第6章 8
「母と、あなたのお母上の?」
「共に育ち、姉妹同然の関係だったそうです……」
そのような女性が何故父と関係を持ったのか、枳月はそれを言外に匂わせて顔をしかめた。だが、二人がいなければここにいる自分は存在しない。
「聞いたことはあります――確か、しん……」
内乱時に重要な役割を果たしたにもかかわらず、表に立つことのなかった女性。
聖地に逼塞したと聞いていたが、聖地を訪問した際に会った記憶はなかった。母とそれほど親しい間柄ならば、朱華も会ったことがあってもおかしくはない。にもかかわらず、会ったことはなく、母の口からその存在が出たこともない。ということは、すでに聖地にその人はいないのではないか。朱華は薄々そう考えていた。
「雪蘭、と」
記憶を呼び起こそうとする朱華に、憚るように彼はそっとその名を呼んだ。
実のところ、彼が母の名を口にしたのはこの時がはじめてだった。あの女性らしいという見当はついても、本当にそうなのだろうかという疑念はぬぐいきれなかった。父は母のことには触れなかった。彼自身、勿論母の記憶はない。ここにこうしているのだから、母にあたる女性はいたのだろうが、それが誰なのか確信できる人はいなかった。
だが、母が最後に交わしたという約束と、知らずにそれが彼に託されていたことが、彼に実感と確信を与えた。同時に明かされなかった父の真意も。
大切なものを呼ぶような彼の声音に、朱華ははっと顔を上げた。枳月はこれまでになく穏やかで、明るい顔をしていた。が、同時にひやりとするようなものも含んでいるように感じられた。
「枳月殿?」
朱華は急に不安に襲われた。枳月の表情はひどく不安定なものに感じられた。
「おかげでようやく理由がわかりました。葉に戻って来たことを心苦しく思って来ましたが……罪が消えるわけではありませんが……」
「枳月殿?」
居ても立っても居られないような衝動に駆られ、思わず席を立つと彼の傍に跪き、その腕を掴んでいた。
「枳月殿」
「……姫、如何されました?」
朱華はなにか言おうとしたが、言葉が出てこなかった。彼はなにを言おうとしているのか。
枳月は動揺したようすの朱華を不思議そうに見ている。朱華はわけもわからず急に取り乱したことを恥じた。
「……いったい何を仰ろうと?」
「ようやくお役に立てそうです」
枳月はそう応じると、穏やかに微笑した。
「すでに十分ご助力いただいています、それなのにこれ以上いったい何を?」
朱華は枳月の前にしゃがんだまま、彼の顔をまっすぐ覗き込むようにして問いかけた。彼はそれをきちんと受けとめる。
「今のところ、私は十分にはお役にはたてていませんよ、むしろ助けていただいてばかりで、足手まといとも言えます」
彼は珍しく気さくな調子で話したが、内容は否定的なものだった。朱華は溢れそうになった溜息を押し殺した。まるで自分たちは合わせ鏡のようではないか。
「……以前、あなたは私にもう少し自分を認めるよう、自己否定ばかりしないように言ってくださいましたね」
「……そのようなことを申し上げましたか?」
彼はまるで覚えていないようだった。朱華は思わず微笑した。
「はじめてあなたに付き添ってもらって、城下に下りた時です。霜霖に黙っていたのを窘めてくださったでしょう」
「……そんなこともありましたね」
「そうですよ。あの時のお言葉をそのままお返しします」
朱華はそういって微笑した。枳月は眩しそうに目を細め、そして逸らした。
「あなたと私ではまるで状況が異なりますよ……本来であれば、そもそも私はここにいることが許されるような立場ではないのですから」
「……」
口を開いても言葉は出てこない。彼の言葉のもっともさは、朱華にも十分理解できる。無論、親の罪は彼に転嫁されるべきではない。彼に責めを負う義務はない。だからといって、それから目をそらして平気でいられるものがどれほどいようか。朱華がもし彼の立場だったなら、と考えるまでもない。少なくとも、彼はそれができる人間ではない。そして、だからこそ朱華は彼という男性が嫌いではなかった。
「――確かに、私があなたの立場であれば同様に考えたでしょう……だからこそ、私は……枳月殿は誠実な方だと思っています」
朱華の言葉に、枳月はなにを言い出すのかという顔をした。
当惑する彼の手に、朱華は自分の手を重ねる。その手はひんやりとしていた。馬から降りる時など、折々に彼は手を貸してくれてきた。大抵はどちらも手袋をはめているため、このように直に肌と肌が触れたことはない。朱華はそれを思いながらも照れはなく、ただただその冷たさを痛ましく感じた。温めるように包み込むと、彼は驚いたようだがそのまま委ねている。どうしたらいいのか分からないというのが、真相に近いかもしれない。
「――何故?」
「……私の苴葉公就任の話が持ち上がった時点で、あなたが私にすべてを話すわけにはいかなかったことは理解できます――それでもあなたは、あなたが誰とも結婚できないことを話してくださいました……あなたのやりかたは、実のところ、馬鹿正直にもほどがあるとも思いますが」
朱華は思わず苦笑いした。だからこそ、酷く苛つかされもした。振り回された記憶はまだ新しいが、明らかになった彼の過去を考えれば無理もないようにも思われる。彼はあまりに周囲から隔離され、彼自身も遠巻きにしすぎてきた。
