第8章 1
枳月が慌しく発ってから三日後、当初の予定通り、王配一行は国境地帯に向かうことになった。例年、苴州軍は護衛も兼ねて同行することになっている。
国境となっている山脈の何処から攻めてくるかわからないため、戦線は広く想定されている。そのため、各州が受け持つ地域も様々となる。二十年以上に及ぶ戦いの間に、その受け持ちもほぼ固定化されている。各州の経済力・兵力・その他が考慮され年ごとにその規模に増減はあるが、一種の課役でもある。
苴州軍は対翼波戦の主力を担ってきた。激戦となることもある主戦場を長らく担当しており、王配の陣もそこに張られる。
出立の前日、珂瑛が執務室に訪ねてきた。枳月のかわりに苴州軍の指揮をとるため、彼もまた明日州都を発つ。その前に挨拶をしにきたのだった。
扉をくぐるなり、執務室に二人きりだと気付いた珂瑛はわずかに眉を上げた。
「なんだ、二人ともおらんのか?」
「列洪は用があるらしい。霜罧は父上に呼び出されている」
途端に砕けた調子で話す彼に、朱華は思わず苦笑する。こうして二人きりで話すのは久しぶりだった。苴州に来てからははじめてかもしれない。
王統家の当主と、東葉最大規模を誇る苴州軍を預かる身になっても、彼の態度は変わらない。それが彼女をほっとさせる。
「枳月殿の代わりの大任、申し訳ないわね」
「何を今更。枳月殿下が事あるごとに俺を押し出して下さるもんだから、すっかり誤解している奴もいるくらいだ」
珂瑛はからりと笑い飛ばしたが、じきに顔を顰めた。
「殿下は、最初から苴州軍の上に立つつもりがなかったんじゃないか? いくら実戦経験がない故に俺が補佐につく必要があったとしても、少々どころか度が過ぎていたぞ――あの方はそういう無責任な人間ではないだろう? なさる事と人柄が結びつかん」
彼は難しい顔でそう言うと、勝手に霜罧の席に腰をおろした。その間も朱華の顔から視線は外さない。探るようないろを隠しもしないようすに、朱華は苦く笑う。
「そなたは相変わらずね」
「回りくどいのは好かん。どういうことだ?」
珂瑛は腕を組むと、どかりと椅子の背にもたれて朱華を見据える。詰問するような気振りはないが、蚊帳の外はごめんだぞと言わんばかりだ。無理からぬことでもある。朱華はそっと息を吐きだす。
「――枳月殿からはなんと?」
「他に任務がある故頼む、とのみ。あとは申し訳ないの一点張りだった」
枳月の行動は、苴州軍を率いて戦場へ向かう直前にすべての責任を放り出したも同然だ。珂瑛がこれまで苦情の一つも言ってこなかったことのほうが、朱華には意外だった。彼は彼なりに事情を察し、事態を受け入れてきたのだろう。苴州軍内部での枳月の態度についても、珂瑛から批判めいた言葉を聞くのははじめてだった。
「――翼波攻略に関する任務よ」
「それは戦の趨勢に関わることなのか?」
片眉を上げる珂瑛に、朱華は目をそらさずに頷いた。
「ええ」
小さいがはっきりとした応えに、珂瑛は「そうか」と呟いた。
「ならば、仕方ないな。俺は俺にできることをさせていただこう――それでよろしいかな、公?」
珂瑛を腕組みを解くと、両膝に手を置き首を垂れる。朱華は吐き出しそうになった溜息を飲み込んだ。彼もまた、お互いの立場はわきまえているのだ。
「ああ、頼む」
引きつりそうになるのを堪えて笑んで返せば、彼は呵呵と笑った。
「姫、その心意気だ。臣下を納得させる必要はない。それぞれがすべきことだけが明確であれば良いのさ」
「……しかし、それで納得できるか?」
「だから言ってるだろう、納得させる必要はない――その根拠となるものを上に立つものが理解しているなら、それでいいのさ。言わば、俺は駒だ。指すのは姫だ。一つ一つの駒を説得して動かすつもりか? それではすべて後手に回りかねんぞ。これは戦だ、勝たねば意味はない」
「勝利こそ全て、か?」
「無論」
珂瑛は明瞭に応じると、朱華ににやりと笑ってみせた。
「枳月殿下は為さることと人柄が一致せん。わざと悪ぶっておられるような、無理が見える。その理由を姫はご存知なのだろう? ならば、俺にはそれで十分だ。誰にもその根拠がわからぬでは打つ手がないが、上に立つものが承知しているなら、なんとでも言いくるめられるからな」
「――そなたがその理由を知らずとも、か?」
「ああ、そうだ――そのかわり、その責は姫が負うのだぞ」
なんとも大雑把な諫言に、朱華はふっと小さく笑ってしまう。己の覚悟の甘さを指摘されたようでもあり、てらいのなさは如何にも珂瑛らしいものだった。
「そうだ、すべての責は私にある――珂瑛、そなたは枳月殿をどう見る?」
「もう何度も言ってるだろう、あの方は為すことと人柄が一致せん。本来は生真面目な人間なのだろう。そのくせ、俺には無責任で自信のない風を装うとなさる。俺にはその無理な落差が見える。だが、その理由は分からん。姫はその理由はご存知なのだろう? ならば、俺にはそれで十分だ。訳が分からんのは気味悪いが、上に立つものが把握しているならそれでいい」
