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雪の陰翳  作者: 苳子
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第7章 3

 朱華の幸福を願うのは自分も同じだと語った枳月は、しかし他人事のような口ぶりだった。


「公は私を兄のような存在だと言ってくださった。私も公を好ましく思ってはいるが、女性として見ているつもりはありません」


 穏やかに話す顔から心のうちを読み取ることは難しかった。

 霜霖は足を組みかえ、そのついでのように視線を滑らせた。あとは二人に任せるとは言ったものの、枳月の発言を聞けば朱華の後押しをしたくなる。いったい自分の本音はどこにあるのかと、我ながら首を傾げたくなり、こみ上げる苦笑いをなんとか堪えた。

 それにしても、あの四の姫が枳月を兄のようだと言ったらしいことに、霜霖は複雑な思いだった。未だに彼は朱華の本音を読みきれていない。自分が嫌われていること以外は。

 彼女は他の姉妹と異なり近衛に所属していたため、男性に免疫がないわけではない。無論、王女である彼女は敬愛されつつも遠巻きにされていたし、本来の近衛同士のような付き合いをしていたわけではない。それでも儀式などの折々に関わる機会はいくらでもあり、乳兄弟めのとごの珂瑛に至っては、文字通り兄弟同然に関わっているようでもある。

 昔から彼女が誰かを気に入っているというような噂は、まったく聞こえて来なかった。婚約もまだだった三の姫が、今は夫となった軍人に夢中であることは当時噂になっていた。その一方、近衛に出入りし最も異性と接する機会の多かった四の姫については、また縁談が流れたという話しかなかった。浮ついたところはいっさいないのが、朱華だった。

 だからと言って、その言葉がそのままの意味とは限らない。彼女とてもうすでに年頃の女性なのだ。


「姫が本気でそう仰ったとお考えですか?」


 霜霖の問いかけに、枳月は首肯する。


「姫がそう仰ったのですから」


 事実としては正しくそうには違いない。霜霖は先ほどの自分の発言を逆手にとられ、返す言葉に詰まった。


「……こればかりは曲げられないのですよ。公は賢明な方だと思っています。私にとっては正しく妹同然に大切な方でもある……全てを承知で愚かな選択をなさるようなら……」

「ならば、どうされます?」


 霜霖はじっと枳月の目を見据えて訊いた。彼は相変わらず無表情なままだった。


「失望するでしょうね……あなたの真摯な申し入れは心に留めておきますが……私にとってはそういうことなのです」


 そう呟いて、枳月は深く息を吐いた。


「……私の母だと言う人は、恐れ多くも陛下と親しくさせて頂いていたそうです……そのような人が、全てを承知で私の父と共に国を裏切り、私まで産んだとか……公が私をお選びになるということはそれに等しい」

「それは全く異なります。あなたは国を裏切ってなどいない」


 霜霖のきっぱりとした否定に、枳月は小さく首を振った。


「私は裏切りの結果生まれたのですよ。私にはそうは考えられないのです」


 これ以上議論する気はないというように、彼は薄く笑った。その目は笑っておらず、やり切れなさを持て余しているようだった。

 霜霖もそれ以上言葉を重ねることは断念した。


「思いがけず長居してしまいました。支障がなければ良いのですが」


 そう言いながら、枳月は立ち上がった。これで話は終わりということなのだろう。


「そのようなことはございません」


 霜霖は微笑して首を振った。


「私でお役に立てることがあれば、いつ何なりとお申し付け下さい」


 立ち上がり、枳月に恭しく一礼する。枳月もちらりと笑みを浮かべた。


「よろしく頼みます」


 枳月も礼を返し、それから自分が掛けていた椅子をもとあった所に戻そうとした。それを霜霖が押し留めると、彼は詫びながら執務室を退室していった。

 一人残された霜霖は、窓際に移動させたままの椅子に座り込み、さてどうしたものかと溜息をついた。

 まず予想外だったのは、枳月自らが自分の正体を明かしてきたことだった。

 葉という国、ひいては朱華の忠実な臣下という点では、誰にも引けを取らないという自負はある。いざとなれば、国益よりも彼女個人の益を優先するつもりすらある。彼女のためになることであれば、本人の意に反することでも躊躇うことはないだろう。

