第7章 6
執務室の扉がノックされ、霜霖が応じると列洪が入ってきた。書類を次の部署に届けるついでに指示もいくつか出してきたため、時間を要したのだ。
主人はまだ火の燃え盛る暖炉を背に、書類に目を通している。霜霖は筆を片手に文書を作成中だ。
使い古された執務机が並ぶ室内は、乾いた空気に薪の燃える匂いがまじっている。今日は寒の戻りのため暖炉に火が入っているが、窓からさしこむ光は春のものだった。
変わった様子はなかったが、自分の席に戻る際に目に止まったものがあった。霜霖がくしゃくしゃになった書類を清書しなおしていたのだ。珍しいことではあったが、列洪はそれに触れないことにした。誰が書類を握り潰したのかは気になるところではあったが。
暫くして、朱華が「霜霖、今良いか?」と声をかけた。書類に不明な点があった時のいつものことだ。呼ばれた彼は短く応じると、速やかに手を止め主人の元まで行く。
朱華の机を挟んで、霜霖は書類の説明をする。主人は眉間に皺を寄せて文面を見つめがら、懸命に理解しようとしている。いくつかのやりとりの後、ようやく納得した苴葉公は決裁の署名を終えた。
「……やはり、効率が悪いわね」
その書類を霜霖に手渡しながら、朱華は眉根を寄せて溜息をついた。
分からないことがある度に手を止めることになり、朱華だけでなく霜霖の仕事も滞ることになっている。だからと言って、よく分からないまま署名することは霜霖と列洪の二人から止められた。自分でもそれは良くないと思っている。
「失礼ながら公はそういう教育を受けておられませんから、無理もないかと」
「――そなたは学院を出ているのよね、当然だけれど」
葉には、王統家や貴族の子弟が官僚となるため教育を施す学院がある。早くに近衛に入るか、よほどの理由がない限りはそこに入学するのが当然とされている。定められた期間はなく、卒業はそれぞれの能力次第とされている。
「一応は」
「一応ね、」
朱華は感心しないと言いたげな顔で繰り返した。
「学院史上最短期間で卒業しておいて、その言い草はどうかしら。謙遜も過ぎると嫌味ね」
「こればかりは失礼いたしました」
まったく反省していない様子で、口先だけ詫びてみせる。朱華は呆れたように眉をあげたが、いつもの二人のやりとりの域を出るものではない。
「失礼します、公」
二人の会話を遮ることを詫びるように、列洪が席に着いたまま手をあげた。
「如何した?」
彼にしては珍しい行動に、朱華は眉を上げる。発言を許された列洪は、立ち上がった。
「霜霖殿が教師役をなさるのは如何でしょうか?」
「霜霖が?」
「……」
意外な提案に、二人は顔を見合わせた。
「いずれ都から教師を招く必要もあるかもしれませんが、基礎的なことであれば霜霖殿でも可能なのではありませんか?」
「……確かに、姉上の教師を学院の生徒がつとめていたこともあったわね」
一の姫と二の姫の教育は、学院の教師が内奧に出向いて行なっていた。初期の教育は、卒後学院に残り教師となることが決まっている生徒が行うこともあった。
三の姫以下の王女は王位継承の可能性が低いため、教育は行われなかった。
列洪と主人から注目され、霜霖はあっさり頷いた。
「――しかし、公、私が教師でよろしいのですか? 一対一になりますが」
相性の悪い自分でいいのかと、霜霖は朱華に確認する。彼女は一瞬言葉に詰まったが、じきに頷いた。
「他に適任者はいない。よろしく頼む」
「公が良いとおっしゃるなら、私に異論はありません」
霜霖は恭しく一礼してみせた。朱華は観念したように息を吐く。
「しかし、講義の時間はいつにする? そなたの執務の時間をさけば、支障が出よう?」
「執務が終わった後、公の夕食の時刻までの間は如何でしょうか?」
「……私は良いが、それではそなたの休む時間がないのではないか?」
「失礼ながら、公にお教えする程度でしたら休憩と変わりませぬ故、ご安心ください」
教師役などたいしたことではないと言わんがばかりの言い草に、朱華はふんと鼻を鳴らした。
「私は理解が悪い故、そう簡単には行かぬかもしれぬな」
「なに、慣れております故」
涼しい顔で言ってのける霜霖を、朱華はじろりと睨むように一瞥した。
「その言葉、忘れぬように」
「はい」
霜霖は嫣然と請け合い、一礼すると自分の席に戻った。
日が傾く前に、朱華は練兵場から戻った。いつもより早い帰室だが、予め夕瑛には連絡してあった。自室の扉を開けると、華やかな色合いの衣が寝台に並べられていた。
「少し派手すぎではなくて?」
入室するなり、夕瑛が朱華の衣を脱がせにかかる。
「せっかくお母上が整えてくださった衣装ですのよ、ずっと出番がなかったのですから、ここぞという時に腕をお通しにならないで如何されますか」
衣装の大半は母である女王が支度してくれたものだった。夕瑛の言葉通り出番はほとんどないといえる。
不服そうな朱華に御構い無しに、夕瑛は問答無用で着飾らせてしまった。
いつもは深い色合いのものが多いのだが、今日は趣を変えて鮮やかな色合いの衣を重ねる。化粧も華やかさが加えられ、鏡を見た朱華は顔をしかめた。
「派手すぎるわ」
「ご安心ください、お似合いですから」
「けれど」
