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雪の陰翳  作者: 苳子
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第6章 10

 朱華の質問に、霜罧は片眉を上げただけだった。相変わらず微笑したまま、彼女の前に突っ立っている。ただ、その瞳は彼女の問いかけを予想していたようだった。


「――なにか、とは?」

「それを私がそなたに訊いている……この期に及んで思わせぶりな態度はおやめなさい」


 朱華は机の上で頬杖を突き、それまでの不機嫌そうな表情を払拭し、にこりと微笑んだ。ただ、その眼だけは笑っていない。霜罧は一瞬目を泳がせ、それから浅く頭を下げた。


「――失礼いたしました」


 朱華はその言葉にふっと息をつき、今度は椅子の背もたれに身を預けた。

 ちらりと見る窓の外は誘われるような陽気に満ちている。政務など放り出して散歩にでも出かけたくなりそうな気候だ。長く厳しい冬にはもううんざりだった。

 ふと思いついたように立ち上がると、椅子を手に窓際に移動する。霜罧は無言でそんな主の行動を見つめている。朱華は振り返ると、霜罧の席を指さした。


「そなたも椅子をここへ」

「日光浴でもなさるおつもりですか?」


 瞳に面白がるような光を宿し、彼は首をかしげてみせる。朱華は答える代わりに椅子に腰を下ろし、窓枠に腕をのせた。


「大きな声で話せる内容ではないでしょう」


 霜罧はその言葉を肯定も否定もせず、無言で自分の席に戻ると椅子を持ち、窓際に移動した。その椅子の置かれた距離は遠すぎず近すぎずで、あまりに近ければ遠ざかろうと半ば無意識に構えていた朱華は、その絶妙な距離に微妙な表情かおをした。

 霜罧はそんな彼女の胸中を見透かしたように嫣然と微笑んでみせる。朱華はむっとして目をそらし、そんな自分の反応がもはや生理的になものになってしまっていることを自覚した。


「それで?」


 朱華は窓枠にのせた腕に顎を乗せ、陽射しに目を細めながら問いかけた。執務室は最上階にあり、窓の向こうは地上まで足場となるようなものはない。耳をそばだてるものはいない。

 陽だまりに心地よさげな主の様子に、霜罧はそっと微笑む。この娘は幼いころから本当に寒さを苦手としていた。春めいてきた途端、丸まっていたその背筋がしゃんと伸びたように思われるのは、気のせいではないだろう。

 そんな暢気なことを考えながらも、肝心な話題はそれとは程遠い。


「……私にあるのは憶測だけです」


 朱華は眉を上げて霜罧を一瞥し、再び窓の外へ視線を戻した。

 朱華と向かい合うようにして座っている霜罧は、自分も窓枠に片頬杖をついた。やや寛いだ様子で、風景の一部として朱華の姿をとらえる。

 昨日到着した王配は、半年以上会わなかった間の娘の容姿の変化を誉めそやしていた。それには彼も同感だった。ほぼ毎日こうして顔を合わせていても、彼女の美しさが増していることは明白だった。昨日のように正装していれば猶更だが、こうしていつものように男と同じ文官の制服に身を包んでいても隠しおおせるものではない。取り立てて胸が豊かなわけではないが、女性らしい肢体はむしろ女性の服装よりも男のそれの方がより引き立たせる。白い面輪おもわを縁どる濡れたように艶々とした黒髪、春先のうららかな日差しをあびる横顔は秀麗としか言いようがない。吸い込まれるような切れ長のは、今は心地よさげに細められ、幼子を思わせる。その落差がまた何とも言いようのない魅力を醸し出している。

 このように男の目で観察されていると知れば、主はまた眉を顰めて顔を歪めるだろう。霜罧はそれがわかっていても、目が離せなかった。

 彼が朱華にみせる執着を、周りは昔から不思議がった。“葉の五姉妹”に相応しく、子供のころから美しい王女ではあった。が、他の姉妹と比べると一際気難しく、愛嬌も乏しく、人見知りも激しい姫でもあった。そんな彼女が彼にだけ懐いたわけではない。むしろ、子供のころから毛嫌いされてきたようにも思われる。夕瑛や珂瑛には笑顔を見せるのに、彼が居ると分ると途端にむっつりと黙り込んでしまう。乳兄弟である彼らと比べるといくらか劣る点はあるが、昔馴染みといってもいい付き合いの長さではある。その長い時間の中で、彼女から好意を感じたことは皆無といって良い。