 そういう意味では、彼の人選は間違ってはいない。彼女のためになることの大半は苴州の役に立ち、結果的には国益となる。

 枳月がなにをしようとしているのか、まだ具体的には明らかになっていない。だが、あれだけの想いがあるのであれば、国益を損ねるようなことはまずないだろう。

 問題は朱華のことだった。彼女を焚きつけるような進言をした直後に、その相手である枳月のあの言葉である。まさかそのまま朱華に伝えるわけにもいかない。枳月の考えも変えられそうなものではない。

 霜霖は自分の軽挙妄動を恥じていた。


「こういうのを、確か、人の恋路を邪魔する奴はなんとか……と言うのだったな……」


 解決策か浮かばぬまま窓際で途方に暮れる彼を、戻ってきた列洪が見つけた。彼はついぞ見たことのない霜霖の様子をしげしげと見つめたが、眉を上げただけで何も言わなかった。




 夜にはまた宴席が設けられた。昨夜と比べればささやかなものであるが、例年王配滞在中は連日続けられてきたものらしい。

 夜更けに自室に戻った朱華を、夕瑛が迎えた。

 朱華は酒の匂いを漂わせながらも、顔も白く乱れたところはない。昼間と違い、上衣うわがさねを重ねた華やかな出で立ちだった。昨夜の寝不足もあってか、顔色は優れなかった。

 玉飾りのついた帯を解き、上衣を夕瑛に預けると、朱華はどさりと椅子に座り込んだ。そのままの姿勢で横着に裳を脱ぎ捨てる。春先でもあり、炉に火が燃え盛っているため、室内であれば肌着だけでもさほど寒いわけではない。夕瑛は珍しい主の行動に感心しないというように眉を顰めたが、彼女が殺伐とした雰囲気を醸し出しているのを肌で感じ、口には出さなかった。

 放り出された裳を拾い上げその裾を整えながら、片膝を抱えてそこに顎を乗せている主の顔をそっと伺いみる。


「お疲れのようですね」

「――そうね」


 朱華はふっと息をつき、椅子の上でついに両膝を抱え込んだ。ますます無作法だが、夕瑛は苦笑いはしたものの、咎めはしない。かわりに主の背後に歩み寄ると、机の上に畳んだ衣を丁寧に置いた。そして、結い上げられていた主の髪を解きにかかった。編み込んでいた飾りを外し、すっかり髪を下ろし櫛で梳くと、朱華は心地よさげに深々と息をついた。


