第7章 10
翌朝、朱華は執務室に入るなり、刺すような視線を感じ身を竦ませた。主人の入室を、二人の男は立ち上がり頭を垂れて迎える。すでにその時点で、只ならぬ空気は室内に立ち込めていた。
「おはようございます、公」
「ああ、おはよ……」
「公、お話がございます」
霜罧の挨拶に朱華が答える。もはや習慣化しているそのやりとりに、横から列洪が口を挟んだ。昨夜から予想の付いていたことに、朱華は覚悟していたにも拘らず唾を飲む。
「……そなたの話は聞かずともわかっておる」
「にも、拘らず、でございますか。それは全くもってご理解いただけていない証にしかなりませぬようで。残念でございます」
静かな怒りがこれ程鬼気迫る人物も珍しいだろう。朱華は背中に冷や汗の伝い落ちるのを感じる。
「理解はしておる」
朱華の苴州入りの際、初対面だった彼から開口一番早く後継を作れと迫られたのだ。忘れられるはずがない。
「恐れながら、私にはそうは考えられません」
「失礼ながら、まず公にご着座いただきましょう」
こう言う時まで効率を優先しようとする列洪を、霜罧がやんわりと宥める。列洪は眉根を寄せて口を噤んだ。
予想以上の彼の反応に朱華はたじろぎながらも、霜罧の視線に促されて席に着く。背後ではまだ炉に火が入っている。まだ朝は肌寒い。
執務机の上にはすでに書類が置かれていた。字は列洪のもので、乱れは全くない。朱華が入室するのを待ち構えながらも、仕事はいつものようにこなしていたのだろう。口調も声音もいつもと変わりない。表情もいつもと同じように無表情。にも拘らず、怒りがじわじわと伝わってくる。
「公、引き続きお話しさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
列洪はいつものように席には着かず、立ったまま発言する。朱華は観念して頷いた。列洪は自分の机を離れ、朱華の執務机の前に立った。何故か、その隣に霜罧も並ぶ。
「霜罧、私に話があるのは列洪だと思うのだが?」
当然のようにそこに立つ霜罧に、列洪は訝し気な視線を隠しもせず、朱華は溜息まじりに問いかけた。
「出過ぎた真似とは存じますが、間に入る人間も必要かと。私は列洪殿のご懸念も理解できますし、公のお考えにも賛成です」
霜罧は端正な顔に円満な笑みを浮かべた。
「それはどちらつかずもいいところではないか?」
「心外なことを仰いますね。私ならお二人それぞれのお考えが理解できると申し上げているのですよ」
朱華はその笑みを胡散臭げに眺めつつも、列洪と一対一で向き合うよりはましと割り切ることにした。
「まぁ、いいわ――列洪、そなたは?」
「私も構いませぬ」
列洪は霜罧の存在をどうでも良いとみなしているようだった。
「では、後嗣どころかご夫君もまだおられぬのに、このような行動をおとりになられるとは、どのようなお考えでいらっしゃるのかお聞かせいただけますか?」
朱華の懸念通りのことで、列洪は深く静かに怒っているようだった。
先代苴葉公が無謀にも先陣を切っての突撃の末、見事戦死を遂げてから約一年。このままお家断絶かという騒ぎの末、ようやく決まったのは前代未聞の臣籍降下した王女によるお家再興。その当人は夫候補と思しき面々を引き連れて領地入りは果たしたものの、未だに態度を明らかにしない。挙句に父親である王配に戦場への同行を直訴したのだから、彼の怒りも無理からぬことではある。
「列洪、言っておくが、私はお連れくださいとお願いしただけであって、戦に加わりたいとお願いしたわけではない」
「当然ではございませぬか、女性が戦に加わるなど言語道断です」
朱華に抗弁に、列洪はにべもない。彼女は懲りずに言い募った。
「先例と言えば、先の内乱の折には陛下も戦場にお立ちになったこともある」
「それは形勢不利だったお味方の士気を、鼓舞なさるためになさったこと。今回とは状況が異なります」
うっと言葉に詰まる朱華を、列洪は冷ややかに見据える。そもそも口論で自分に勝とうなどというのが甘いのだ。主人に対して不敬ではあるが、列洪は容赦しない。
「戦に加わったりはせぬ」
「公にそのおつもりがなくとも、巻き込まれる危険性は十分ございます」
「自分の身を守る程度ならできる」
「小競り合いならそれでも対応できるかもしれませぬが、そうでない場合は如何なさいますか?」
「それは……」
列洪は一呼吸置き、付け加えた。
「最初に二度と民に嘆きをお与えになるようなことがないようお願いしたはずですが、お忘れですか?」
ここまで言うからには、彼も処分は覚悟の上だろう。容赦ない言葉は間違ってはいない。朱華もそれで怒り出すような領主ではない。
厳しい言葉に色をなくした朱華に、黙って控えていた霜罧が口を挟む。
「……列洪殿、一度主家のお血筋が絶えた以上、ご懸念なさるのは無理もないことです。が、そもそも歴代の苴葉公が、後嗣を得るまで戦に加わらなかったなどという先例もないはずですね?」
穏やかに言葉を連ねる霜罧に、列洪も淡々と返す。
「何らかの理由がない限りは、歴代の公は苴州軍の指揮をとってこられました」
「今の公は女性でいらっしゃるため、そのお役目は配下が担うことになります。が、次の苴葉公が男性であれば、後嗣の有無に関わらず、成人なされば歴代の公と同様になさるべきなのではありませんか?」
「確かに」
