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雪の陰翳  作者: 苳子
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第8章 5

 天幕に戻るころにはすっかり日は暮れていた。野営地のあちこちに火が焚かれ、食事の支度も始まっている。朱華は空腹を刺激する匂いに唾を飲みたくなるのを堪えながら行き過ぎ、自分の幕舎に戻るとふうと息を吐いた。

 内部にも火が焚かれ、ほのかに暖められている。脱いだ外套を夕瑛に手渡し、朱華は椅子に座り込む。


「お寒かったでしょう」


 手袋をとり、火鉢に手をかざす朱華に、夕瑛が湯気の立つ香草茶を差し出す。そうしながら、ふと目をとめた。


「唇にお傷が――またですわね」


 物心つく前からの長い付き合いの彼女は、朱華の癖など知り尽くしている。咎めるようにため息を吐かれ、朱華はしまったと肩をすくめた。両手で受け取った茶器が揺れ、中身をこぼしそうになる。


「霜罧殿となにかありましたか?」


 霜罧と集落の跡を見に行く前にはなかった傷だ。さらに朱華は霜罧に対して蟠りがある。夕瑛の懸念も無理もないことではあった。


「これは霜罧とは関係ない……というか、霜罧が原因ではないわ――話の行き掛かり上、そうなったのではあるけれど、彼と諍いがあったわけではないわ」


 詳しい理由を話すわけにもいかず、朱華はそう言葉を濁す。


「諍いがあったわけではないのですね」

「諍いというよりも、私が――自分ではなにも出来ないことが歯がゆかっただけというか……」

「それで、そのようなお傷を? 血が固まって黒くなっておりますよ」

「じきに治るわ」

「そういう問題ではありませんでしょう? わかっていらっしゃる癖に」


 夕瑛はわざとらしく溜息をつき、朱華の外套をあらためて手に取り、手入れをはじめる。そして、じかに手を止めた。


「これは姫さまのものではありませんわね」


 振り返った朱華の目の前に、見覚えのあるものがぶら下がっていた。しまったと顔をしかめたところを、乳姉妹の悪戯っぽくきらめく瞳が覗きこむ。


「霜罧殿のものですわね? 血がついていますし」


 それは彼から借りたというか押しつけられた手巾だった。朱華は溜息をつきながら認めた。

 自分の持ち物の一切の管理は彼女がしており、手巾一枚とて手入れを怠らない。女官長としての意地だというが、本来彼女はそのようなことをすべき身分ではないのだが。一度は身分に不釣り合いであることを指摘し、他の者に任せることも提案したが、そもそも主人である朱華が、王女でありながら特異な立場にあるのだから構わないはずだと譲らなかった。


「霜罧殿の、ですか?」

「悪い癖だと指摘されたのよ」

「それだけですか?」

「それだけよ」

「あの方のことですから、悪い癖を指摘して終わりではなかったのではありませんか?」


 夕瑛の言葉に朱華は驚きをみせ、それからしまったという顔をする。


「やはり、ですわね」

「人が悪いわね、その笑い方はよしなさい」

「霜罧殿はなんと?」

「夕瑛」


 嗜める険しい声音にもめげず、夕瑛は食い下がる。


「あら、なにか甘い囁きでも?」

「そんなものはないわ。自分の不甲斐なさに歯噛みするのは、私の長所だといわれただけよ」

「あら、ありふれた美辞麗句よりもよほど真心に溢れた言葉ではありませんか。真に霜罧殿は姫をお慕いなさっておられるのですね」


 夕瑛は感心したように朱華の顔を覗きこむ。好奇心を隠そうとしないその瞳の煌めきに苦笑いし、朱華は背もたれに身を預けて溜息をついた。


「似たようなことなら、枳月殿にも言われたことがあるわよ」

「あら、初耳ですわね」


 夕瑛は朱華が明かさなかったことを咎めるように、わずかに顔をしかめた。


「いちいちすべてを、そなたに話すわけがないでしょう。第一、そなたとて、なんでも私に話しているわけではないと言っていたではない」

「それとこれとは別ですわ、姫さまにはお幸せになってもらわねばならないのですから」

「あのねぇ――だいたい、私自身、今の今まで忘れていたのだから」


 朱華は微苦笑し、食い下がる夕瑛を嗜める。と同時に、その際のことをあらためて思い返していた。

 己の情けなさに自己嫌悪に陥っていた朱華を、彼は励ましてくれた。それなのに、朱華はなにやら憤って泣きそうになったのだ。その理由について、その時考える余裕はなかった。今になってみても、はっきりとした心当たりはない。ただ、あの時の朱華はまだ彼の秘密について知らなかった。それが関係あるとは思えないが。


