第7章 2
地図の返却のために、執務室まできたのは枳月だった。部屋にはまだ列洪は戻っておらず、霜霖が一人で机に向かっていた。
地図の礼を述べ、霜霖に借りていたものを手渡した枳月は、あわせて算師の件も相談した。しかし、苴州内の人材となると列洪の方が詳しいため、いったん保留して彼に一任することで話はついた。
用件は片付いたが、枳月はまだなにかを迷っている様子だった。
「――殿下、私にお話がおありですか?」
霜霖は自分から水を向けた。枳月はまだ迷っている風だったが、じきに思い切ったようだった。
「……十年前のお礼がまだでしたね?」
躊躇いながらも笑みを浮かべた彼に、霜霖も微笑を返した。
「覚えておいででしたか」
「……正確には思い出したのですが……これまですっかり忘れ果てていたようで、失礼しました」
申し訳なさそう詫びる枳月に、霜霖は小さく首を振った。
「なにを仰います」
「……あの時、私が王都に移ることになったのは、あなたのおかげではなかったかと考えていたのです」
霜霖はなにも答えず、ただ曖昧な笑みを浮かべた。
「……これまでのことを振り返ったのですが――あなたは私のことをご承知なのではありませんか?」
枳月は穏やかだが、毅然とした口ぶりで問いかけた。髪の間から覗く切れ長の瞳は細められ、霜霖のどんな反応も見逃さないようだった。
霜霖は一瞬視線を落とし、それから仕方ないと言いたげに肩をすくめた。
「なにをという言葉は、あなたを苛立たせるだけでしょうね」
「苛立ちはしませんが、無駄を承知で迂遠な真似をなさるのは、霜霖殿らしくありませんね」
そう言って微かに笑い、彼は長い髪を耳にかけると秀麗な方の顔を晒した。
「立ち話もなんですね、おかけになりませんか?」
霜霖は観念したように苦笑いし、自分の椅子の背に手をかけた。枳月もまたそれに応じる。
少し前に朱華とそうしたように、霜霖はまた窓際に椅子を移動させて座る羽目になった。相手は枳月。部屋の隅に置いてあった予備の椅子を移動させ、彼もまた腰かけた。
意図して列洪の不在を狙ったわけでもあるまいに、続くものだと苦笑いしそうになった。
「なにを知っているのかとは、お訊きにならないでくださいますか?」
「勿論です」
用心深く言葉を選んだ霜霖に、枳月はあっさり請け合った。そしてそう言っておいて、こんなことを言い出した。
「先に明かしてしまいますが、もう公もご存知です、全て」
霜霖は合点がいった。だから、朱華はあんなことを訊いてきたのだ。だが、枳月にはそれは伏せておくことにした。
「私まで一連托生ですか」
「先に思わせぶりな発言をしたのはあなたですよ」
枳月はにこりと笑った。彼のそんな言動を、霜霖は意外に思ったが顔には出さなかった。どのような人物だと言い切れるほどに、彼を知っているわけではない。
「――それはそうでしたね」
苴州入りの道中でのことを言っているのだろう。枳月の正体におよそ目星のついていた霜罧は、彼の意図を探る意味合いもあって、自分がなにか知っているようなことを匂わせた。それは彼に悪意があった場合に備えての牽制でもあった。
「さして長く関わったわけでもなかったので、殿下が私だとお気付きではないのではないかとも思っていたのです」
「……それはありませんよ、あの頃、私の周囲には大人しかいませんでしたから、同じ年頃の子供とかかわること自体がほぼ皆無でした――特に霜罧殿はあの頃から人目を惹く存在でしたからね」
枳月は口元に笑みを浮かべたまま言葉を続ける。霜霖はそんな彼を新たに見直す必要性を感じていた。〝その通り〟であるなら、彼はあの人物の血を引いているのだ。彼の父がもっとも食えない人だったと評した人物の。
「記憶に留めて頂き光栄です」
霜霖はあえてずれた対応をする。枳月は口の端を微かに上げただけで、それ以上は言わなかった。
「今回の地図の一件のようなことはこの先しばらく続くでしょう。いっそ勘付いている様子のあなたに明かしてしまった方が、協力を得やすいのではないかと考えました。私をどう扱った方が国益となるかが分からぬ方ではないでしょう? ひいてはあなたの姫君の益にもなりますしね」
口ぶりは穏やかだが、内容は朱華を人質にとっての恫喝だ。確かに真相が明らかになれば国は根底からひっくり返るだろう。王族が無傷ですむはずがない。その場合もっとも困った立場に立たされることになるのは他ならぬ枳月自身だが、捨て身の開き直りはある意味最も強い。
「……あなたは思っていたより手強い方のようですね」
霜霖は苦笑いしながら、椅子の背にもたれた。
「そういうわけではありませんよ、ただ、私は目的さえ果たせればいいのです」
「――そのように仰るのは、やはりあの時のことが原因ですか? ……いや、莫迦なことをお訊きしました」
「遅かれ早かれ知れたことです。結果は変わりませんよ。それよりもあの時、私の身元が判明せずにすんだのは幸いでした。そうなれば託されたものをお渡しすることができなかったかもしれません」
「……殿下」
親の罪を自身の罪と見做し、それ故自分を顧みないのだろう。地図を必要とすることからも、彼のいう〝託されたもの〟の種類とその計り知れない価値は予想がつく。それと同等に彼が自身を軽視していることも。
