第7章 4
夕瑛から容赦ない指摘を受けた朱華は悄気ていた。夕瑛はその様子に微苦笑する。
「で、誤解は解けまして?」
「……それは分かったわ、私も何故よりにもよってあのような思い違いをしたのかしら……あなたの言う通りね……後ろめたさは確かに感じていたわけだし」
「あら、自覚なさっていたならますます問題ですわよ」
自省する朱華の言葉に、夕瑛はぴしゃりと返す。朱華は再び痛いところをつかれて、気まずげな顔をした。
「自制のできない方ではないのに、何故霜霖殿にだけはそうなのでしょうね」
仕方ありませんねと溜息まじりに言われ、朱華はますます決まり悪げな顔をする。まさしく自分自身でも持て余していることだった。
「……八つ当たりしてしまっていることは詫びたというか、まぁ……それこそ先ほどの話の前にね」
はっきり詫びたわけではないため、朱華は語尾をもごもごと誤魔化した。夕瑛はそんなことはおかまいなしに、少し驚いたように片眉を上げた。
「あら、そのようなことがおありだったのですね。霜霖殿はなんと?」
好奇心を隠そうとしない夕瑛に、朱華は困惑顔で口ごもった。
「他の者にはしていないのだから、構わないのではないか、とか……」
「あら、お顔が赤いですわよ。あの方のことですから、甘い言葉でも囁いたのではありませんか?」
「……」
夕瑛の揶揄いに、朱華は耳まで赤くした。
「あらあら、その通りでしたのね」
「……あれは私を揶揄っているだけよ」
「あら、また、悪く解釈なさってますわよ、悪い癖ですわね」
乳姉妹の指摘に、朱華はうっと言葉に詰まる。夕瑛はついにくすくす笑い出し、そっと両手で包んだ朱華の手を引く。
「で、なんと?」
「――そなた、面白がっているでしょう」
朱華は立てていた膝を横にし、椅子の上で胡坐をかく。そして、膝まづいたまま悪戯っぽい目で見上げてくる乳姉妹を睨むように見据える。しかし、彼女は悪びれることもなくにこりと微笑んだ。
「そのようなことはございませんわ」
「その顔で説得力があるとでも?」
「もう、そのようなことはないと申し上げているのですから、良いではありませんか――で、なんと?」
聞き出す気満々の夕瑛から逃れることはできない。朱華は諦めたようにため息をついた。
「……ただ、私が霜罧に甘えているようで光栄だと言われただけよ」
顔を赤らめたまま、目をそらして不自然なほど素っ気なく白状した。
「それだけですか?」
「それだけよ」
再び夕瑛が朱華の手を引っ張った。
「そのご様子だと、嘘ですわね」
「……夕瑛、」
朱華はわずかに強い口調で彼女の名を呼んだ。夕瑛は主人の苛立ちを感じ取ると、澄ました顔で手を放した。
「――無粋な真似はこのくらいにしておきますわ」
「……本当に、もう、そなたは……」
朱華はほっとしつつも苦笑いした。女官は非常に行儀の悪い格好をしている主人の胡座の膝を軽く叩く。しかも下着姿である。
「また、そのような格好をなさって。はしたないですわよ」
「そなたしかいないのだから、かまわないわ」
朱華の言葉に、夕瑛は呆れたように肩をすくめ、立ち上がった。机の上に置いた衣を手に取り、持ちやすいように整えた。
「姫さまは未だに苦手にしておられるかもしれませんが、私は霜罧殿がお相手でも良いのではないかと思いますわ」
背後からの言葉に、朱華は驚いた顔で振り返った。求められてもいないのに、彼女が自ら意見を口にすることは滅多とない。ましてやこのようなことでは。
「――何故?」
霜罧に丸め込まれたのかと言いそうになったが、辛うじてその言葉は飲みこんだ。おそらく彼はそこまでしないだろうし、夕瑛はそもそもそのような小手先が通じるような人間ではない。
「……私も霜罧殿が姫さまを想っていらっしゃることは知っています――本人の口から聞きましたので」
「いつの間に……」
朱華は二人が個人的に接触しているとは思っていなかった。身分差もあり、立場も異なる。朱華抜きで二人が接触する機会も思いつかない。
「姫さまのためでしたらなんでもいたします、と以前申し上げました通りです。だからと言って、何もかも包み隠さず姫様に申し上げているわけではありません。お耳に入れないほうが良いこともありますし、姫さまご自身が自らお気付きになるまで黙っていることもございます。全て私の一存ではありますが、すべては姫さまの御為を一番に考えて行動しているつもりでございます」
「――そうだったわね」
朱華は夕瑛に感謝するように微笑みかけた。夕瑛は腕にかけた朱華の衣を整えながら話をつづけた。
「相手の意思を無視して我がものにしようとする男性も珍しくはありません。けれど、霜罧殿はそうではありません。もちろん、選ぶ立場にいらっしゃるのは姫さまです。それは姫さまにとっては義務でもある。苴葉公として結婚し、血筋を残すのは姫さまの義務です。逃れようのないことですし、姫さまにもそのおつもりはない……霜罧殿が姫さまにそのように申し上げたということは、枳月殿下は未だに結婚を拒んでおられるということではありませんか? そして、姫さまはその理由をもうご存知でいらっしゃる」
俯き加減のまま目線を上げ、見上げている朱華と目と合わせる。朱華は何度か瞬きした。
