第8章 3
夕刻も近くなってようやく、今日の移動の終わりが知らされた。未だに国境である山脈は見えない。緩やかな丘陵地帯にはまだ冬枯れの草原が広がり、一行の行く手には荒れ果てた廃村の跡があった。
露営地で馬を降り、朱華は思わず息を吐いた。だいぶ慣れたとは言え、一日中騎行は酷く疲れる。以前と異なり、今は枳月がいない。手を貸してくれる者がいないため、朱華は毎回慎重に下馬している。近寄ってきた年若い少年の従者に手綱を預け、ようやくほっとする。
振り返れば、自分以上に不慣れな夕瑛がおぼつかない動作で馬から降りようとしていた。思い切ったようすで飛び降りた途端、手綱をはなしてしまう。彼女にはそれに気づく余裕もないようだった。
「手綱はしっかり持っておかないと」
かわりに手綱を掴んで、朱華は乳姉妹に声をかけた。夕瑛は疲労困憊したようすで俯いていたが、主人の声に慌てて顔を上げた。
「申し訳……」
反射的に詫びる口元を、朱華は指先で軽く押さえる。
「無理をさせているのは分かっているから、詫びないで」
夕瑛は感謝するように微笑し、小さく頷いた。外套の頭巾を後ろへおろし、化粧気のない顔はいつもより幼く見える。後ろで一つにまとめた髪も少しばかり乱れていた。
「夕瑛殿はお疲れのようですね」
横から声をかけてきたのは霜罧だった。突然のことに驚く朱華の手から、さり気なく手綱を預かってしまった。そして、やわらかな声音で夕瑛を労う。秀麗な顔に浮かぶ優しげな笑みに見惚れることのない、数少ない女性の一人が夕瑛である。
「お気遣いありがとうございます。けれど、もう大丈夫ですわ、地面の上ですから」
「ならばよろしいですが。しかし、くれぐれもご無理はなさらないように」
「はい、心得ます」
夕瑛は彼に向って軽く頭を下げると、さっと朱華の手をとった。
「公の天幕はいずれですか?」
「あちらです」
先行していた者たちの手によって、すでに野営用の天幕がいくつも張られている。霜罧が指さしたのは真ん中の一際大きな天幕だった。その天幕に入った朱華は、途端にだらしくなく椅子に座りこむ。天幕のなかは吊られた布で二つに仕切られており、奥が彼女らの寝所だった。折り畳みの椅子は、朱華の体重に鈍く軋んだ。
「あらあら、お行儀の悪いことで」
椅子に逆向きに座り、その背にもたれる朱華を、夕瑛は笑いながら咎める。
「そなたしかいないのだから、かまわない」
朱華は溜息まじりに呟き、目を閉じる。夕瑛は下馬した時の疲労の影はどこへやら、外套を脱ぐとてきぱきと室内を整えはじめた。
「姫さま、外套をお脱ぎになってくださいませ」
「いいの、すぐにまた外へ出るから」
目を閉じたままの朱華に、夕瑛は手を止めて天幕の出入り口の方を振り返った。
「今日もご覧になられるのですね?」
「そのうち霜罧が迎えに来るわ」
その言葉と重なるように、外から伺う声があった。夕瑛が応じると、霜罧の使いの少年が湯気の立つ香草茶を運んできたところだった。
「相変わらずお気のまわる方ですね」
盆を受け取り、夕瑛が戻ってくる。その上には二人分の茶器が乗っていた。香りから疲労を和らげるものだと知れる。朱華は受け皿ごと茶器を受け取ると、椅子の背にもたれたまま冷まそうと息を吹きかけた。
「いつも用意周到ね」
朱華は面白くなさそうに呟いた。
今回は女官たちの服こそ急を要したが、朱華の州内視察を想定しての全体の下準備はすでに整えられていた。だからこそ、急な思いたちにも拘らず、三日で発つことができたのだ。
「頼り甲斐があって心強いではありませんか」
夕瑛は朱華を嗜めるように笑う。そして、茶器を手にすると、立ったままで口をつけた。
「おかけなさい、そなたの方が疲れているのだから」
朱華の言葉に、夕瑛は一言断ると隅に置かれた荷箱に腰かけた。二人ともに疲れもあって無言で休んでいると、まもなく霜罧本人が現れた。
朱華の許可を得て天幕に入ってきた霜罧は、茶器が空になっているのをさり気なく確認する。
「お疲れは少しはとれましたでしょうか?」
「ええ、もう大丈夫よ」
「では、そろそろ日が傾いてきましたから、ご案内をさせていただいてもよろしいですか?」
朱華は頷き、さっと立ち上がった。鈍っていた動きに切れが戻り、表情にも生気が戻っている。霜罧と共に天幕を出ると、わずかに足を止めて東の方を見た。
「まだここからは山脈は見えませんよ」
まるで内心を見透かしたような霜罧の言葉に、朱華はわずかに顔を強張らせた。
「道中でも、何度か遠くを見るような仕草をしておられましたので」
違いましたか? と問うような口ぶりに、朱華は溜息を吐いた。
「まるでなにもかもお見通しね」
「そういうわけではございませんが」
「が?」
