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雪の陰翳  作者: 苳子
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第6章 9

 気候が良くなってからは、夕瑛が主人の寝起きの悪さにわずらわされることはなくなっていた。が、今朝は久しぶりに夕瑛が訪室した時点では、まだ寝台の上にいた。最近はすでに身支度を整えていることが多かったのだが。


「おはようございます、姫さま。お珍しいですわね、今ご起床ですか?」


 手にしていた盥を所定の場所に置き、それでも動かない朱華に、夕瑛は訝しそうに近づいた。朱華は起きてはいたが、頭を抱えるようにして、立てた膝に顎を乗せていた。顔はひどい渋面だった。


「……深酒なさいましたか?」


 夕瑛は、昨夜遅くに朱華が父を訪ねたことは知っていた。宴の後、親子でさらに杯を重ねたのだろうか。王配が酒に強いことは有名だし、朱華もまた一部で“ざる姫”と呼ばれ始めていることも、夕瑛の耳には届いていた。

 朱華はいくら飲んでも乱れるということがない。女だというだけで、いくら元王女でも舐めてかかってくるものはいる。酒の席で最後まで涼しい顔をしていられるということは、ある種の強みではあった。


「……そういうわけではないわ」


 朱華は溜息を吐いて顔を上げた。やや寝不足ではあるが、顔色は悪くなく、二日酔いに苦しんでいるようでもない。


「……殿下と一緒にお呑みになっていらしたのでは?」


 二日酔いではないなら、何故このようにすっきりしない様子なのか。夕瑛は訝しむように首をかしげた。


「……枳月殿もいらしたのよ」

「あら、そうでしたの」


 そこまでは夕瑛の耳には届いていなかった。二人きりではなく三人であったなら特に問題はないはずだ。何故、主人がこのような様子でいるのか。


「……なにかございましたか?」


 まさか枳月が酔いつぶれて、朱華にからんだわけではないだろうが。兄珂瑛から、彼の酒癖が悪いというような話は聞いたことはない。ただ、面子が王配と朱華だけであれば、あり得ない話ではないのかもしれないが。

 心配そうな夕瑛の声に、朱華ははっとなる。今朝はいつも通り目が覚めたのだが、それと同時に昨夜のことがまざまざと思い出され、色々な意味で頭を抱えていた。

 酔って乱れたわけではないが、明らかに素の朱華ではあり得ない言動があったことは間違いない。気が大きくなるのとは少々異なるが、素面では決してできない真似をしでかしたことに、改めて狼狽していた。そこに重ねて彼の告白も思い出され、頭を抱えるしかないような状況のまま、時間を浪費してしまったのだ。

 夕瑛には枳月のことは多少話してあるとは言え、流石に彼の秘密まで明かすわけにはいかない。なにかあったかと問われれば間違いなくあったのだが、あれもこれもそれに触れずに説明できる自信はない。明言せずとも、夕瑛ならことの真相に気づく可能性もある。


「特にはなにも……」

「その割に頭を抱えてらっしゃるようですが」


 明らかに普段と異なる行動をしておいて、今更それは通用しない。ましてや枳月が同席していたなら尚更だ。

 何やら興味津々なようすの夕瑛に、朱華は溜息を吐いた。彼女が違う方向に好奇心を刺激されているには違いない。


「……あなたにも話せないことがね……」


 夕瑛は分を弁えている。朱華のこの言葉で、さっと表情を改めた。


「失礼いたしました。では、身支度をなさってくださいまし。私は朝食を取って参りますので」


 一瞬で有能な女官に戻り、てきぱきと整えていく。朱華が使いやすいように支度すると、一旦下がるために扉に向かう。その前に小さく囁いた。


「胸に秘めるにはお辛いことでしたら、独り言くらいはかまわないかと……たまたま私の耳に届いてしまったとしても、私が他言することはありえませんから」


 それこそまるで独り言のように呟くと、返事を待たずに一礼して退室する。

 一人になった朱華は苦笑いし、「ありがとう」と声に出さずに唇だけ動かした。




 執務室の窓は開け放たれ、肌寒いが心地よい風が吹き込んでいた。差し込む光は麗らかで、春を思わせる。昨日は春の雪が舞っていたが、今日は一変して穏やかな日差しが降り注いでいる。

 朱華は執務の手を止め、窓の向こうへ視線を彷徨わせていた。効率化の権化のような列洪が珍しく離席しており、束の間の休息が訪れていた。霜霖は彼が居ようが居まいが変わらない調子で仕事をこなしているが、朱華にはその度胸がなかった。

 その霜霖は相変わらず淡々と机に向かっている。付き合いの長さもあってか、朱華は彼の前ではこうして息を抜くこともできた。

 どのくらいぼんやりして居たのか。乾いた音を立てて、書類の束が朱華の目の前に置かれた。ちらりと見れば、自分が整えた紙の束を丁寧に差し出し嫣然と微笑む霜罧が立っていた。朱華は現実に引き戻され、思わずため息をついてしまう。

 彼らが準備してくれた書類に目を通すことだけが、朱華の仕事となっている。彼らのほうがはるかに仕事量は多いのだ。さして仕事をしているわけではない朱華に溜息をつく資格はない。分かっているが、霜罧の前ではついつい迂闊な態度をとってしまうのは、気安さよりも甘えているのかもしれないと思うと、朱華は複雑な気分になった。


