第8章 2
朱華の出立は、王配一行が発ってから三日後だった。
急な決定だったため、彼らと行動を共にすることはできなかったのだ。朱華の戦場視察の是非はともかくとして、唐突な思い付きについては列洪と霜罧の二人から滾々と諫められた。多方面への影響をまったく考慮していなかった点については、朱華も深く反省した。自分の立場を弁えていないと指摘されれば、全くもってその通りだった。
朱華に対して最も苦情を訴えたのは、夕瑛だった。
当然ではあるが、軍は男ばかりである。これまで女性が翼波との戦場を訪れたことはない。各地を広く視察に回っている女王でさえ、苴州訪問時は州都にしか滞在しなかった。その前線を女である朱華が視察する。だが、誰がその際の従者を勤めるかということが問題になった。通常、従者は男であり、陣では主と起居を共にする。しかし、まさか女性である苴葉公の従者の役割を男が果たすわけにはいかない。その結果、お鉢が回ってきたのが夕瑛だったという次第だ。
苴州に来て以来、夕瑛も暇があれば武術や馬術の稽古に精を出してきた。苴州城落城という過去がある以上、苴葉公の側近には主を守ることも求められる。それは男女変わりなく、苴州では女性が武芸を嗜むことは他の州よりも積極的に奨励されている。いざとなれば自分の身は自分で守るしかないことを、この地の人々は身をもって知っているのだ。
馬術の方もそれなりに上達を見せていた夕瑛を、兄珂瑛はあっさりと苴葉公の従者として指名した。それに対して夕瑛に否やはなかったが、想定していなかった事態に準備は慌ただしさを極めた。最悪の事態まで予想してはいたが、まさか主に従って戦場まで行くことになるとは思ってもいなかった。「女性が戦場に行く」という発想そのものが、葉においては異常とも言えるほど常識はずれなことでもあった。
苴葉軍の軍服も、当主である朱華のものはすでにある。式典などで着用する機会は多いため、苴州入りする前から準備されていた。だが、夕瑛の分まではなかった。
「まさか、私まで軍服を着ることになるとは思ってもみませんでしたもの」
いきなり出立の決まった朱華の支度だけでもてんやわんやな上に、自分の準備まであるため、夕瑛はいっぱいいっぱいになりかけている。もちろん、同行する女官は夕瑛一人ではない。
恨みがましい眼差しを主に送ると、夕瑛は荷造りを続ける。官服のまま椅子にかけた朱華は、苦笑いして何度も詫びるより他なかった。
「大丈夫、きっとそなたにも似合うわよ」
「似合わなくて結構です――第一、誰も彼も朱華さまに釘付けで、私がどのような格好をしていても気付く人などいないでしょう」
「そうとは限らな……」
「式典で近衛として参列なさった際、あれだけの人目を集めておいてよく仰いますこと」
再び手を止めて主の言葉を遮り、夕瑛は溜息をついた。
王女時代に近衛に所属していた朱華は、とりわけ王城の女性陣から絶大な人気を博していた。近衛将校として正装した際には、面食いの姉三の姫までもが見とれていたのは周知の事実だ。ただ、それを当人は殆どと言っていいほどに自覚していない。
「あの頃ですらああですから、今の姫さまが軍人として正装なさればどうなりますことやら……」
現在の朱華は娘盛りを迎え、凛々しさの上に女性らしさもまとっている。女性として上背があるが、背が高すぎるというほどではない。体つきも女らしさを増している。その肢体に、女性のそれよりも体の線が露わとなりやすい軍服を身に着ければどうなることやら、だ。すでに苴州城においても、苴葉公は女性からの人気がとりわけ高いのは気のせいではない。ただ、苴州入りからこれまでは冬季だったため、毛皮で裏打ちされた外套を羽織ることも多く、その体の線がはっきりとするような機会は皆無だった。
「どうって、どういう意味で――」
「姫さまはご自分が女性で――それも、美女でいらっしゃるというご自覚がおありでありませんわね」
「……美女というのは三の姉上のようなことを言うのでしょう」
「――確かに銀華さまは典型的な美女でいらっしゃいます。けれど、きっと軍服はお似合いにはなられませんわ」
きっぱりとした乳姉妹の言葉に、朱華はしばし沈黙して考え込む。
「……そもそも、三の姉上が軍服を着用なさるようなことなどないでしょう」
