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雪の陰翳  作者: 苳子
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第7章 5

「昨日の話、ですか」


 霜罧は茶化すのはやめたようだが、自分からどのことか触れようとはしなかった。朱華はばつの悪さもあって暫し迷いを見せていた。目を通していた書類を丸め、それで口元を隠して息を吐いた。


「――私の早とちりだったようね」


 話題が話題だけに、朱華は頬が赤くなるのをどうしようもなかった。それを書類で顔を隠して誤魔化そうとしている。そんな様子に、霜罧はわずかに口の端を上げた。


「誤解を解いていただけたなら幸いです」


 彼はあくまで生真面目な様子で応じると、話は終わったとばかりに仕事の続きに戻ろうとした。


「霜罧、話はそれだけではない」


 朱華は慌てて声をかけた。霜罧は手を止めると、意外そうに顔を上げた。朱華は丸めていた書類についてしまった癖を伸ばそうと苦戦しているところだった。丸まったのと反対方向に紙を丸めなおしたりしながら、霜罧と目を合わさずに話を続けようとしていた。


「如何なさいました?」

「……誤解が解けたとしても、問題は解決しないでしょう」

「問題、でございますか?」


 霜罧は問いかけながら、手にしていた書類を机に置いた。朱華は依然書類相手に苦闘している。


「そうよ……そなたはああ言ってくれたけれど、枳月殿の心が変わるとは思えない……私もその気持ちを尊重したいと思っている」

「――それがどういうことかはご承知の上で、ですか?」

「当然」


 短い言葉に感情はなかった。霜罧は注意深く主の様子を見つめた。


「では、私を夫に選んで下さるということですか?」


 彼の口ぶりは淡々としていた。


「そうなるわね」


 朱華もあくまで事務的に応える。目を合わそうとはしない。不満や悲壮な気色は見せていないが、苴葉公就任を引き受けた時のような割り切ったようすはあった。


「……まだ、そうお急ぎになられなくともよろしいのではないでしょうか?」


 霜霖の言葉に、朱華は手にしていた書類をぐしゃりと握りつぶしてしまい、それからしまったという顔をした。


「――私が覚悟を決めたというのに、そなたはまだそういうことをいうの? ……三の姉上に男子ご誕生は知っているでしょう。そういう意味でも時間はあまりないはずよ」

「失礼ながら、そのお子が無事に長じるかどうかはまだ分かりません。男子は体が弱いことが間々ありますから。それにもしご養子の話があっても、公がご承認なさらなければすむ話です」

「陛下直々のお声掛だった場合はそうはいかない」

「あるとしても、まだ先の話となるはずです」


 焦りをみせる主人に、霜霖は落ち着いた様子で言い聞かせるように話す。朱華は不満そうだったが、霜霖の意見に反論できる根拠も自信もなかった。


「いっそ、暫く独身でいらして縁談を交渉の餌になさるのも手です」

「餌?」


 きょとんとする朱華に、霜霖はにやりと笑った。


「夫候補を他にもお求めになり、誰にもいい顔をなさって交渉を有利に持ち込むこともできましょう」

「交渉とは?」

「各州の軍の苴州での滞在時の負担金、物資の値段、王都における派閥、いくらでもあります。なにごとにも交渉が必要です。これまで公にお任せしたことはありませんでしたが。この先女性だということで不利になったり侮られたりすることも出てくるでしょうが、逆手にとることもできるということです」

「……私の夫という立場を餌にするわけね」


 朱華は複雑な表情で嘆息した。霜霖は涼しい顔で頷いた。


「そうです、公のお気には召さないかもしれませんが」

「……」

「そうしている間にお眼鏡にかなう人物が出てくるかもしれません。もしくは、枳月殿下のお気持ちが変わるかもしれません。ひょっとすると、私霜霖でなくてはとお思いになられるかもしれませんし」


 朱華は霜霖の最後の言葉に首を傾げる。先ほど朱華の提案に乗らなかったにも拘らず、まだ朱華の夫なるつもりはあるというのか。


「……それなら、今、そなたを夫に選んでも良いのではないか? なにが気に入らない?」

「急ぐ話ではないのですから、よくよく熟考なさってくださいと申し上げているのですよ。昨日の今日では熟考したとは言えないでしょう」


 あくまで霜霖は朱華の決断を受けるつもりはないようだった。朱華は怪訝そうに眉を顰めた。


「熟考の末にそなたを選んだならば受けるというのか?」

「はい、恐れながら」

「ならば今でもいいのではないか?」


 朱華は不思議がっていた。霜霖は気づかれないようにそっと息を吐く。


「後悔なさるのは姫ですから、申し上げているのですよ」

「後悔するのがそなたではなく私なら、別に良いのではないか。私当人がいいと言っているのだし」

「姫に後悔して頂きたくない故に申し上げているのですよ」


 理解の悪さに苛立つことなく、霜霖は噛んで含むように繰り返す。


「……やはり、早合点なさったままなのではありませんか? 差し出がましいようですが、私は姫のお気持ちを考慮して言わせていただいているのですよ……もしあなたが私を好いてくださっていたなら、今すぐお話を受けさせて頂きますが、残念ながらそうではないでしょう」

