第6章 11
霜霖の言葉に、朱華はあんぐりと口を開けて彼を見た。彼は予想済みだったのか、わずかに詫びるような眼差しをした。
「……それは初耳ね」
気を取り直し、朱華は霜霖を見据える。今さら何を言い出すのかという非難も含まれている。それを汲み取った霜霖は、しかし気づかないふりをする。
「お話しする機会がありませんでしたので」
さらりとかわされた。朱華はわずかに眉を顰める。
「……まぁいいわ、で、経緯は?」
溜息ひとつで切り替え、先を促す。霜霖は足を組み替えた。
「あの頃はまだ父も戦に出ておりました。とはいえ、あの足です。戦場では足手まといになるため、宿営地にいることが大半でしたが。私はそんな父の身の回りの世話のためと、初陣前に一度は戦場を見ておけという父の考えで、従者としてそこにいたわけです」
霜霖は十代前半から戦陣に加わっていた。すでに武功もいくつか立てており、苴州でも少なからず名は広まっている。それあって、朱華の苴葉公就任にあたり補佐役を打診されたという経緯もあった。
「そう言えば、春から秋にかけては王都でそなたを見かけることは稀だったわね」
「苴州にいることが多かったですからね……まさかそこに骨を埋めることになるとは思いもしませんでしたが」
霜霖はそう言って薄く笑う。朱華は物言いたげに一瞥したが、話が脱線するため飲み込んだ。苴葉公の夫に選ばれなければ、彼は王都に戻るのではないかという話は、あくまで噂に過ぎないのだろうか。
「先にお話しておきますが、私が枳月殿下を保護したわけではありません。珍しく連れ去られていたらしい葉の民の子供が保護されたという報が入りました。その子が酷い怪我を負っており、年齢の近そうな私にお鉢が回ってきたというのが、その経緯です」
「……では、保護された直後の枳月殿を知っているわけね」
「そうですね……しかし、枳月殿下はそのことには気が付いておられないようです」
霜罧は視線を外へ滑らせた。朱華は複雑な表情で、そんな彼の横顔を見た。
「帰国した直後の記憶ははっきりしないというようなことを仰っておられました」
朱華の言葉に、霜罧はちらと振り返り、相槌を打った。
「――恐らくその通りなのでしょう。私の父が殿下を保護したという話にも、ほとんど反応なさいませんでしたから」
「そなたのことを思い出した様子はなかった、と?」
「はい、まったく」
ここまで彼がはっきり言うのだから、そうなのだろう。朱華はそっと息を吐いた。
「……当時の彼の様子はどんな風だったの?」
問われた霜罧は椅子の背にもたれると、組んでいた足を下ろした。迷うような表情をのぞかせたのち、静かに話し始めた。
「どうといっても、そうですね……私がはじめて殿下を訪ねたころは、まだ保護された子供の身元は分かっていませんでした。片言の葉の言葉は話すが、それ以外の言葉となるとまったくだったので、周囲の者たちは口にする言葉も理解できていないのだろうと考えていたようです。あの顔の火傷以外にも傷を負っておられたため、長く床に伏しておられました。私はその子供の話し相手をするよう言われていたのですが、行ってみれば言葉が通じないから無駄だと言われ、さてどうしたものかと困り果てたものでした」
そう言って、当時を思い出したのか、霜罧はかすかに眉根を寄せる。朱華はそんな彼の表情に密かに小さく笑った。
「――訪ねてみれば、そもそも一言も口を利かれないのです……周りの人間もすっかり拒絶したご様子で、これは言葉が通じる通じないという問題ではないように思いました。それで、訊いたのです、その子供が口にしていたという片言の葉の言葉について。まるでそれしか知らないように、同じ言葉を繰り返していたというので」
「……それは?」
「“なにがあっても私はずっとあなたのことを想っているわ”、と繰り返していたそうです――子供心にも妙だと思いまして、私はそれを父に伝えました。その後、どういう経緯があったのか知りませんが、その子供の身元が明らかになったわけです。私と枳月殿下の関りはそれだけです」
霜罧はあっさりと話を締めくくった。本当にそれだけなのかどうかは分からないが、朱華に明かにするのはこの程度と考えたのだろう。
朱華は片方の手でもう一方の腕をつかみ、考え込むような表情で呟いた。
「“なにがあっても私はずっとあなたのことを想っているわ”、ね」
「……ただ、それだけのことです。枳月殿下も覚えていらっしゃらないようですし、特にこれといった事柄ではないので、お話ししなかっただけのことですよ」
穏やかににこりと笑って見せる霜罧を、朱華はねめつけるように一瞥した。
「そなたがなにかを推測するだけのことではあったはずよ」
「ですから、憶測にすぎません――確たるものは一つもないのですから」
「……その言葉の意味は?」
「それ以上でも以下でもないでしょう――言葉そのものの意味は、ですが。それ以外のことは見当もつきません」