「お仕えしている以上、お心に添えるよう出来うる限り心を砕くようにしております……つまるところは、お慕いする方から目を離せないだけのことかもしれませんが」
霜罧は最後には振り返り、ちらりと笑みを見せた。いつものしたり顔の笑みではなく、珍しく感情をにじませるものだった。朱華は言葉につまり、慌てて目をそらす。
「誰の耳に入るとも知れないのだから、こういう場では慎むように」
「誰に知られたところで私は構いませんよ」
すました顔でしゃあしゃあと言ってのける彼に、朱華は困惑の滲む声で応じた。
「私が構う」
「では、慎みましょう」
霜罧は足を止めて振り返り、朱華に向って頭を下げてみせた。朱華はほっとしたような表情を見せ、霜罧はそれに微苦笑を浮かべた。
露営地を兵士たちが忙しそうに行き交っている。その中を朱華は霜罧に先導されて歩いていた。
廃村跡と言っても、もう廃屋は殆ど残っておらず、礎石が点在している程度だった。
「ここは恐らく数十人程度が暮らしていた小さな集落だったのでしょう」
「もう建物は残っていないのね」
「礎石に焼けた跡がありますから、焼き討ちにされたのでしょう」
霜罧は地面に膝をつくと、枯れた草をかき分けて焦げ跡の残る壁の基礎部分をあらわにした。朱華もしゃがみこみ、険しい顔で見つめる。
「戦いの際に立て籠もられても困りますからね、このあたりの村の跡はどこも解体撤去されています」
「戻ってくる住民は?」
「おりません。住人の大半は内戦当初にほぼ全滅したかと……生き残ったとしても連れ去られたでしょう」
霜罧の口ぶりはあくまで淡々としている。ここにくるまでにも既にいくつかの集落の跡を通過してきた。朱華にも驚いたようすはないが、毎回眉をひそめて難しい顔で彼の説明を聞いている。
「もう二十年以上無人だということね」
「この十年ほどはこの辺りまで戦火が及ぶことはないのですが、わざわざ住みたがる者はいないようです。やはり、戦を忌避したい者の方が多いのでしょう。先々代の苴葉公は定住者には資金援助をするという触れを出したそうですが、応じるものは殆どいなかったそうです」
「ということは、私が似たような策をとっても同様ということね」
朱華はふっと息を吐き、立ち上がった。霜罧も主に倣う。
「もうしばらく戦線が遠い状況が続くか、翼波との戦いに片が付かなければ難しいかもしれませんね」
霜罧は目ざとく朱華の外套の裾についた枯草を見つけ、一言断ってそれを払う。あっと思う間もなかった。傍らで屈む霜罧に、朱華は「ああ、ありがとう」と戸惑いながら返しつつ、困ったように目をそらす。先ほどの言葉は嘘ではないのだろう。彼は本当に自分のことをよく見ている。自分でも気づかないようなことにまで。
「これほどの土地が無駄になっているのは惜しいわね」
気を取り直してあたりを見渡す。身を起こした霜罧も、主の視線を追う。
「春の終わりから秋の初めにかけては、放牧に使うものもいるようです。しかし、放牧だけでは生産性が低いのは否めません。元々は畑作の行われていた貴重な地域ですから、是非とも定住化を進めたいところですね」
「原因は明かだけれど、根本的な解決がなされない限りは難しそうね」
「――枳月殿下の働き次第ではどうなるかしれませぬが」
霜罧は朱華を見つめながらその名を口にした。冬枯れの草原を見渡す朱華は、振り返らなかった。
「そうね――そのために赴かれたのだから。今頃はどのあたりにいらっしゃるかしら」
「南の方ではないでしょうか、雪解けはあちらの方が早いですから」
山脈は葉の東側に南北に横たわり、翼波との天然の国境をなしている。苴州が担当しているのは北側にあたり、主戦場の一つでもある。王配の陣もそこに置かれることが多い。朱華たちが向かっているのもそこだった。
霜罧の言葉に朱華は振り返った。
「雪解けが始まれば、翼波と遭遇する確率が上がるのではないの?」
無表情だが、声には憂慮が滲んでいる。霜罧はそれを聞き逃さない。
「斥候と遭遇する危険性はありますが、まだ纏まった人数で尾根を超えるのは無理でしょう。殿下と算師の二人きりというわけではありませんし、山に詳しい地元の者も同行しています、そのあたりはご心配無用かと」
「そう」
朱華は安堵のいろを浮かべた。霜罧はそれを複雑な思いで見つめる。彼女が彼を心配するのは至極真っ当なことであり、それにもやもやする自分の方が狭量なのは確かだった。
「そういえば、一つご報告があります」
振り払うように、話題を切り替える。周囲に人気はなく、人が潜めるものもない。人に聞かれたくない話を明かすにはもってこいだった。
「なに?」
「枳月殿下自ら、ご自身について明かして下さいました」