「――そういう問題ではございません」
夕瑛はこめかみがぴくりと引きつるのを感じながら、この斜め上な反応を示す主に向き直る。
「姫さまには軍服がお似合いになります――それも、異様に」
「……異様とは、それは褒めているの、それとも?」
「両方ですわ――冬服をお召しだったこの冬の間だけですら、すでに衆目の的でいらっしゃるのです。外套をお脱ぎになれば、いったいどうなりますやら」
朱華は乳姉妹の嘆きに困惑を隠しきれない。
「どうって、男装が際立つだけでしょう」
「男装にお見えになるとお思いですか?」
「……だって、男装でしょう?」
そもそも、葉の女性が袴を履く習慣はない。女性は裳と決まっている。袴は男性の衣装なのだ。軍服を着用する時点で、男装していることになる。
当然すぎることに夕瑛も気づいたのか、気難しい顔で小さく息を吐いた。
「――確かに男装ですが、姫さまは決して男性にお見えになるわけではありません」
「それはそうでしょう、私は女ですもの」
「そうです、姫さまは苴州に来られてから一段と女らしくおなりです――ですので、男装なさると一層艶めいて……煽情的ですらいらっしゃるのですわ」
夕瑛は思い切って最後の単語を口にした。言われた当人は、思わぬ形容詞に呆然としている。
「せん……って――まさか、そのような」
化粧をせぬ官服姿ですら、これほど美しいのだ。公式行事で化粧をしないわけにはいかない。その上で軍服を身に着ければどうなることか。それが分からない主に、夕瑛は溜息を押し殺す。
「ご自覚なさいませ。その上でご自分の武器になさるべきです。無自覚に垂れ流しになさるなど、愚の骨頂です。姫さまはお美しいです。その上、女性らしさもお持ちで、それを活かす術も明確でいらっしゃるのです。銀華さまとお比べになるから間違えるのです。もっと強かにおなりになるべきです」
詰め寄られ、朱華は椅子の背にもたれたままのけぞった。
「……夕瑛、私にはそなたの主張が理解できないのだけれど――」
この期に及んでのこの言葉に、夕瑛は軽く息を吐く。朱華は馬鹿ではない。けれど、馬鹿になれない生真面目で、それは愚かなのかもしれなかった。
「もっとご自身が女性であることを武器になさるべきだと申し上げているのです」
女性であるということは、不利にしかならない場面が多い。それでも女性という弱者であるという方便を活かすこともできる。それが、朱華には伝わりにくいようだった。
「――霜罧にも似たようなことを言われたような気がするわ」
複数の筋から指摘を受けておいて、それを活かす手段に思い至らないことに、夕瑛はそっと息を吐く。女であることを武器にするという発想が、主にはそもそもないのだ。しかも、それは性を売りにすることへの潔癖さなどに由来するものではなく、ただただ鈍感だということになる。
「――姫さま、ご自分が美しい女性であるということが武器になるということはお分かりになりますか?」
「……霜罧には、私との縁談をダシにしてはという話はあったけれど……」
「それは、姫さまのお立場を売りにしてのお話ですわね――その上で、姫さまご自身の魅力を売りになされば、鬼に金棒ですわ」
力説する夕瑛に、朱華は気圧されたじろぐ。
「考慮しておくわ……それより、そなたの衣装は間に合いそうなの?」
「なんとかなりそうですが、今回の件での一番の被害者はお針子ですわ」
夕瑛は荷造りに戻ると、また小言を繰り出し始めた。朱華は責められながらも、話題が変わったことにほっとしていた。
夕刻、図書室を訪れた朱華は官服のままだった。王都と異なり、苴州では日に何度も着替えるという習慣はない。朱華にはありがたいことだった。
霜罧による講義は今日も続けられている。彼とて旅支度はあるだろうが、朱華の希望が優先された。
「今日はここまでです。なにかご質問はおありですか?講義以外のことでもかまいませんよ」
水を向けられ、朱華ははっとする。霜罧は講義に使用した紙を整えていた。
「……そんな顔をしていたかしら?」
「上の空というほどではありませんでしたが、なにか気にかかっておいでかと感じる程度には」
霜罧はちらりと笑みをみせた。朱華はふっと息を吐き、躊躇いがちに切り出した。言いづらそうに傍らの書棚を眺めながら、ぼそりと呟く。
