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雪の陰翳  作者: 苳子
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第7章 9

 

 朱華は頰を伝うものを手の甲で拭った。泣くことは好きではない。なんの解決にもならないからだ。

 蹲っていた父親の足元から立ち上がり、床に転がる酒杯を拾い上げた。敷物に染み込んでしまった酒には打つ手がなく、立ち上る酒精の香に顔を顰め、小さく息をついた。


「父上、もう少しお飲みになられますか?」


 瓶子を手にかざしてみせると、彼は手の中の酒杯が空になっていることを確認した。


「ああ、これで最後にしよう」


 朱華は無言で頷き、腰を屈めて父に酌をする。注ぎ終えても、まだ底に少なかぬ量が残っていた。


「そなたも今宵はこれでおさめよ」


 もう口にするつもりはなかったのだが、朱華は苦笑いして受けた。一度は床に落ちた杯の縁を手巾で拭い、父からの酌を受ける。瓶子は空になった。それを手に椅子に戻り、形ばかりだけ口をつけた。


「……私にできることはあるのでしょうか?」


 これからも最も密にかかわることになるのは朱華であり、彼の秘密を知っているのも朱華だけとなる。迂闊に他言はできない分、すべて自分で抱えむことにもなり、その上彼自身の思いも強い。その思いの理由も理解できるだけに、朱華には打つ手が見いだせない。


「目下のところは、あれが動きやすいよう整えてやることだろう。あれのやろうとすることは、国益とも一致するであろうしな」


 そのような類のことを訊きたかったわけではないのだが、と朱華は思わず苦笑いしてしまう。それは言われるまでもないことだった。


「吾の言葉ではないもので、あれをつないでくれると良いのだがな」


 ぼつりと溢れた父の言葉に、何故か朱華の肩は微かに震えた。


「――それは?」

「……最も単純で強いものは愛情だろうな」


 その言葉に朱華は身を強張らせた。父は娘を気付かれないように一瞥し、そっと息を吐く。

 彼女は夫候補である二人の青年に対し、態度をはっきりさせていない。そのうちの一人である霜罧に対しては悪感情すら抱いており、つい先日までその自己制御すらままならなかったような始末だ。

 枳月との関係は安定しているようだが、彼の心を開かせ生きる意欲を持たせることができるかどうかは甚だ心許ない。

 何せ、彼女自身、自分の心を分かっていないようだった。自分の結婚は政略的なものであり、それを受け入れなければならないことは理解しているようだが、それだけで枳月を繋ぎ止めることはできないだろう。

 何せ、枳月自身、相手が誰であろうと結婚を拒んでいるのだ。それを頷かせるのは並大抵のことではない。己の血筋を絶やしたい彼と、後嗣を必要とする朱華との婚姻は根本的に相容れない。それでも共に人生を歩みたいという強い気持ちが、せめてどちらかに無ければ難しいだろう。しかしながら、今のところ二人ともに自分のことで精一杯というようすだ。


「……愛情、ですか」


 暫しの沈黙の末に答える娘の声音もかたい。

 垣間見見えるのは戸惑いだった。四女には浮ついたところが一切ない。すぐ上の三女はまるで逆で、結婚するまでも、その後も親をやきもきさせている。が、まるで無縁であるということもやはり厄介なのだということを、彼は噛みしめる。

 両親である自分たち夫婦は自他共に認めるおしどり夫婦であり、五人の娘たちを含む家族関係も、身分や立場にしては良好だったはずだ。愛情や思いやりに欠ける環境で育ったわけではない以上、四女のそれは生まれ持った資質なのだろう。

 女性の皆が皆、恋愛にうつつを抜かしているわけではないし、それを最優先するわけではないことは、彼も知っている。彼の妻も然り、長女次女も同様だった。

 だが、四女については少し毛色が違うようにも思われる。

 他者に対して人並みの情はあり、思いやりも持ち合わせている。男嫌いというわけでもなく、王女時代には近衛に出入りした挙句、今では苴葉公として男性ばかりに囲まれて執務をこなしている。誰かを特別贔屓にしているという噂も聞こえてこない。せいぜい、補佐役である霜罧との不仲程度だ。彼女自身が、そういう噂の立つような行動を慎んでいるわけでもないらしい。男っ気がないの一言に尽きる。