 嫌われていると分っているからこそ、執着するのだろうか。

 手に入らないものほど欲しくなるのは人間のさがではあるが、己の執着もそれなのだろうかと思うと、恐ろしくなる瞬間もある。万が一、彼女の心を勝ち得ることができたなら、自分はどうなってしまうのか。気が違うほどに欲した末に手に入ったものが要らなくなる。よく聞く話ではある。王都での将来も捨て、地方で埋もれる覚悟で女王からの打診を受けた。周囲から兄よりも有能だと評価されていることを知っているし、自覚もしていた。自画自賛を差し引いても、恐らく能力的には自分は兄に勝っている。だが、次男に過ぎない。それが全ての基礎となる。兄の身に何か起こらない限り、自分の未来は制限されている。それは霜罧にとっては枷だった。兄は無能な人物ではなく、実直で敬愛するに値する。だが、自分の将来を遮る存在でもある。それが彼には重かった。

 そして、相変わらず、四の姫は彼を嫌っている。それにほっとしつつも、苛立っている自分もいる。好かれたいのか嫌われていたいのか。それすら判然としない己の闇の深さに、霜罧はそっと息をつく。このまま行けば、朱華の夫として選ばれることはほぼ無いといえる。しかし、自分の憶測が当たっていれば、そうとも限らない――


「そなたの場合、憶測ではなく確たる推測ではなくて?」


 朱華は外を眺めながら呟いた。霜霖はそっと微苦笑した。嫌われてはいるが、有能だとは認識されているらしい。実際、苴州の経営に自分は欠かせない立場にあり、実績も出している。彼女とてそれは分かっているのだろう。


「いえ、憶測ですよ」


 霜霖の返答に、朱華は意外そうな顔で振り返った。その表情に、彼は苦笑いしそうになった。嫌われている上に無能だと思われるよりましかもしれない。


「あれだけ思わせぶりな態度をとっておいて? 私にそれを気づかせるために、あのような態度をとっていたのではないの?」

「いえ、それは……単純に枳月殿下のご様子を知りたかっただけです……ありがたいことかもしれませんが、公は少々私を買いかぶりすぎてらっしゃいませんか?」


 微苦笑する霜罧に、朱華は肩をすくめた。


「そなたが有能なのは皆が認めるところでしょう」

「……公も?」

「……何度か言ったでしょう? 私がいなくても苴州は治るけれど、そなたがいなければまわらない」

「ありがたいお言葉ですが、列洪殿がいらっしゃいますよ」

「あなたたち二人がいれば完璧でしょう」


 朱華は溜息まじりに話す。自分の能力の無さを揶揄するような口ぶりだった。


「……またそうやってご自分の能力の無さを言い訳になさるのですか?」


 霜霖は口の端を上げ、嫌味ったらしく笑ってみせた。明らかに挑発するようなその口ぶりに、彼女は耳まで赤くして彼を睨みつけ怒りを見せたが、じきに恥じ入るように目を逸らした。


「……悪い癖ね、慎まないと」


 溜息を吐いてしばし自分の腕に顔を伏せた後、わずかに上げるとちらりと霜霖を見る。彼が穏やかな笑みで応じると、彼女はほっとしたようないろをみせた。


「そなたにも八つ当たりしてばかりね……」

「他の者にはなさっておられないのですから、構わないのではありませんか……むしろ甘えていただいてるようで光栄です」


 嫣然と微笑む霜霖に、朱華は一瞬うっという顔をし、目を逸らした。


「だから、その笑い方はよしなさい」

「……お気にめしませんか?」

「背筋がぞわぞわするわ」


 良い意味かそうでないのか。本人にも分かっていない。なんとも言いようのない朱華の表情に、霜霖は思わず苦笑いする。


「他の女性ならそれでうっとりするのでしょうけれど」

「私が誘惑したい女性は姫だけですので、逆効果ならやめておきましょう」

「……そういうことをよく安安と口にできるものね」

「また妙な誤解をされては困りますので、小まめにお伝えすることにしました……ひと筋にお慕いする方にだけはね」


 照れもせず言ってのける霜霖に対し、朱華は耳まで赤くして顔を背けた。


「……あまり軽々しくと口にしていると、軽薄に聞こえるわよ」

「気をつけましょう」


 本当にそうする気があるかのどうか、疑わしいような調子で請け合う。朱華はそんな霜罧の態度に、諦めたように小さく息を吐いた、


「では、本題に戻りましょうか」

「――そうしてちょうだい」


 朱華は窓枠にのせていた上半身を椅子の背に預け、霜罧に向き直った。その視線を受けて、霜罧も表情を改める。


「枳月殿下が保護されたとき、私もそこにいたのですよ」


 淡々と紡がれた言葉に、朱華は唖然とした。

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