だが、霜霖にできることはない。あるとすれば彼が求めるところの〝協力〟を円滑に進めることくらいだろう。それが分かっていても、霜霖は黙っていられなかった。どうしてもあの日の少年の印象が、彼に重なってしまうのだ。
病床で顔の半分に包帯を巻き、呆然とどこも見ていなかった彼の。
「……失礼ながら、私はあなたが負うべき罪咎ではないと思いますが」
その言葉に、枳月はふっと軽い息をついた。感謝と苦いものが混ざった複雑な表情がのぞく。
「父は贖罪を私に託したわけではないでしょう――仕上げを託したのだと思います……あの人は言っていました、贖える罪はない、と」
目をそらし、ふっと微かに笑う。霜罧はその笑みに、込み上げてきたものをぐっと抑えた。
「――だが、それはあなたの罪ではありません」
感情を抑えた声音は、かえって霜罧の心情を彼に伝えた。
「……そうです、私の罪ではない――だが、それで納得できますか? あなたが私の立場なら、親のしたことは自分には関係ないと、口を拭っていられますか? ……私にはとてもできない……」
そういって、枳月は深い息をついた。霜罧は改めて彼を見つめた。彼は途方に暮れているようだった。そして、この先もそこから抜け出すことは恐らくできないだろう。
「――私にもできないでしょう……それでも、あなたにはいっそのことそうして欲しいとも思います」
口ぶりは平淡だが、彼の表情が思いを伝える。
枳月は感謝するようにわずかに笑みを浮かべた。結局は、彼を救えるのは彼しかいないのだ。
「父に託されたものを渡すことで、少しは私の気も軽くなるのです」
「――だから、誰とも結婚できないと仰るのですね?」
枳月は浅く肯いた。すべてを思い出してもその考えは変わらないようだった。
「……そうです、どうしてもこの血を残す気にはなれません……私の最たる望みは二つです。一つは僅かでもこの葉の役に立てること、そしてこの血筋を伝えないことです」
固い意志を感じさせる口調だった。おそらくその考えを変えさせることは誰にもできないだろう。
霜霖にはかける言葉がみつからなかった。
彼の人生にはあまりに救いがない。せめてささやかな幸福であっても報われて欲しいと思うが、それができない人物だからこそ報われて欲しいと他人に思わせるのだろう。矛盾には違いない。
「……姫がお望みになっても?」
無駄な問いだと承知で、霜霖は問いかけた。
枳月は案の定頷いた。
「公はお望みになりませんよ、おそらくは確実に……そのためにも私の父が誰であるか明かしたのですから。まともな女性なら私を夫に望むはずはありません」
「そうとは限りませんよ、恋情は時として判断を狂わせます。常識は通用しません」
枳月はしばらく押し黙った。
「……あなたがそうだからですか?」
揶揄うためではなく、それを知る者に知らない者からの問いかけだった。霜霖は一瞬目を泳がせ、それから困ったように苦笑いした。
「私の場合は参考にはなりませんよ、最初から歪んでいますから」
「そうでしょうか? あなたは他人のために私情を捨てられるのではありませんか?」
「……買いかぶりですよ、苴州へ来たのは姫に付きまとうためと、王都にいても先が知れていたからです……姫に嫌がられるのは承知の上で、ですよ」
そう言って自嘲気味に笑った。
「また酷く自分を下げるのですね」
「姫と円滑に関係を築けていないのは確かですからね」
「……その様子では理由は承知の上のようですね」
霜霖は苦笑いし、枳月は微かに笑った。
昼をまわった日差しは柔らかく、遅い春の到来を告げる。吹き抜けた風に誘われるように、二人は同時に窓の外を見た。
「殿下のお望みは承りました。前者に関してはできうる限り協力させて頂きます。後者に関しては、私のなかでは姫が優先されますのでなんとも言いようがありません」
「冷静に考えれば、どのような選択が結果的に公の幸福にむすびつくかは明白でしょう」
枳月の言葉に霜霖は首を振る。
「理性で割り切った判断ばかりが幸福に結びつくわけではありません。後で悔いることになると分かっていても、その一時の感情の優先が、生涯においては後悔を凌ぎ幸福をもたらすこともあるそうです」
「……伝聞ですか?」
「生涯を語れるほど長く生きてはいませんので」
霜霖は枳月ににこりと笑ってみせた。朱華がよくよしなさいという笑みだった。
「私は陛下がお認めになられた以上、それが真実であると見なします。あなたの意志など関係ありませんよ」
その表情のまま毅然と断言した。枳月は表情一つ変えずにただ黙って霜霖を見つめている。
「あとはあなた方次第です。外野が口を挟むことではありません。ただ一言余計なお世話を。姫がそういう選択をなさったなら覚悟なさった上でのことです。だから曲げて差し上げて欲しいとは申しませんが、その点だけは汲み取って差し上げて頂きたい」
霜霖はそう言って頭を下げた。枳月は微笑した。
「承りました……やはり、公はあなたをお選びになるべきですね……私とて幸福になって頂きたい思いは同じです」