 だからと言って、同性を好んでいるわけでもなさそうだった。乳姉妹とは非常に仲はいいようだが、擬似姉妹の域を出るような気配もまたない。色恋沙汰には興味がない、で済むかどうかは定かではないが、今のところはそうしておくしかないだろう。苴葉公就任で余裕がないというのが実際でもあるだろう。


「愛だの恋だのばかりが愛情ではあるまい。家族や友人、師弟など、親愛が基礎になる関係はいくらでもあろう」


 少しばかり呆れたように言葉を返せば、娘は誤魔化すように弱々しく微笑した。


「そ、そうでございますわね……けれど、枳月殿は私の夫候補でもいらっしゃいますので」

「それはそうだが」


 身構えるには根拠があることも確かだった。


「そういえば、あれは自らそなたに明かしたそうだな」

「……枳月殿がそのように?」

「ああ、あの翌朝にな。苴州を舞台に本格的に動くことなるに加え、そなたに仕える以上隠し立てはしたくなかったそうだ」

「そうですか」


 朱華はふっと息を吐く。枳月の気持ちを考えると遣る瀬無くなる。

 自分の出自を呪い、親の犯した罪を償うことだけが唯一の支えなのだろうか。その罪もただの罪ではなく、結果をもたらすためには避け得なかった事態だとしても、それはやはり罪なのだろうか。甚大な被害を考えれば、朱華にはやはり罪ではないとは言い切れないように思われる。しかし、それは彼の犯した罪ではない。想定する結果得るために、あえて犯す罪とは、末代まで背負わねばならぬものなのだろうか。

 そもそも発端となったのは、朱華の父のぬるさである。彼の罪を償うべきは父碧柊であり、その子である自分ではないか。


「……父上、些か出過ぎたことをお訊きしてもよろしいですか?」


 慎重なようすで言葉を選ぶ娘に、父は眉を上げただけで黙って頷いた。


「母上は雪蘭殿に恩義がおありであることはわかりました。なれど、父上は負い目があると仰いました……そもそもの発端となったのは、父上の判断の誤りだとも。ならば、真に責任がおありなのは父上なのではありませぬか?」


 娘の言葉に、彼はふむとでも言うように眉を動かした。それ以上表情を変えることもなく、ちらと娘の顔を見る。そちらは依然かたいようすで、詰問するような眼差しを返してきた。彼はそんな態度を揶揄するように、ふっと口の端を上げた。


「ああ、そうだ。だが、それが如何した?」

「父上?」


 咎めるような声音に、彼は冷ややかな一瞥で返し、黙らせた。


「なんだ?」

「……」

「答えられぬか?」

「……如何したとはどういうことですか?」

「そのままだが」

「責任はお認めになられるのですね?」

「ああ。だが、それが如何した?」


 あっさりと返されて、彼女は言葉に詰まる。

 父の態度に後ろめたさはなく、むしろ堂々と開き直っているようでもあった。予想外の反応に、朱華に返す言葉はない。

 碧柊は無表情で黙り込む娘に反問する。


「そなたは何故なにゆえそのように憤ったような顔をしておる? 理由あってのことであろう?」


 まるで父を責めたことを咎めるような言葉に、朱華は眉をひそめる。


「真に責めを負うべきは父上なのではありませぬか?」


 娘の言葉に、彼は片眉を上げた。


「吾が何も負うておらぬとでも申すか? だいたい、事態を引き起こしたのはあれであって、吾が命じたわけではない。あれにそのような決意をさせるに至った吾の不甲斐なさを恥こそすれ、あれのとった行動で吾が責めを負うて覚えはない。そなたはそれすら理解できぬか?」

「……」


 冷ややかな口ぶりで父に諭され、朱華に返答に詰まった。確かに父の言う通りであり、朱華の先ほどの台詞は、感傷に流された浅はかなものには違いない。


「あれのあのような行動を招いた責は、確かに吾にある。だからこそ、吾は統一された葉の王位に青蘭を据え、その伴侶として戦いの陣頭に立ち、内乱と翼波侵入の後始末にあたり、国内をまとめるためにも尽力した。吾なりにあれに対する責任は果たしたと考えておる……あれが荒療治で膿を出しきろうとした意図も、無駄にはしなかったつもりだ」