「どうなさいました?」

「――どうって……」


 言いよどむ朱華の肩に指を添え、そっと力を加えると、息をのむ気配が伝わってきた。


「すっかり凝っておいでですね。なにかあったのではありませんか?」

「……あったわね、色々と」


 はっきり答えない朱華に、夕瑛は小さく肩をすくめた。


「私がお聞きできるお話ですか?」

「大半は無理ね」

「全てではないのですね」


 夕瑛がやわらかく念を押すと、朱華は言い淀んだ。乳姉妹はこわばった肩を丁寧にほぐしてやる。


「迷っておられるということは、私にお話しなさっても良い類のことですか? …… それとも、私くらいにしかお話しできないことでしょうか?」


 笑みを含んだ声に、朱華は小さく息を吐いた。


「あなたは時々なんでもお見通しね」

「生まれた時からのお付き合いですからね」

「……まるで霜霖のようで嫌な時もあるわよ」


 朱華は苦笑いした。


「霜霖殿のことですか?」


 すかさず返ってきた言葉に、朱華は振り返って乳姉妹を見た。彼女は涼しい顔で肩を揉み続けている。主人の視線に微笑んでみせた。


「なにか聞いたの?」

「どなたから?」

「……いえ、いいわ」


 霜霖から直接聞いたのかと早合点したが、さすがに彼がそのような行動をとるとは思えなかった。


「霜霖殿の名前が出たからそのままお返ししただけですが、当たっておりましたか?」

「……そなたは時々嫌な人間になるわね」

「必要であればいつなりと」


 朱華は渋面で肩越しに夕瑛を睨んだ。夕瑛はにこりと笑って受け流す。朱華はむっとした顔のまま前を向いた。夕瑛はゆっくりとほぐし続けている。


「確かに霜霖とのことよ」


 重い口を開くと溜息をつき、言葉を続けた。

 枳月の秘密については伏せたまま、霜霖との経緯について記憶を辿りながら訥々と語ると、夕瑛が呆れたように声をあげた。


「何故、そうなるのですか?」

「何故って……痛い痛い、ちょっと夕瑛!?」


肩を揉む指の力が突然増し、朱華は悲鳴をあげた。


「姫さま、いったい何をどう解釈すればそうなるのですか――しかも聞きもらしがあるならともかく、きちんと聞いて覚えておられるというのに!」


 わけが分からないまま叱咤され、朱華は唖然としている。夕瑛は相手が主人だろうが構わず呆れ果てたように溜息をついてみせた。


「夕瑛、痛いって言っているのに……」

「今回ばかりは本当に霜霖殿がお気の毒です」


 夕瑛の言葉に、朱華は納得がいかないと反論する。


「何故? 思わせぶりなことを言っておいて、直後に前言撤回するようなことを言って、さらにそうではないって、ではどういうことだと言うのよ。振り回されているのは私よ」


 振り返って抗議する主人の頭部を、夕瑛はさらに強く指の腹で押さえた。


「姫さま」

「痛い!」

「冷静にお考え下さい」


 朱華の悲鳴に手を放し、夕瑛は彼女の前に回り込むと、強い口調で言い聞かせた。


「霜霖殿は自分と結婚すれば、姫さまは不幸になられるかもしれない。そのくらいなら、他の男性と結婚して幸せになって欲しいとおっしゃっているのですよ。要するに、姫さまが幸福でいらっしゃることこそが最たる望みだとお考えなのでしょう。それのどこが、姫さまと結婚したくないになるのですか。悪い言葉ばかり繋ぎ合わせて悪く解釈なさって、被害者面ですか? それほど霜罧殿がお嫌いなら、面と向かってあなたとの結婚など真っ平ごめんだと仰るほうがまだましですわよ、要するに悪者になりたくないだけなのではありませんか? それは卑怯というものです」


 夕瑛は厳しい口調だった。朱華は口ごもりながらも、抗弁する。


「そのようなつもりは……」

「では、どのようなおつもりで?」

「つもりも何も、私はそう解釈しただけで」

「浅はかすぎます」


 きっぱりと断言され、朱華は昼間に父親からも似たようなことを言われたことを思い出した。


「……」

「霜霖殿に後ろめたさがおありだからではありませんか? 近頃の霜霖殿は姫さまに対して言動に気をつかっておられるように見受けられます。それなのに、姫さまは相変わらずでいらして、時として霜霖殿がお気の毒に見える時もあります。姫さまとて自覚していらっしゃるのではありませんか? だからこそ、霜霖殿に愛想尽かしされても仕方ないという恐れも抱いてらっしゃるからこそ、悪く解釈してやはり嫌われたと思い込みになられたのでは?」

「……」


 痛いところをつかれた朱華はぐうの音も出ない。


「あら、図星でしたか?」


 夕瑛は朱華の目を見据えたまま、にこりと笑った。もちろん目は笑っていない。朱華は目を逸らそうとしたが、夕瑛はそれを許さない。じきに観念したように肩を落として項垂れた。


「……容赦ないわね」


夕瑛は跪くと、朱華の手を両手で包んだ。


「姫さまのためですから」

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