「夕瑛に言われたのよ、私の男装は扇情的だって」
「……」
珍しく霜罧は即答しなかった。これまでになかったことに、朱華は怪訝そうに顔を向ける。彼はなんとも言えない表情で、言葉に詰まっているようだった。
「如何した? そのような表情をして」
主人の不審げな視線に、霜罧はさっといつもの態度を取り戻した。まさか、自分の図星を指されたようで動揺したとは、口が裂けても言えない。
「いえ、夕瑛殿の言葉に少々驚いただけです」
「そなたが驚くほどのこととも思えぬが?」
「恐れながら、妙齢の姫君の口から滅多と聞ける言葉ではありません」
「……夕瑛も坩家の姫には違いないわね」
家格で言えば、苴州内においては朱華に次いで身分が高いとも言える。
「姫の男装につきましては、とりわけ女性陣からの人気が高いようですね。凛々しいとの評判だと聞き及んでおります」
「……しかし、扇情的という言葉は、女性目線ではないと思うが」
話の方向をそらそうとして失敗した霜罧は、その試みを諦めることにした。
「一般的には男性目線になるでしょうね」
ここは下手に誤魔化すより、真面目に請け合うことを選ぶ。朱華の様子から、その思い悩みの因はそこにはないように察せられた。
「そなたもそう思うか?」
朱華は真正面から覗き込むようにして問いかけてきた。霜罧は珍しく仰け反り、動揺を見せた。思わず目をそらし、何か言う代わりに唾を飲んでしまった。
狼狽する霜罧に訝しげに眉をひそめながらも、朱華は彼の返事を待っていた。そこに嫌悪のいろはないため、彼は正直に応じることにした。
「扇情的という言葉は過ぎると思いますが、姫の魅力を損なうよりも増す効果が強いかとは」
「……回りくどい」
いつもならば嗜めるほど誉めそやしてくる彼が、嫌に歯切れが悪い。苛立ちをみせる朱華に、霜罧は観念する。鈍いところある主人には、はっきり言葉にしなければ通じないらしい。
「姫の女性らしい装いの素晴らしさは言うまでもありませんが、男装なさっても別の魅力がおありです」
「……どのように? 男性に見えるわけではないのでしょう?」
「どう見ても男性には見えません、それは確かです」
そこまでは即答し、霜罧は言いづらそうに小さく咳払いした。
「私見ではありますが、端的に言いますと、姫は男装なさったほうがより女性らしさが際立だたれるかと」
「――その表現は矛盾していない?」
「形容矛盾ではありますが、それが最もしっくりくるかと」
他に表現のしようがないと言いたげな霜罧に、朱華は納得のいかない様子ながらも諦める。
「夕瑛は私に女であることをもっと武器にするべきだと言うのだけれど……それは、枳月殿にはおそらく通用しないでしょうね」
溜息まじりの呟きに、霜罧はぴくりと肩を震わせた。
「――枳月殿下、ですか?」
「ええ」
あまりにあっさりした応えに、霜罧は怪訝な顔を一瞬のぞかせた。
「……殿下に対してのご自分の気持ちを御自覚なさった、というわけでもなさそうですね」
霜罧は注意深く言葉を探した。が、朱華はそれには気付かない。
「あの方をつなぎとめるにはどうすればいいのか」
「……何に対して繋ぎ止めたいとお考えなのですか?」
探るような眼差しにも気付かず、朱華は目線を落として考え込む。
「何……強いて言えば、あの方自身についてかしら……ご自分の命に、かしら……」
「そのために姫ご自身をダシになさるおつもりですか?」
「ダシになれるなら……いいえ、このようなことは間違っているわね。失礼だわ」
朱華は溜息をつき、唇を噛んだ。
「姫のお気持ちは殿下にはない、と?」
肘をつき項垂れる主人の姿に、霜罧は複雑な想いをかみしめていた。
「……そなたのいう〝気持ち〟というものが未だによく分からないのだけれど、恐らくは……あの方が酷く気がかりではあるけれど、きっとこの気持ちは心配や同情というものではないかしら」
途方に暮れたような口ぶりに、霜罧は苦笑いする。
「こればかりはご自身でなんとかしていただくしかありませんね」
「自分でもままならないものね」
「なるなら苦労はしませんよ」
なにやら嫌に実感のこもった彼の言葉に、朱華はふっと力なく笑った。