「現当主が女性だからといって、あまりに他の王統家と異なる行動はとるべきではないでしょうか。苴葉家の立場そのものまで、他家より低下しかねません。東葉王統家四門筆頭の立場は死守すべきです。ましてや、王女殿下自ら王統家再興を果たされたのですから」
守るべきものは血筋だけではない。家柄の良さだけで、筆頭の立場を受け継いできたわけではなかった。
「筆頭の所以は血筋のみにあらず、ですか」
「最前線たる苴州だからこその筆頭です。それ故に、一度はそのお血筋が絶えてしまったとも言えるでしょう。歴代の貢献があったからこそ、その名跡を伝えるために王女殿下の降下で報われたという一面もあります」
一度は断絶かと思われた家名が、他家からの養子ではなく、王族によって存続することになったのは、確かにそういう事情もあった。
「ですが、公が女性でいらっしゃるのも確かなことです。まさか公が戦場にいらっしゃるとは、誰も思わないでしょう。そこへ公がお出ましとなれば、苴州軍の士気は嫌でも上がりましょうし、苴葉家の心意気の喧伝ともなりましょう。戦闘に加わることなく、美味しいところは頂けるという次第です」
そう言って、霜罧は嫣然と微笑んだ。朱華は開いた口がふさがらない。
「そなたはやはり腹黒いわね」
「お褒め頂き光栄です」
「褒めてはいないけれど……そのくらい悪辣でなければ渡り合ってはいけないということね」
「そういうことは私にお任せください」
朱華の皮肉をものともせず、霜罧はにこやかに請け合う。朱華は肩をすくめてため息をつき、列洪をちらりと見た。彼もそれに気づくと、深々と腰を折った。
「……私の考えが至らなかったようです、公。ご処分は如何様にも」
「そのようなつもりはない。主人を失えば、多くの民が露頭に迷う。その一端は私も体感している故、後嗣の件は疎かにするつもりはない。ただ、私がすべきことはそれだけではないはず」
「左様でございます、領主の務めに男女のかわりはありません。ただ、女性だから負わずにすむこともおありになります。それは有効活用なさいませんと、勿体無いですからね――女性であればこそのご苦労は、この先も絶えないでしょう。少しくらいの特典もあって然るべきです」
当たり前だとばかりにすまして微笑む霜罧に、朱華は苦笑いする。唯一の女性領主としての苦労は、確かにこれからが本番だろう。不利なことの方が多いだろうが、それを逆手にとってくれる彼が頼りになるには違いない。
「公の視察には、私が同行させて頂きましょう」
霜罧は誰にも謀らずに言い出す。朱華は反射的に顔を顰めていた。
「そなたには私の代理を務めて貰わねば」
「それなら列洪殿にお願いできます。主人不在の間はずっと務めておられたのですから。枳月殿下の代わりに、苴州軍の指揮を珂瑛殿がとる。枳月殿下には他にお役目がおありになる。私以外に手隙な人間はおりませんが?」
「ならば列洪では?」
「私に彼の代理は務まりません。処理の一切を把握しておられるのは列洪殿です。私では忽ち滞ります」
言外に自分ではやはりお気に召しませんか? を匂わせる笑顔に、朱華はひくりとなる。仕えてくれる者を大切にするよう、父に言われたばかりだ。何より無条件反射的な己の反応を改めなければならない。
「……それもそうね。それに、そなたも戦には加わっていたのだし」
「盾の代わりくらいにはなれましょう」
霜罧は身を折って恭しく承る。朱華は「ああ、では頼む」と、ほっと息を吐いた。
その日の午後、朱華は父の居室に呼び出されていた。訪室してみると、そこには枳月も居合わせた。
「急ぎ発つことになりましたので、ご挨拶を」
目が合うなり、枳月は恭しく頭を下げる。現在の苴州城内において最も身分が高いのは王配であるため、苴葉公である朱華が呼びつけられるのは妥当でもあった。
「そう堅苦しくする必要はない」
碧柊は椅子の腰かけ、やってきた娘に寛ぐよう声をかける。朱華は「はぁ」と請け合いながらも、すっかり旅装を整えた枳月に気をとられていた。
「雪が解ければいつ戦となるかわかりません。算師の手配が整いましたので、雪が解ける前に少しでも地図作成ができればと思いまして。ご相談もせずの独断、お許しください」
枳月は立ったまま、朱華に深々と頭を下げる。朱華は慌てて首を振った。
「そのようなこと……」
「その上、苴州軍を預かる身でありながら、その責を果たせぬことも重ね重ね申し訳ありませぬ。何もかも珂瑛殿に丸投げしてしまう形になり、お恥ずかしい限りではありますが、今はことを急ぎます故」
朱華は心許なげに眉を顰め、気がかりそうに彼を見つめた。
「枳月殿、そのようにお急ぎになられずとも……」
「雪解けまでが勝負でもあるのです。そうでなくとも、私が記憶を失っていた間にどれほど時間を空費したことか――申し訳ありませぬが、私の我侭をお許しください。では、失礼いたします」
そう言って一層深々と頭を下げると、朱華の言葉も待たずに彼は退室してしまった。言葉をかける間もなかった朱華は、呆気にとられて見送るしかなかった。
暫し呆然としたのち、朱華は途方に暮れたように父を見た。彼もまた、痛ましいものを見るような表情で黙り込んでいた。
「――父上」
「……仕方あるまい、あれの言うことも尤もであるのだ。吾らにできることは邪魔をせぬことくらいだろう」
「……なれど……」
閉ざされた扉を見つめながら、紡ぐ言葉のないまま、朱華は立ち尽くす。そんな娘を見つめながら、父は問いかけた。
「朱華、そなたの心は何処にあるのだ?」




