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雪の陰翳  作者: 苳子
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第6章 6

 枳月の言葉に朱華はぽかんとしていた。聞き慣れない名だが、聞き覚えはあるような気がした。


「よう、めいしゅう、殿ですか?」

「敬称をつけるような者ではありませんよ」


 棒読みしながら気付かない朱華に、枳月は苦笑しながら首をふった。それで朱華はますます分からなくなる。

 『よう』といえば『葉』だろう。ならば王族となる。枳月の父は東葉系王族と言われているから、それはおかしいことではない。だが、それは『めいしゅう』という名の人物だはなかったような気がした。似た名前なら碧柊は朱華の父だが。

 そこまで考えて、朱華はようやくはっとなる。


「……枳月殿、それ程までに私の夫なるのがお嫌なのですね」


 酔いも手伝って、朱華は自嘲しながら自棄気味な笑みを浮かべた。

 自分の言葉を方便だと考えたらしい朱華に、枳月は切なげな笑みを浮かべた。


「その名を聞けば、貴女とてそうお考えになって当然です……残念ながら、方便なのは表向きの私の両親の方なのですよ」

「――どういうことですか?」

「私の本当の両親は、表沙汰にはできない人達だということです。葉明柊がなにをしたかはご存知でしょう?」

「――嘘……」


 朱華は呆然と呟いた。


「嘘であればどれほど良かったか」


 枳月はひっそりと笑う。もう笑う他ないという、何もかも諦めたような表情だった。

 彼のその顔に、朱華は真実だと感じとる。だいたい方便にするには悪質過ぎる。

 朱華は口を開きかけたが、結局言葉にはならなかった。文字通り、頭が真っ白になっていた。なにも浮かんではこなかった。

 枳月は申し訳なさそうに彼女を見ている。暖炉の火がちらちらと揺れ、彼の顔の陰翳を深く浅くする。火傷の痕を覆う蟹足腫かいそくしゅが影に紛れると、秀麗な顔が引き立つ。その哀しげな顔は確かにどこか碧柊に似ていた。これまで気付かなかったことが不思議なほどに。

 それと同時にこれまでの彼の言動を思い出す。理由を知ってしまえば、全ては腑に落ちることばかりだった。もし、朱華が彼の立場であれば、結婚など考えられないだろう。真相を知った上で夫候補に指名した女王と王配を、彼が「どうかしている」と評した気持ちもわかる。

 そして、翠華での彼の様子も。

 一気に様々なものが去来して、朱華は混乱していた。ともかく気を落ち着けようと深く息を吐く。どうすべきかは分からなかった。

 ただ、断罪を待つような表情の彼を責める気にはなれなかった。彼は明らかにずっと自身を恥じ、責め続けてきている。


「……」


 口を開き、またも言葉にならない。


「公」


 気がかりそうな枳月に、朱華は大丈夫だというように首肯してみせた。


「……なんといえばいいのか分からなくて」


 辛うじて絞り出した言葉がこれだった。他に言い様があるだろうが、思いつかないのだから仕方がない。

 枳月もまた、困惑していた。当然、朱華は取り乱して自分を罵ってくるか、なんらか拒絶の態度をとるだろうと覚悟していたのだ。

 方便と受け取った当初こそは怒りをみせていたが、それはなんとか言い訳しようとする枳月の見苦しさに対するものだった。それが真実らしいと悟ると、狼狽こそすれ拒絶や怒りはみせなかった。それが枳月を戸惑わせていた。

 あれだけの大罪人が父だというのだ。その血をひく枳月も憎まれて当然だろう。それともあまりの罪の重さに驚いているのか、現実のこととして受け入れられずにいるのだろうか。

 言葉が見つからないという朱華を、枳月は辛抱強く待った。思い立っての告白とはいえ、いつ誰に正体が知れるかしれないという覚悟は常にあった。

 朱華は暫く呆気にとられていたが、やがて困惑しながらも用心深く顔を上げた。


「……これは愚問になりますが、父と母は知っているのですね?」

「確実にご存知なのはお二人だけです」

「――そうですよね、あなたの身元を保証したのは母なのですから……」


 朱華は自分のなかで把握していた事柄を改めて確認するように、小さく頷いた。


「……どういうことなのかお話いただけるのですか?」

「あなたにお仕えすると誓ったのです、これ以上の隠し事はいたしません――ただ、公は私を拒絶も怒りもなされないのですね」

「……ずっと、あなたに事情がおありなのはわかっていましたから。あなたの仰る通りに男色家を真に受けたとお思いでしたか? ……その事情が、まさかこれ程のこととは思いませんでしたが……」


 朱華は小さく嘆息した。枳月は申し訳ないと謝る。


「男色家の苦しい言い訳以外は謝っていただかなくて結構です。そのような事情であれば、最初から私に明かすのが難しかったのは理解できますから……それに、お互いに陛下から任じられたわけですから、あなたが私を謀ろうとしたわけではありませんし」