言いつのりかけたところに、時を告げる鐘が打ち鳴らされた。
「あら、もう講義のお時間ですわよ、初回から遅刻なさるおつもりですか?」
夕瑛は反論する隙を朱華に与えなかった。あれよあれよと言う間に部屋の外へ押し出され、身柄を護衛兵に引き渡されてしまった。
朱華は恭しく一礼して見送る夕瑛の頭頂部を睨みつけた。
が、こうなっては当初の予定通り行動する他ない。今夜も宴が催される。勿論、もてなすのは朱華の役割だ。剣術の稽古と宴までの短い時間に講義を望んだのは、他ならぬ朱華自身だった。霜霖は翌日からの開始を提案したが、朱華は思い立ったら吉日を選んだ。
それでも、すでにいくらか遅刻している。急ぎ足で向かった先は図書室だった。講義を行う教室に、そこを指定したのは霜霖だ。図書室には苴州の資料も揃っているためうってつけだった。
「遅くなった」
護衛兵が開けた扉を潜るなり、朱華はそう言い放った。霜霖はすでに来ており、部屋の片隅で何やら読んでいたようだった。彼もまた、すでに服装を改めている。講義のあとはそのまま朱華を宴席まで案内するつもりなのだろう。
図書室の四方の壁には天井まで書物が積み上がり、明り取りの窓から差し込む光はすでに弱弱しい。部屋のあちこちの角灯に火がともされている。霜罧はその一つを手元に置いていた。
「予定が立て込んでおります故、お気になさらずに」
霜霖は手にしていたものを手近な机に置き、朱華の訪室を一礼して迎える。それから頭をあげ、しばし沈黙した。
その沈黙に、朱華は気まずげに入り口で立ち尽くす。既に護衛兵は下がり、室内には二人きりだった。
「……極楽鳥のよう、でしょう」
似合わない格好を恥じるように、朱華は呟いた。霜霖は「まさか」と即座に否定する。
「華やさに目を奪われてしまい、失礼いたしました。いつもの落ち着いた深みのある装いもお似合いですが、今日はまるで大輪の花のようでなんとも艶やかでいらっしゃる」
霜罧は阿りではなく、本気で称賛しているようだった。朱華は心地悪そうに身じろぎし、上衣の裾を引っ張る。
「けばけばしくてどうかと思うけれど」
「なにをおっしゃいます。華麗ではいらっしゃいますが、けばけばしさなどとは程遠い。公は凛とした品をお持ちですから、多少華美な装いをなさっても下品にならないのでしょう。なんというべきか――眼福とでも申し上げましょうか」
部屋の隅から歩み寄ってきながら、その間も霜罧の視線は朱華に釘付けだった。素直な称賛がその眼差しには溢れている。朱華はそれを感じ取ると頬を染めながら、顔をそむけた。
「もうよしなさい――居心地が悪いわ」
「そうですか、残念です……王配殿下もお喜びになられるでしょうに」
さらに美辞麗句を並べ立てそうな気配を感じ、朱華はやめるように手を振った。
「ともかく、時間がない。講義をはじめなさい」
「――では、そういたします」
彼はそう言うと、彼女に手近な椅子をすすめた。
朱華が腰を下ろすと、じきに講義は始まった。
『慣れている』といった彼の言葉に嘘はなかった。急な話だったため、教本などは存在しない。それでも、彼は短時間で手書きの資料をすでに用意していた。それは初心者向けにわかりやすくまとめられており、要点も明確だった。
教え方も堂に入っており、こなれた感じすら漂わせている。
宴まではわずかしか余裕がなかったため、初日の講義は本当に短時間だった。それでも学んだものは少なくない。
霜罧から渡された資料を見返しながら、朱華は問いかけた。
「そなた、本当に“慣れて”いたわけね」
「学院で初等学級を教えたことがある程度です」
翌日に備えてか、霜罧は持参した紙に何かを書き込みながら応じる。
「史上最短期間で卒業しただけでなく、教師でもあったわけか」
「教師などと名乗れるほどのことはしておりませんよ、ただ少しばかり学院のお手伝いをさせていただいたことがあるだけです――が、どのような経験も無駄にならないとは真ですね。このような形で役立てるとは思いもしませんでした」
答えながらも、その手は止まらない。すでに頭の中でまとまっているのだろう。朱華は自分との出来の違いに舌を巻くような思いで、その手元を見る。
「そのようね……それに、そなたの教え方は分かりやすかったわ」
その言葉に、霜罧は手を止めて顔を上げた。嫣然と微笑み、それから書き終えたのか机の上で文書の端を揃える。
「お役に立てましたなら幸いです。公も呑み込みが早くていらっしゃる。正直、もう少し手こずるかと思っていましたが……こういう方面では聡くていらっしゃるようで安心いたしました」
昼間の、執務室で列洪不在の間に交わした会話のことを指しているのだろう。朱華はむっとしつつも、事実なので反論はしなかった。
「そなたとは比べ物にならぬだろうけれど」
「そのようなことはありませんよ――失礼ながら、ご自分で思っていらっしゃるよりは“悪くない”と私は評価しております」
「それは……欲目抜きで、か?」
「無論です。そこではき違えるほど、私は盲目的ではありません」
きっぱりと言い切って、霜罧は立ち上がった。朱華へ手をさしのべ、椅子から立つよう促す。朱華はそれに手を委ね、ゆっくりと立ち上がった。