「苴州入りしたばかりで、あまり余裕がなかった頃だったわね。まぁ、今とてあるわけではないけれど。苴葉公などという大役引き受けたはいいものの、正直どうすればいいのか分からないし、自分の至らない部分ばかり目について、ぎりぎりだったのでしょうね。列浪や霜罧にも、無能な主人だと見做されているのではないか思ったりもしていたわ」

「私と共にはじめて城下に降りられた頃ではありませんか?」


 夕瑛の言葉に、朱華は小首を傾げた。


「その頃かしら?」

「今だからこそ申し上げますが、あの頃は霜罧殿に対してもいっそう刺々しく接しておられましたし。姫さまには長くお仕えしてきましたけれど、あの頃が一番荒れておいででした」


 その台詞に、朱華は顔を強張らせた。


「それほどまでに酷かったの?」

「ええ、まぁ」


 夕瑛は苦笑いし、背後からそっと彼女の肩に触れる。これを聞いて落ち込まない人間ではない。


「私は本当に……」


 案の定、朱華は頭を抱え込むようにして項垂れた。


「ご無理もないかと存じますが、霜罧殿にも少しは感謝なさってもよろしいかと。まぁ、あの方は、姫さまの気がひけるなら、なんでも構わないようでいらっしゃいますが」


 夕瑛は気の毒がるような面白がるような、なんとも複雑な口ぶりだった。朱華は溜息をつき、自分の肩に手を乗せたまま正面に移動し、膝をついた乳母子をちらっと一瞥する。

 夕瑛は主人の手から無言で茶器を受け取り、傍らの小卓に置いた。冷めた茶が半分ほど残っており、わずかに触れた指先はまだ冷えていた。


「私の気を引こうとしているうちに、迷走してしまったようなことは言っていたわね……てっきり、そういう趣味で私に絡んでくるのだとばかり思っていたのだけれど」

「もし、そういう趣味でいらしたのなら、姫さまにだけということはないのではありませんか?」

「虐めやすい、虐めにくいはあるでしょう」


 朱華はやや拗ねたような口ぶりでこぼす。彼女の立場や性質上、いびる相手に適しているとは言い難いというのが、夕瑛の感想だが、言葉にはしなかった。


「まぁ、そうですが……けれど、誤解はとけたのでございましょう?」

「まさか、好かれているとは思わなかったけれどもね」

「可愛さ余って憎さ百倍ともいいますわ」

「似たようなことは言っていたわね」


 朱華はなんとも言えない心地で肩をすくめた。霜罧の言葉は覚えているが、その心情は理解し難かった。


「器用なようでいて、不器用な方ですわね。側から見る分にはその迷走ぶりが微笑ましくもありますが、当人と姫さまは大変だったでしょうけれど」

「大変などというものではなかったわよ」


 朱華は憤然と言い返す。


「幼い頃から理由も分からないまま絡まれて、挙げ句の果てには苴州までついてくるのだから。そこまでして私を虐げる意味がわからなかったわ」

「……姫さまは怖がっておいでだったのかもしれませんわね」

「怖がる?」


 納得しかねる顔で、朱華は苛立ちを見せた。


「理由も不明なまま一人だけ標的にされ続けるのは、私ならば恐怖を感じますけれど?」


 夕瑛の言葉に、朱華は黙り込む。


「側から聞くには些細な言葉でも、本人にとっては受け付けられないこともありますものね。それに、姫さまは黙って言われるがままでいらしたわけでもありませんでしたし。霜罧殿はどのようなものであれ、姫さまの反応が欲しかったのかもしれませんが。間違った方法には違いありません。その結果が、霜罧殿が言動を改めようにも全て姫さまには悪く聞こえるという悪循環だったわけですから。霜罧殿が気の毒にも思えましたけれど、あの方は自業自得ですから前言撤回いたしますわ。けれど、誤解がとけたのでしたら、姫さまも態度を改めなければいけませんわよ。あの方とはこの先長く関わっていかなくてはならないのですから。蓋を開けてみれば、姫さまに一途な純情な殿方のようですし、利用しない手はありません」

「利用って、夕瑛、そなた最近言うことが腹黒いというか」

「姫さまこそ、いつまで綺麗事を言っておられるのですか。もう苴葉公でいらっしゃるのです。姫さまの肩には苴州がのっているのですよ、綺麗事でやっていけるわけがありませんわ。まぁ、姫さまのご性分には合わないでしょうから、割り切るくらいになさって、そういうことは霜罧殿にお任せになればよろしいのではありませんか? あの方は、姫さまに関して以外は抜かりのない方ですから」


