の民の士気の低下は、国防にも悪い影響をもたらしていた。

 朱華の苴葉公就任は各王統家間の均衡を保ち、苴葉家の筆頭の家格を維持するためでもある。期待される役割はいくつもある。元王女というだけで、意味もなく厚遇されているわけではない。


「……まぁ、確かに陛下の決定に異議を唱えるなど、いくら王女の女婿だからといってもね……けれど、あの義兄上なら言いかねないという見解もあるわね」

「それを見越して、あえて珂葉公が弟君に言わせている可能性もありますね」

「二の義兄上と同じ待遇を要求なさった方でもあるわけだし」


 朱華は溜息をついた。霜罧は苦笑いして肩をすくめた。

 相婿間であっても長幼の序は存在する。次女の夫と三女の夫が同格であるわけはないのだが、彼はそれを求めた。正確には第三王女が要求したのだが、彼女が夫の言いなりになっていることは周知の事実でもある。


「あれだけ求婚者のいらした姉上なのに、なぜあのように義兄上のご機嫌とりのようなことをなさるのか」


 首を傾げる朱華に、霜罧はまた微苦笑する。

 確かに銀華には多くの求婚者がいたが、現夫はその中には含まれていなかった。当代一の美男だった彼に三の姫が惚れ込み、反対を押し切ったような一面もある。欲しいものが手に入らなかったことのない彼女の性質を逆手にとり、珂葉公の指図であえてつれない態度をとったのではないかという憶測もされたが、貸す耳を持たない三の姫には通じなかった。


「男女の間のことは、当人たちにしか分からないことが多いですからね」


 何やら感慨深げな彼の声音に、朱華は物問いたげな顔をしたが、結局は黙した。


「再度申し上げますが、王配殿下のお指図通りに堂々となさっておられればよろしいかと存じます」

「分かった、そうする」


 気のない返事に、霜罧の片眉が上がる。


「それよりも気の重いことがおありでしたね」


 なにやら笑みを含んだ声音が気に障り、顔を上げれば、霜罧は同情するような面白がるような微妙な目で朱華をみている。朱華は眉間に皺を寄せた。


「他人事だと思って面白がるのはどうかしら」

「面白がるなど」

「ほら、またそのような顔をしている」


 薄く整った唇の端がわずかに上がっているのを、朱華は見逃さない。指摘を受けた霜罧は長身を優美に曲げて詫びてみせたが、口元に浮かんだものはそのままだった。朱華は小さく息を吐き、諦めたように肩を落とす。

 悪意を感じられる揶揄いは影を潜めたが、それ以外は相変わらずだった。眉を顰めることは依然少なくないが、ふざけ合いと解釈できないこともない。朱華自身、彼に苛立つことは減っている。


「義兄上のお相手もそなたに頼もうか?」


 自棄気味の投げやりな呟きに、霜罧は艶然と笑んで承る。


「私でよろしければ」


 その笑みに、朱華はぞっとしない表情で「戯言よ」と慌てて取り消した。




 天守塔の前で、珂瑛自ら朱華の騎馬の轡をとる。朱華は用心しながらも、なるべく颯爽と見えるよう心がけて馬からおりた。鐙に片足を引っ掛けたまま落馬した感覚は、なかなか体から抜けてくれない。

 地面に降り立つと、結い上げた髪が大きく揺れる。春先のうららかな日差しに艶を帯びて揺れる黒髪に目を細めながら、珂瑛は手綱を受け取った。

 毛皮の外套に身を包み、多少着ぶくれてはいても、朱華の上背のあるほっそりとした容姿は人目を惹く。


「長旅、お疲れでございましょう」

「このくらいの道程、なんということはない」


 珂瑛の労いの言葉に、朱華は短く応じ涼やかに笑った。女性にしてはやや低めの落ち着いた声は心地よく響き、凛としつつもどこか艶やかな笑みと相まって周囲を魅了する。そのまま辺りを一瞥すればざわついていた空気が一瞬治った。

 この朝、夕瑛は主人の化粧を極力薄めに仕上げていた。肌はみずみずしく見せ、目元の涼やかさを強調しつつもあくまで自然に。軍装と濃い化粧は相容れない。だからといって、素顔のまま王配と面会させるわけにはいかない。人によっては化粧していないようにすら見える絶妙な仕上がりは、彼女の渾身の作だった。

 夕瑛は主人の背後で、その出来栄えの効果に満足していた。王都にいた頃から、夕瑛は自分の乳姉妹こそが葉の五人姉妹の中で一番美しいと密かに思ってきた。特に最も美しいと囃される銀華などは派手なばかりで品もなく、けばけばしいだけだと内心密かにけなしていた。彼女の実の姉妹である朱華には、おくびにも出したことはないが。

 王配も言っていたように、主人はここに来て急速に美しくなった。同性である自分も見とれてしまうことがあるほどだ。男装する機会が多いため、麗人ぶりがさらに際立つ。かえって女性らしさが強調され、男性の目をひいていることには、本人はまったく気づいていない。


「これはこれは、正しく女神の再来ではないか!! しかも、誰かと思えば我が義妹いもうととは!!」


 朗々とした声が広い空間に響く。朱華は僅かに肩を震わせた。天守塔の堅牢な扉の前に、派手な男が立っていた。





補足

“天守塔”は造語ではありません。キープの訳語です。集中式城郭っぽい構造を想定して書いていますが、実のところ理解しきれておらず、間違っているかもしれません。

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