「自分がその理由を知らずとも良いのか?」
「ああ、公がそれを知っているなら、俺は公に従うだけだ――俺は公の手足であり、目であり耳である。そこから得られる情報を処理し、判断を下すのはあなただ」
「姫」ではなく「公」と呼ぶ珂瑛の声音には、これまでにない余所余所しさが感じられた。乳兄弟である前に、主従関係であるのだ。その区別を明確にするために、あえて彼は彼女を「姫」ではなく「公」と呼んだ。それは即ち、彼にとっての彼女は仕えるべき対象だということだった。
「俺は姫の乳母子である前に、公の臣下だ」
朱華は目を瞠り、それから小さく頷いた。
「だからこそ、私はそなたを信頼する――苴州全軍を預かる覚悟はあるか?」
「無論のこと――我が主よ」
珂瑛はいったん立ち上がると朱華の傍らまで歩み寄り、その足元に跪いた。白い繊手を恭しく頂き、首を垂れる。朱華は小さく息をのみ、そっと吐き出す。
「では、我が軍をそなたに預ける――よく励め、珂瑛」
「承りました……まぁ、こっちの件は俺に任せておけ、姫」
恭しく主人の手を押しいただいた後、彼は立ち上がると磊落に笑った。先ほどまでの行儀の良さは微塵も残っていない。朱華は呆れたように微苦笑した。
執務室に戻った霜罧は、腕に書類らしい紙の束を抱えていた。朱華に帰室の礼をすると自分の席に戻り、机の上に手にしたものを置く。そして、椅子に座ろうとしかけたが、その動きを止めて顔を上げた。
自分の席に珂瑛が無断で座ったことに気付いたのだろうか、と朱華は眉を顰めた。
「珂瑛殿がこられていたそうですね」
「ああ、挨拶に」
「なにか苦情でも仰られていましたか?」
いきなり苴州軍の指揮をとることになったのだ。苦情があってもおかしくはない状況ではあった。
「特には――そもそも、枳月殿には苴州軍の指揮をとる気がなかったのではないか、とは言っていた」
霜罧の意図を探るように、朱華は彼の面から目をそらさない。
「――これまでにそのような報告が?」
「いや、初めて聞いた」
「そうですか」
彼は短く返すと、おもむろに席に着いた。紙の束を机の上で整え直しながら、ふと目線を向けてくる。
「珂瑛殿に殿下のことをお話になられましたか?」
「まさか――あれの口は硬いが、誰彼構わず話せることではない。なにか事情があるらしいとは気づいていたけれど、私がそれを承知しているならそれでいいと」
「そうですか」
霜罧は小さく首肯すると、また作業に戻る。
「……そなたは話しておいた方がいいと考えるか?」
朱華は思い切って問いかけた。迷った挙句伝えないことにはしたが、自分の判断に自信はなかった。こういう時、事情を知る相談できる相手がいるのは心強い。
霜罧は手を止めて顔を上げた。
「まだその必要はないかと。こういう場合、知る者は少ないに越したことはないですから」
「そうね」
朱華はほっとした顔をみせ、手にしたままだった書類に目を落とした。霜罧も整えた書類の一枚目に目を通しかけたが、またも顔を上げる。
「ところで、珂瑛殿は養子縁組が決まったそうですね」
「ああ、婿養子に入るようね」
朱華は書類を読みながら、ぞんざいに返す。
「おや、それは……お寂しくなりますね?」
霜罧の言葉尻になにかを感じ取り、朱華は訝し気に目線を向ける。彼は感情をうかがわせない柔和な表情で朱華を見ていた。
「――相手は列洪の浪家に次ぐ家格の娘で、十六歳のおとなしくて可愛らしい姫だと自慢していたわ。めでたいことではないの? 珂瑛の縁組が決まったということは、彼が苴州に骨をうずめることに決まったも同然なのだから、私としては心強いばかり――これが夕瑛の話なら確かに寂しくはあるでしょうけれどね」
「……姫がそうお考えならそれでよろしいかと。確かにめでたいことでもありますので」
おそらく霜罧はなにか言いたいのだろう。だが、問うたところで答えるような人物ではない。
「――そなた、時々よく分からないことを言うわね」
「そうでしょうか?」
嫣然と微笑する霜罧に、朱華はそれ以上追及する気力を失う。
「まぁ、いいわ――それにしても、十六歳ね……私より三つも下――私の縁組はいったいいつになるのやら」
苦笑いしながらため息を吐く朱華に、霜罧は小さく首を振った。
「他人とお比べになる必要はありませんよ、公は他の女性とは少々異なるお立場なのですから」
「そなたが受けてくれなかったら、こういうことになっているのではないの?」
「――私が同行させていただきますと申し上げた瞬間、眉間に皺が寄っていましたよ」
朱華はうっと言葉に詰まり、視線を逸らした。
「ご無理はなさらぬことです」
霜罧は理解の悪い生徒に言い聞かせるように微笑んだ。