 父の最後の言葉に、朱華は訝しげに顔を上げた。


「当時から、あれの為すことの原因は吾にあるのではないかと考えておった故な、戦いのどさくさに紛れて、後々憂いの因となりそうなものも取り除いておいたのだ」

「それはどういうことですか」

「そなたの考えている方向で間違ってはおるまいよ」

「――それもあの方の所業になさったのですか?」

「一部は、な。事前より疑いのあった罪状で裁いた場合もある……吾の知ることばかりが全てではなかろうがな――で、そなたはそれをどうしろと言いたいのだ?」


 これまでに向けられたことのないような眼差しを受け、朱華は身を縮こまらせた。父は怒っているというよりも、呆れているという気色を漂わせている。それは怒りを買うよりも恐ろしいことだった。


「あれは真は国を裏切ったわけではないとでも公表するつもりか?」

「まさか、そのような……」

「流石にその程度のことは理解できるか」


 嘲りを含んだ笑みを向けられ、朱華は思わず目を逸らした。父からこのような態度を示されたのは、初めてだった。


「では、どのようなつもりでの発言だったのだ?」

「それは……」


 朱華は言い淀む。父を非難したその先に、明確な考えがあったわけではない。そんな内心を察したように、彼は溜息を一つ吐いた。


「あれと吾には、それぞれ別に負うべき責めがある。原因となったのが吾の甘さだったとしても、あれが吾を諌める方法は他にいくらでもあった筈だ。あれの知略をもってすれば、吾をのぞいて自らが葉の王として即位することも可能だっただろう。それを選ばず、よりにもよってあのような方法をとりおった。恐らく、あの方法が最も効果的だと考えたのだろうがな……おかげで、葉の統一はうまくいった、百年にわたり対立してきたにしてはな。共通する敵が存在する限り、積年の恨みつらみは後回しにせざるを得ん。その間に時間が経過すれば、嫌でも融合は進む。王家自ら東西の貴族間での婚姻もすすめてきた故、次代の領主の大半は両方の葉の血をひいているだろう」

「……」

「それが吾なりの償いであり、あれへの感謝でもある。あれがし残したであろう諸々にもけりは付けた。あれの遺志は汲んだつもりだ」


 彼は穏やかに語り、最後に朱華の肩を叩いた。四女はその頃には肩を落としていた。


「……浅慮でした、申し訳ありません」

「この件は一の姫にもまだ明かしておらぬ――伝えるかどうかは、まだ女王とも結論が出せておらぬのだ……だが、そなたは枳月と関わらねばならぬ故、知っておいた方がよいかもしれぬ」


 朱華は無言で小さく頷いた。碧柊は酒杯にわずかに残ったものを空けてしまう。


「国内はなんとか落ち着いてきた。次は翼波だ。枳月の記憶が戻った以上、片をつけねばなるまい。あれはそのために枳月を寄越したのだろうからな」

「翼波、ですか」


 枳月はもうそのつもりでいるだろう。父の言う通りではある。いずれ片をつけねばならないことであり、避けては通れない。苴州の領主としては最優先すべきことでもある。


「青蘭が王位にあるうちに片をつけねばならぬ、それがあれの遺志でもあろうからな」


 女王はまだ四十代であり、退位の話は出ていない。葉の王位は原則終身であり、であれば次の女王がたつのは数十年先のことになるかもしれない。翼波の問題は、それだけ長い時間をかけて取り組まねばらないものなのだ。

 朱華は手の中の酒杯を見下ろす。中身はほとんど残っていなかった。それを空けると、両手でぐっと握りこむ。思い切ったように顔を上げ、父の顔をまっすぐに見つめた。


「父上――いえ、王配殿下、お願いがあります」


 あらたまった様子の娘に、彼は無言で先を促す。


「私を国境地帯――戦線にお連れくださいませんか?」

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