 すっかり酔いは消し飛んでいた。話しながら、朱華は気が高ぶり思考が空回りしていることを自覚していた。

 傍に父の飲み残した酒杯を見つけると、枳月に断らず一気に空けた。


「公?」


 いきなりの酒をあおった朱華に、枳月は狼狽の声をあげた。


「大丈夫です、喉が渇いただけですから。それよりお掛けいただけませんか? 貴方だけが立っておられると落ち着きません……それに、長い話になるのではありませんか?」

「……そうですね」


 枳月は頷くと、自分が座っていた椅子に掛けた。

 真ん中の椅子の主は寝室で眠っている。このような深更に二人きりというのは本来ならばまずいが、今なら王配も同席していたということになる。二人を知る父ならば、詮索することなく口裏を合わせてくれるだろう。誰が聞いているかわからないところで話せることではないし、かと言って昼間に二人きりになるのは、風聞もあって賢明な選択ではない。今が格好の機会ではあった。

 朱華は瓶にまだ酒が残っていることを確かめると、枳月に勧めた。彼は断りかけたが、朱華の顔を見ると黙って酒杯を差しだした。彼女も動揺がおさまっていないことは、その顔を見ればわかった。

 朱華は自分の酒杯も手酌で満たし、また半分ほど空けた。

 酒を嗜むようになったのは苴州に来てからだ。きっかけは酒宴だったが、親に似てか彼女も飲まれてしまうことはなかった。何杯重ねても白く穏やかな顔をしているので、付き合っていた霜罧が先に潰れたこともある。彼とて弱いわけではない。それ以来、彼がさり気なくだが確実に酒量を調整していることに、朱華は気づいていた。

 稀に醜態を晒すくらいの方が親しみやすいと、朱華は考えるが、激務続きのなかで居眠りをしてしまったことすら失態とみなしているほどだから、自分にはそうとう厳しいのだろう。でなければ、これまでさんざん謗られてきた朱華の彼に対する気持ちはもっと悪化していただろう。

 自分に甘く他人に厳しいものの言葉は素直に聞くにはなれないが、彼はそうではない。元より優秀には違いないが、努力家であることは長く嫌ってきた朱華も認めざるを得ない。彼自身は努力家などと評されることそのものを、不本意がるだろうが。


「……公?」


 なにやら遠い目をして黙り込んだ朱華に、枳月がそっと声をかけてきた。時刻が時刻だけに、眠気を催しているかとうかがうような口ぶりだった。うとうとし始めれば、そのままにしてくれるつもりなのだろう。では、重要な話ではあるが、急くものではないのだろう。


「大丈夫です、少しばかり考えごとを。失礼しました」


 朱華は苦笑いした。まさかこのような時にまったく関係ない霜罧のことを考えるとは。自分のこととはいえ、呑気なものだ。枳月は一代決心のもと明かそうとしてくれようというのに。

 枳月はさして酔いがまわった気配もない朱華に首肯し、酒杯を手にすると唇を湿らせた。


「私が生まれ育ったのは翼波の地です。母の記憶はありません。翼波の者達に育てられましたが、今思うと家畜の世話と同じ扱いでした。虐げられたわけではありませんが、私を気にかけてくれるのは二人だけでした。一人が父、もう一人は名も知りませんが、父と同じ歳の頃の男でした。彼らにはたまにしか会えませんでしたが、容姿が翼波の者とは異なっていましたし、私のそれも彼らに似ているとは言われていたので、私も翼波の者とは異なっていることは分かっていました……ただ、鏡を見たのは葉に来てからですので、自分がどんな容姿をしているのかは見たことはありませんでした」

「翼波には鏡がないのですか?」

「ありましたが、貴重なものだったようですね。何度か鏡を見ているような姿を見たことがありますが、当時はなにをしているのかはわかりませんでした」


 朱華はふっと目をそらした。


「では、火傷をなさる前のご自分の顔は……」

「見たことがありません」


 あっさり言って、彼は無意識に火傷の跡を指先でなぞる。


「――まぁ、そのような次第でしたので、私は翼波の言葉で育ちましたが、彼らに親しみを感じたことはありませんでした……子供には両親がいるということも知りませんでしたので、父と名乗られてもそれがどういうことなのかは、葉に来るまでわかりませんでした」

「……」


 朱華は口を開きかけ、結局閉じた。言葉は見つからなかった。彼がかなり特殊な環境で育ったことは確かだった。ただ、とても想像はつかなかった。


「父ともう一人の男とは滅多と会えませんでしたので、私の葉の言葉はかなり片言でした……聞く方はある程度できたのですが、話す方は苦手でした」

「今ではまったく問題ありませんね」

「……未だに咄嗟に出るのはあちらの言葉のようです」


 枳月は不本意そうに、己を恥じるように呟いた。翼波で生まれ育ったとはいえ、あちらに親しみは感じないというのは本当なのだろう。


「……翼波でお育ちになられたのでしたら、懐かしく思ったりなさることは?」

「……隔離されて育ちましたし、いい思い出もありませんから特には――父からは彼等は敵だと教えられて育ちました、それもあるかもしれません」


 朱華ははっとしたように顔を上げた。


「……明柊殿が、翼波は敵だと?」


 枳月は小さく頷いた。


「確かにそう教え込まれました……彼等は悪者だ、彼等は葉にひどいことをしてきたし、これからもし続ける、と。お前は葉に戻って彼等をやっつけなければならない、とね……父から聞かされた葉の国はまるでお伽話のようでした。そこが私の真の故郷だと……」


 彼はやりきれないように呟き、最後に酷く顔を歪めた。

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