「……分かったわ、私の理解が悪いようね」


 朱華はまだ納得いかないが、これ以上話しても平行線が続くことを悟り、不承不承頷いた。


「こういうことにはいささか鈍くていらっしゃるようですね」


 霜霖は実感のこもった口調でしみじみと呟いた。それは嫌味よりも朱華にはこたえた。


「姫も枳月殿下のお気持ちを慮って、殿下との縁談はなかったことにしようとなさっておられる。それと同じですよ」

「けれど、私は枳月殿を、その……男性として好いているわけではないから、そなたとは事情が異なるでしょう」

「恐れながら、まず相手に配慮するのは恋愛に限ったことではありませんよ。家族然り、友人然り、部下然り、ひいては国の民も然り。公とて同じではありませんか?」

「……それはそうね」


 朱華はこの程度のことで、霜霖から懇切丁寧に説明を受けなければ理解できない自分に悄気ていた。


「そもそも、まことに枳月殿下に公のお気持ちがないのかも怪しいものですね、そのご様子では」

「……どういう意味かしら」

「こういうことはある瞬間からはっきりと始まるものではありません――稀に一目惚れというものもあるようですが。そして、理屈で納得した上でなければ始まらないものでもありません」


 朱華はまたきょとんとしている。霜霖は僅かに天を仰ぐような仕草を見せ、気を取り直した。


「これだけ嫌われているにも拘らず、私は依然として姫に惹かれています。理屈に合わないとお思いになられませんか? 他にも女性はたくさんいる。邪険にされてもあなたに拘る必要はない。むしろ、あなたの気持ちを考えるなら、さっさと他の女性に心を移すべきでしょう。それでも、私の気持ちはままならないのです」

「……」

「気がつけば惹かれていた。そしてそれに気づいた時にはもう遅いのです。自分の心なのに、制御できなくなっている。そういうものです……そして、姫もお気づきになられていないだけで、もう既に枳月殿下に惹かれていらっしゃる可能性もある」

「……まさか」

「他人に指摘されて自覚できるものではありません。こればかりは個人差があります。だから焦らずに熟考なさるようお勧めしているのです」


 分かっていただけましたか? と言外に問われているようで、朱華はこたえられずに目線を落とした。


「……私が枳月殿を?」


 まさか、ともう一度声に出さずに呟いたが、朱華にはよくわからなかった。霜霖はそんな彼女の反応を見逃すまいとするように見つめている。朱華はそれには気づいていない。


「……霜罧、何故、そなたは私を焚きつけるような真似をする?」


 自分の気持ちは分からないが、霜罧の意図は朱華にも分かった。ただ、納得はいかない。


「焚きつけてなどおりませんよ――ただ、最初から選択肢を絞ってしまう必要はないと申し上げているだけです」


 霜罧はあくまで生真面目な態度を崩さない。朱華は苛立ちを押さえきれなかった。


「けれど、やけに私に枳月殿を意識させようとしておらぬか?」

「……少なくとも、姫は枳月殿下を嫌ってはおられぬでしょう。それ故に、嫌っておいでの私よりはと考えているだけですよ。だからこそ、他に夫候補をお求めになられるのも一考と申し上げているのです」


 口調をとがらせる朱華に対し、霜罧はあくまで冷静だった。そんな彼に、朱華はますます苛立ちを募らせる。握りつぶしてしまった書類を両手で伸ばしながら、憤りをあらわにする。


「確かに私はそなたが嫌いだわ――けれど、この先もそうとは限らないのではないの? 実際、そなたの支えなしに苴州の切り盛りはできぬし、それについてはずいぶん感謝もしている……それに、私のこれまでの態度にもかかわらず、それでも愛想尽かしもせずに私の気持ちや――私のことを優先して考えてくれる……大切にしてもらっていることも理解している。それでも、そなたを嫌うほど、私を薄情だと考えているの?」

「……」


 朱華の反論に、霜罧は驚いたようだった。思いもしなかった事態に遭遇したように、興味深そうに朱華を見つめている。冷静な彼の態度に対し、感情的になったことを恥じるように、朱華は唇をかむ。


「……そなたこそ、決めつけてかかっているのではないの? 私は確かに今のところ枳月殿のほうに悪感情を抱いていないわ――けれど、それは即ち男女の情とはならないでしょう。それに、どちらにより感謝しているかと問われれば、そなたのほうに感謝している……この先も私の気持ちが変わらないと、そなたは決めつけてかかっていないと言える?」


 朱華は畳みかけるように言ってのけた後、自分の発言に改めて顔を赤らめた。霜罧はしばらく沈黙していた。その静けさに、朱華はますます身の置き所がないような心地だった。


「――確かに、これまでは姫に嫌われていて当然だったので、そういうことは考えてみたこともなかったかもしれません……しかし、そういうことを仰るということは、私にも望みはあるということになりますか?」


 霜罧は慎重な様子で朱華に問いかけた。朱華は頬を紅潮させたまま、他所を向く。


「だから、何事も決めつけてかからないように言っているでしょう」


 霜罧は薄い笑みを浮かべた。


「そう致しましょう」



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