「なぜ、そう考える?」
「……姫さまがご存知だということは、霜罧殿も同様でしょう。どのようなものかは知りませんが、姫さまはその理由をお知りになり、その結果枳月殿下のお考えに納得された。それは、姫さまの選択を一つにしてしまうことでもあります。それを霜罧殿は理解し、そうではないことをお示しになったのではありませんか?」
夕瑛は淀みなく推測を話した。朱華は無表情で聞いていたが、最後まで聴き終えると椅子の背にもたれ、再び片膝を抱えた。
「……そなたと言う人は」
「では、当たりですわね?」
悪戯っぽく笑う夕瑛に、朱華は肯定も否定もしなかったが、二人の間ではそれで理解は成立する。
「状況は霜霖殿に有利です。姫さまは真面目な方ですから、黙っていればいずれ観念なさって霜霖殿を夫にお選びになられたでしょう。にも関わらず、そうではないことを姫さまにお話になった。ご自分よりも、枳月殿下の方が、姫さまのお心に添うかもしれないとお考えになったのではないでしょうか」
「……そのようなことを話していたわね」
朱華は目を伏せがちにして同意した。
「ですから、私は姫さまに幸せになっていただきたい。理由はそれだけです」
「……霜霖なら私を幸せにしてくれると?」
「それは分かりませんが、少なくとも霜霖殿は姫さまのお心を優先して考えてくださっています。こういうことをは大切ではありませんか? あとは姫さま次第にはなりますが」
朱華の無作法を咎めるように、夕瑛はそっと彼女の膝を叩いた。朱華は苦笑いして膝を下ろした。
「……枳月殿下のことですが、姫さまはご納得なされたのですね?」
念を押すように、夕瑛は尋ねた。朱華は小さく頷いた。
「……どうなさるおつもりですか?」
枳月は結婚をする気がない。朱華には結婚して子をなす義務がある。霜霖は朱華に好意を寄せているが、朱華は彼を嫌っている。そのため、霜霖は朱華に自分以外の男性を選ぶことを勧めている。
現状のままでは、朱華の結婚は難しい。
「……最善は私が霜霖を受け入れて夫に選ぶことなのでしょうね」
「もしくは他の候補をお選びになるか、独身を通されて養子をお迎えになられるか……三の姫さまは王子殿下ご誕生でしたね」
冬の終わりに三の姫銀華が男子を出産したという報せは、苴州まで届いていた。青蘭女王即位後はじめての王家における男子の誕生だった。
「他の王統家の血筋を迎えるわけにはいかないわ……苴葉公の夫の適任者は枳月殿か霜霖には違いないわ」
より血筋を重んじるならば枳月ということになる。が、朱華には彼の自分の血を残したくないという気持ちも理解できた。 朱華自身にも、彼が明柊の息子であると聞き、怯む気持ちがないとは言い切れなかった。
難しい顔で再び両膝を抱えた朱華の背には、疲労が滲んでいるようだった。
「そろそろお休みになられてはいかがですか? それならお湯をお持ちします。それとも湯浴みなさいますか?」
夕瑛の提案に、朱華は急に疲れを覚えた。口元を片手で隠しながらあくびを噛み殺す。
「もう遅いから湯を持ってきてもらおうかしら」
「では、支度させて頂きます……差出口ではございますが、まだゆっくりお考えになられてもよろしいのではないでしょうか?」
労わるような夕瑛の言葉に、朱華は感謝するように頷いた。
翌日、朱華はいつも通り朝から執務室にいた。父碧柊は王都からきた使者と面談しており、顔を合わす予定は午後となった。
整えられた書類に目を通し、問題がなければ決裁する。分からない点があれば、主に霜罧が説明してくれる。王配の滞在を除けば、代り映えのない日常である。
ある程度決裁された書類がたまると、それを次の部署に運ぶのは主に列洪の役目だった。その列洪が退室すると、それまでいつもと変わりない様子だった霜罧が手を止めた。
「列洪殿はしばらく戻りませんよ、公」
笑みを含んだ穏やかな声音に、書類に目を落としていた朱華は眉を顰めて顔を上げた。なんとか意識を集中して文書に目を通していたところだったのだ。
「――」
「お話がおありなのではありませんか?」
朱華はいつも通りを装っていたつもりだったのだが、隠しきれていなかったのだろう。霜罧はお見通しのように微笑している。その表情にムッとしつつ、朱華は向けられた水を拒みはしなかった。
「その、何もかもお見通しと言いたげな表情はよしなさい」
いつも通り嗜めるように言うと、彼はくすりと笑った。
「そのようなわけはございませんよ、私は神ではありませんので」
「では、そのしたり顔はなんだというの」
「私の顔がお気に召しませんでしたら、申し訳ありません」
霜罧は立ち上がると、恭しく頭を垂れた。朱華は小さく首を振ると、溜息をついて軽く自分の頬を叩いた。
「――公、如何なさいました?」
霜罧は驚いたように声を上げた。朱華は彼に腰を下ろすように手ぶりで示した。
「ああ、もう――そういうつもりではないのよ……座って」
自身を叱りつけるように呟き、それから詫びるような眼差しを霜罧に向けた。彼はその一瞥から何を感じとったのか、浮かべていた笑みを消した。
「昨日の話なのだけど……」
朱華は観念したように口を開いた。