「目を通して疑問がなければ署名すればいいのね?」

「左様です――が、さして急ぐ件ではありませんので、彼が不在の間はもうしばらくのんびりなさってください」


 自分の胸中などまるでお見通しのような霜罧の言葉に、朱華は肩をすくめた。


「言われなくてもそうするわ」


 霜罧相手に取り繕うのをやめた朱華は、夕瑛といる時のような砕けた言葉遣いもするようになっていた。意識して言葉を慎重に選んでいる様子の彼に、ついつい皮肉な物言いをしてしまうことにも、しばしば自己嫌悪に駆られるが、習い性になっているのかぽろりと零してしまう。相手に言葉を選ばせておいて、自分は好き放題ということを、朱華とて恥じてはいた。

 そんなことすら見透かしたかのように、霜罧は口元を綻ばせた。


「そうなさってください――お疲れのようですし……顔色がさえませんね」

「……そうかしら」

「――昨夜、遅くまで話し込んでおられたせいではありませんか……お三人で」


 霜罧は捉えどころのない笑みを浮かべた。朱華はすべてお見通しのような霜罧に眉を顰め、皮肉な笑みを浮かべる。


「飲みすぎたのでしょう」

「――姫が? まさか、ご冗談を」


 霜罧はわざとらしく目を瞠ってみせる。朱華はそれにむっとした。


「それはどういう意味かしら?」

「――公ほど酒に強い方を私は知りません」

「……それは女にしては強いということでしょう」

「いえ、失礼ながら、男女問わずです」


 したり顔で微笑する霜罧に、朱華は明かに顔をしかめた。


「大げさね」

「いえ、私の所感だけではありません――ちょっとした評判になっておりますよ、苴葉公は化け物のように酒に強い方だと……一部では“ざる姫”と呼ぶものもいるそうです」

「……ざる……」


 朱華は絶句した。酒宴の席で次々と酔いつぶれていく者たちを不思議な思いで見ていたことは確かだ。だが、だからといって自分が人並み外れて酒に強いという自覚には欠けていた。それをこともあろうに、“化け物のよう”だの“ざる姫”だのと評されていようとは。

 言葉を失った朱華を、霜罧は慰める。


「何事であれ、他人より秀でていることがあるというのは良いことです」

「――女の身で酒に強いなど、自慢になるとでも?」

 

 また皮肉られているのかと、朱華は霜罧を見据える。彼はそれにもっともらしく肯いてみせた。


「まさか女性が男性に勝るまいというようことで秀でているということは、立派な武器になりますよ――恐れながら、やはり王統家の主が女性だということに違和感を抱くものは少なくありませんので」

「……男性より酒に強いということで、私に対する評価が変わってくるとでも?」

「まさにその通りでございます」


 にこりと微笑む霜罧に、朱華は出鼻をくじかれたように怒りの矛先を失った。


「……“ざる姫”云々の出どころは、そなたではなかろうな?」

「そのような無粋な呼称は私なら致しません」


 涼しい顔で否定する彼に、朱華は投げやりな気分でため息をついた。


「――そなたなら、何と呼ぶと?」

「そうですね――私ならせめて“竹葉ちくよう姫”とでも」

「……そのままではないの」


 竹葉とは酒の別名でもある。ひねりも何もない命名に、朱華は呆れたように霜罧を見る。彼は誤魔化すように笑った。


「そういえば、枳月殿下は地図を片手に部屋にこもっておられるようですね」


 唐突な話題の変更だった。が、その顔を見るとそうではないらしい。意味ありげな物言いに、朱華は警戒するように眉を顰めた。


「……地図を?」

「はい、地図です――それも国境の山岳地帯のものを……それは重要機密ですが、王配殿下のお声掛かりで。それも内々のことですが」

「――」


 父がそれを許可したということに、朱華ははっとする。昨夜、朱華が訪ねる前に二人の間でそう言う話が出ていただろう。そして、彼の言っていた『お役に立てる』ということはどういうことなのか。

 話題を変えたとたんに黙り込んだ朱華を、霜罧は黙って見つめている。それに気づいた彼女は、ちらりと彼を見上げた。目が合うと、彼は嫣然と微笑んでみせる。朱華はその反応に溜息をついてしまった。


「何か思い出されたのかもしれませんね」


 誰が、とは朱華は問わなかった。微笑したままの彼の表情は、やはりなんでもお見通しのように感じられた。

 朱華は差し出されたままの書類を受け取ると、机の端に置いた。それでも彼は机の前から下がろうとしない。朱華はふぅと小さく息をつき、椅子の向きを変えて彼に向き直った。


「一つ、そなたに訊きたいことがある」

「――如何なることでございましょうか?」

「以前、私と枳月殿が翠華を訪ねたことがあったろう」


 苴州入りの道中に寄り道をしたのは、昨秋のことだった。


「ありましたね」


 その時、霜罧は朱華にある問いかけをした。翠華を訪ねた際の枳月の様子はどうだったか、と。その問いに違和感を抱いた朱華は、逆に霜罧に問うたのだが、無視されたことがあった。


「あの時、そなたは私の問いかけを無視した」

「――そのようなことをしでかしましたか?」


 まさかとまるで身に覚えがないと言いたげに、彼は驚いた顔をしてみせた。その反応は、朱華には楽しんで誤魔化しているように見え、ますます眉間に皺を寄せる結果となる。


「――ああ、した。だからもう一度訊く、枳月殿に何かあるのか? 今度はきちんと答えなさい――命令よ」

 

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