 にこりと笑った夕瑛に、朱華は複雑な顔を見せた。


「以前、霜罧本人からも同じようなことを言われたような気がするわ。なんだか、気味が悪いわね、そなたたち」

「姫さま第一は同じですから、発想が似てくるのかもしれませんわね」


 夕瑛はしたり顔で頷く。


「なんにせよ、霜罧殿には姫さまに惚れた弱みと長年の負い目がおありですから、多少の無理難題もなんとかしてくださいますわ、きっと」

「……それは少し悪辣ではなくて?」

「ほら、また綺麗事を仰る。使えるものはなんでも使わなくて如何なさいます。もちろん、それには私や兄珂瑛(かえい)も含まれます。なにも他者のことばかり申し上げているのではありませんわ」


 朱華は夕瑛の言葉にしばらく考え込んだ後、躊躇いがちに切り出した。


「そなた、以前に私に覚悟があるならなんでもすると言ったわね……それは、そなたの実家(かん)家が巻き添えで滅びかねないようなことであっても?」

「何度でも申し上げますが、その覚悟は常にございます。王家の御子の乳母をつとめるということは、そういうことでございましょう。一族をあげてお仕えする以上、その御身にふりかかる栄枯も共に。過去にいくつの家が絶えたり、没落したことか。その反対もまた然り。今ならば霜罧殿のご実家が、まさにそうでございましょう」


 その言葉に、朱華はしばらく黙り込み。


「乳母子だから、共に育ったというだけで、そこまでできるものなのかしら。そなたには悪いけれど、私が王位に就く可能性はなくなったのだから、坩家が被る見返りは大したものではないでしょう」

「元々坩家の家格はさほど高くはありませんから……失礼ながら、姫さまが王太女でいらっしゃったなら、乳母のお役目は他家にまわったことでしょう」

「言葉を選ぶ必要はないわ、それは事実だから」


 朱華は苦笑しながら、あっさりと手を振った。実の姉妹以上の間柄であっても、身分差は存在する。主人の機嫌を損ねることなど気にせず苦言を呈することのできる夕瑛だが、分は弁えている。


「むしろ、姫さまが苴葉家をお継ぎになられたことで、予想外の恩恵を被っております。

 中級貴族の次男に過ぎぬ兄が、代役とはいえ、葉最大規模の苴州軍の指揮をとることになるなど誰が予想したでしょう」

「……それについては申し訳ないと思っているのだけど、まぁ、悪い話ではないでしょうし……」

「一時的なものとは言え、身に余る栄誉には違いありませんわ。あとは兄が無事に、枳月殿下に指揮権をお返しできればいいのですが」

「……しばらくは無理かも知れないわ」

「殿下のお加減は左様に思わしくないのですか?」


 夕瑛は眉をひそめ、気がかりそうに朱華を見た。

 枳月は表向き急な病を得て、療養を余儀なくされていることになっている。さすがに代役をつとめる珂瑛はそうではないと知っているが、枳月の任務については一切知らされていない。

 夕瑛に真相を話すわけにもいかず、朱華は言葉を濁す。


「そうね、今のところはまだ復帰の目処はついていないようね」

「ご心配ですね」

「ええ」


 実際はどうであれ、彼女の言葉は朱華の心情と一致する。夕瑛は励ますように、主人の肩にそっと触れる。


「……姫さま、姫さまは私にとっては何よりも誰よりも大切な方。もし、この先子が出来たとしても、私は自分の子の命より姫さまのお命を優先するでしょう。もちろん、私の命よりも」


 何度もお話ししたかと思いますが? と、夕瑛は小首を傾げて微笑する。


「そなたの子より?」

「そうですわ。姫さまのお子の乳母を務めさせていただき、親子でお仕えできれば、それ以上の望みはありません」

「そなたの子と私の子が、また私たちのような関係を?」

「姫さまが望んでくださいますなら、是非」


 夕瑛はにこりと微笑む。


「もし、もしもだけれど――この先、私たちが二度と会えぬような事態になったら、そなたは自分の子に何か託す?」


 朱華の唐突な問いに、夕瑛は一瞬押し黙り、それから小首を傾げた。


「――そのようなことになるのでしたら、私の代わりに姫さまにお仕えしてもらいたいところですが……それも無理でしたら、私の気持ちだけでも託したいかもしれませんわね」

「気持ち?」

「どこに居ようと、私の心は姫さまのおそばにあります、と。私はきっと命ある限り、姫さまのことを想い続けるでしょうから」


 朱華は驚いたように目を瞠った。その目尻が滲み、やがて雫が一つ頬を伝う。その感触に当人も驚いたように掌で拭い、夕瑛も慌てた様子だった。


「いったい、どうなさいましたの?」

「なんでも、なんでもないのよ……ただね、きっと私も同じ気持ちだと思っただけ」


 朱華は頬をぬぐいながら、誤魔化すように微苦笑した。夕瑛はもの問いたげにしていたが、結局黙って笑みを浮かべた。


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