「……確かに、私は様々なことに気が回らないものですから……」
枳月は申し訳なさそうに、やや恥じるように頭を垂れた。朱華はそれをやめさせるために、彼の手の甲を軽く叩いた。彼は少し驚いたように顔を上げた。その表情はどこかあどけなかった。
枳月の生年ははっきりしない。保護された時の成長具合から、およその年齢は推測されたが、実際はそれよりも若いのかもしれない。当時から物静かで大人びた雰囲気を漂わせていたため、それに惑わされた可能性もある。
「確かに気働きの優れた方ではないかもしれませんけれど、その分あなたの言葉には裏がありません。だから、私はあなたといるのは気が楽です。霜霖のように、一々言葉の真意を読まなくてすみますから……それに、気の利く方ではないけれど、お優しい……思いがけない役目が回ってきて、正直なところ、自分の器不足で辛いこともありました。そういう時、あなたに助けていただいたことも何度もありました」
「……」
枳月は困ったように首を傾げ、目をそらした。朱華はそんな仕草に気を悪くするよりも、むしろ彼らしさを感じた。
「だから、私はあなたが好きですよ」
ぽろりと出た言葉に、しんと沈黙がおりた。朱華自身、自分がなにを口走ったのか咄嗟に理解していなかった。夕瑛や珂瑛に抱いているのと同様の、身近な者に対する思いのつもりだった。
気安く吐いたつもりの言葉が、まったくそうは響かなかったことに、朱華は耳まで熱がはしるのを感じた。顔が赤くなっているには違いなく、酔って赤くなることは滅多とないため、酒のせいにはできない。幸い、室内は暗く暖炉の炎で顔色はわからない。それにほっとしながら、混乱した頭で誤魔化す言葉を探した。
しかも、相手の手に自分の手を重ねているような状況で、まるで告白でもしているかのようだ。見れば、枳月も仄かな灯りにも明らかに顔を赤らめて目をそらしている。しかもかなり困惑している様子だった。
朱華はますます頭が真っ白になるようだった。
「――あの、す、好きと言いましても、そういう意味ではありませんから……あ、夕瑛や珂瑛に対するのと似たような、と言いますか――と、特に珂瑛は血のつながりこそありませんが、兄のような存在で……だ、だから、枳月殿も、そ、そのようなつもりで……」
言ったのです、と最後に消え入るように付け加えて、朱華は口ごもってしまった。これだけ話すだけでも半ば混乱気味で、誤魔化す必要はないはずなのに、苦しい言い訳をしているようだった。
枳月は最初こそ目をそらしていたが、朱華が見るからに耳まで赤くして焦って言い募っていると、困惑はそのままに曖昧な微笑を浮かべた。
「――兄のようなと、私のような者に仰ってくださるのですか?」
枳月の控えめな呟きに、朱華は救いを見出したような思いだった。
「はい、その、ご迷惑でしょうけれど」
枳月の言葉に飛びつくような朱華の様子に、彼は微苦笑する。
「迷惑など、まさか――むしろ、私のような者には過分なお言葉です」
謙遜ではなく、本当にそう考えているらしい彼に、朱華はきっぱりと言い切った。
「そのようなことはありません」
さきほどまで見るからに狼狽していたにもかかわらず、一転してそのはっきりとした言葉に、枳月は少なからず驚いた顔を見せた。
「本当に、そう思っています――だから、無茶なことはなさらないでください……そのようなことを私は望んでいませんし、もう十分お力を貸していただいていますから」
「……ありがとうございます」
枳月は微笑して頷いた。その表情と口ぶりに、朱華はまだ信用できないと言いたげな顔をする。
「無茶はことは――御自分を粗末にするようななさらないと、約束してください」
彼の手を強く掴んで、朱華は相手の目をまっすぐに見つめながら切実な声音で迫った。枳月は一瞬目をそらし、すぐに朱華を見つめ返して薄く笑んだ。
「……はい、お約束します」
朱華は彼のその表情と口ぶりに、咄嗟に「嘘をつかないで」と詰りそうになった。根拠はないが、彼が嘘をついているというよりも、彼女のその言葉の意味を理解していないのではないかという疑念が拭いきれなかった。
幼いころから特殊な環境で育ち、特に誰かから大切にされた記憶のない彼は、葉に来てからは自分の存在そのものに罪悪感を覚えそれに苛まれてきた。自分が在るということにすら罪を感じる彼に、自分を粗末にしない――大切にするということが、理解できるだろうか。
朱華の言いたいことが伝わっているのかどうか、確認のしようもない。仮に彼に理解できていなかったとしても、それは嘘をついたことにはならない。朱華はそこに思い至ると、唇をかんだ。
「……枳月殿に何かあれば、私が辛い思いをすることを忘れないでください」
「――何故、公が私のことで?」
朱華はああ、やはりと内心で呟いた。彼は本当にそう疑問に感じているようだった。
「先ほども言いましたように、私はあなたが好きです、父や夕瑛のように大切に思っています――だからです」
何故、このようなことを何度も言わなければならないのだろうと、頬の熱に苛立ちながらも、朱華は少し泣きたいような気もしていた。彼にはこのようなことさえ伝わらないのだ。