そういって、彼は肩をすくめた。その点においては、彼は嘘をついていないのだろう。
「……で、そなたの言うところの憶測というのは?」
朱華は言葉の追及は諦めて、本筋に話を戻した。霜罧はすっと目を細めると、小さく首を振った。
「口にできることではありません――今後も口にするつもりはありません」
「霜罧――」
異議を唱えようとする朱華の言葉を、彼は強引に遮った。
「あなたがそうだろうとお考えになるようになさってください……恐らく、大きな間違いはないでしょう――それを、公は口にすることがお出来になりますか?」
反問され、朱華は口ごもった。そう、とうてい口にできることではなかった。誰の耳を憚るわけでもないこの状況であっても――口にし、それを耳にする者。そのどちらもが、そうとはっきり言葉にすべきものではない。それはあってはならないことであり、そうではないと女王自らが認めているも同義だった。
「……できないわね」
自分の迂闊さに歯噛みしたいような思いで、朱華は呟き、顔を伏せた。
「ですから、公は選択肢を一つに絞っておしまいになる必要はないのですよ」
霜罧は嫣然と微笑んで呟いた。朱華はその意味を解し損ねて顔を上げる。
「――なにが言いたいの?」
「……そうお望みになられるのであれば、枳月殿下を伴侶にお選びになってもいいのですよ」
朱華は目を瞠り、口を開き、また閉じた。唖然とした様子で、言葉を探している。“何か”は明らかにできないと言ったその直後に、霜罧はこのようなことを言ってのけるのだ。
「陛下は、私と枳月殿下を公の夫の候補にお選びになられた――ということは、そういうことです」
朱華は何度か口を開き、閉じ、視線をさまよわせた。そして、何とも言いようのない顔で霜罧を見た。
「本気で言っているの?」
「はい」
霜罧は今度はまじめな顔で即答し、重々しく頷いた。朱華は意表を突かれたように椅子の背にもたれかかり、脱力してしばらく黙り込んでいた。その反応から、霜罧は自分の“憶測”が当たっていたことを理解した。
「――どうかしているわ」
「そうではありません。確たる事実は一つなのです、それが真実である必要はありません――そして、この国では女王陛下のお言葉以上の事実は存在しません」
それは間違いではない。朱華にもそれは分かっている。だが、それとこれとは別問題、とは霜罧とは考えていないらしい。
朱華は自分が間違っているのかと内心狼狽しつつ、気を取り直すように霜罧を見据えた。
「その前に、そなたは私を……その、妻にと望んでいるのではなかったかしら?」
「それも間違いありません」
霜罧は眉一つ動かさず、大真面目に肯定する。朱華は逆にからかわれているような心地に陥った。
「ならば、何故、他の男性を夫に薦めるようなことを言う?」
あまりにもっともな質問に、霜罧は思わず苦笑した。それを隠しきれなかったため、朱華のさらなる苛立ちを買う。
「霜罧、私はまじめに……」
「私も真面目ですよ、姫」
穏やかに言葉を遮られ、朱華は口ごもる。霜罧は口ぶり通り、穏やかに微笑していた。
「あなたは私をお嫌いでいらっしゃる。それは私の自業自得でもありますので、仕方のないことでもあります――けれど、私はあなたを無理にでも妻にしたいわけではありません。不本意な私との結婚より、可能であるならば自らお望みになられるような婚姻のほうが幸福におなりになれるでしょう――つまりは、それは私の望みでもあるということです」
最後まで話し終えると、彼はまたゆったりとした様子で、足を組んだ。朱華は彼がなにを言いたいのかなかなか理解できなかった。
「……ごめんなさい、どういう意味かしら――」
「失礼しました、回りくどすぎましたね――要するに、私と不幸な結婚をなさるより、他の男性と幸福な結婚をしていただいた方が私もいいということです」
朱華はさらに混乱したような表情を見せ、しばらく沈黙した後、絞り出すように問いかけた。
「それは、要するにそなたは私と結婚はしたくないということね」
つい先ほどまで散々朱華に思わせぶりなことを囁いておいての彼の言葉に、彼女はまだ混乱していた。収拾がつかないまま、何とかひねり出した確認の言葉だった。
霜罧は小さく首を振った。
「それは違います」
その言葉に、朱華はさらなる混乱を極めた結果、思考停止に陥ってしまった。
「――何がどう違うのか、私には理解できないようね……ともかく、分かったわ」
投げやりな口調で呟くと、ゆっくりと立ち上がった。誤解が解けていないことに気づいた霜罧は慌てて取り繕うとしたが、彼女はそれを拒んだ。
「わかったから、いいわ――それより、枳月殿はどこに?」
冷ややかな口調で静かに問われ、霜罧はこの場でのこれ以上の押し問答は無理と悟った。枳月の所在を聞いた朱華は、霜罧には執務を続けるように命じた。
「先ほどの書類はあとで責任をもってきちんと片付ける」
最後に暗い顔をして言い置いて、彼女は執務室を後にした。




