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雪の陰翳  作者: 苳子
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第6章 5

 自分の最初に覚えた葉の言葉に託されていたものに気づいた枳月は、両手で頭を抱えるようにして顔を伏せた。


「如何した!?」


 慌てて碧柊は手をさしのべる。玻璃の酒杯が床に転がり落ち割れた。床にこぼれた酒の匂いがたちまち立ちこめる。

 腰掛けていた椅子から前のめりに崩れる体を、碧柊の腕が抱きとめた。枳月は意識を失ったかのようにぐったりともたれかかってきた。保護した直後の線の細い少年ではなく、鍛えあげた武人の若者の体はずしりと重い。


「枳月、如何した?」


 抱き起こしてみると、彼は気を失ったわけではなかった。ただ、虚ろな表情でわけのわからない言葉のようなものを呟いている。

 碧柊は枳月を椅子にかけさせ、脇の小卓に置かれていた彼の酒杯を手にした。彼の唇に酒杯を押し当てると、声をかけてから一気に飲み干させた。

 枳月は盛大にむせた。口元を拭いながら、また分からないことを口走っている。


「枳月、しっかりせよ」


 碧柊は若者の両肩を掴んで揺さぶる。枳月は仄かな灯りに照らされる、目の前の碧柊の顔にはっとしたようだった。


「……父上?」


 彼は少年の頃のように辿々しく呟き、それから目を瞬かせた。


「枳月」


 碧柊は彼の目を覗き込むようにして、はっきりと呼びかけた。


「――」


 小さく応じるように呟いた後、微かに首を振った。


「……翼波の言葉を口にしていたようです、失礼しました」


 詫びる声には苦さが滲んでいる。碧柊は構わないというように首を振り、もう一度しっかりと枳月の腕を掴んだ。


「……如何した?」


 枳月は考えるように視線を逸らした。


「大丈夫です……その、少しばかり突然思い出したものですから、混乱し取り乱してしまったようで。失礼しました」

「そのようなことは詫びずとも良い……なにか辛いことでも思い出したのか?」


 心底から気遣う碧柊の声音に、枳月は深く息を吐いた。

 彼の知る父は、同じく父親である碧柊とはまるで違っていた。温かな思い出は皆無に等しい。母のことも一言も教えてはくれなかった。

 そして蘇った記憶は駒としての自分だった。父は駒として枳月を準備したが、父自身も自分を駒としていたように思われた。それもこれも碧柊から聞かされた話があってこそだった。父は息子にも言い訳はしなかった。


「……父は、あの人は最初から私を葉へ行かせるつもりだったのでしょう」

「……なにを思い出したのだ?」

「まだ朧ですが、様々です。裏付けが取れればはっきりするかと」


 枳月は記憶を探るように遠い目をしていた。


「いったいなにを?」

「……父は葉を裏切ったわけではなかったのかもしれません……それでもやはり罪は大きすぎます……」


 枳月は淡々と呟き、そして深々と息を吐いた。


「枳月、いったいなにを思い出したのだ?」

「……山の向こうのことです」


 碧柊は彼の言葉に息を詰めた。


「……翼波のことか?」

「はい」

「……あれがそなたに?」


 目を瞠った碧柊に、枳月はしっかりと頷いた。

 山の向こうの翼波のことは、殆ど分かっていないと言ってよかった。言葉だけでなく、風貌からしてお互いに異なりすぎているため、間者を放つこともできず、情報収集は難しかった。敵方を買収しようにも先に明柊が手を打っているのか、接触そのものも困難だった。


「整理する必要がありますが、お役に立てるかと」


 枳月の言葉に、碧柊は目を瞑り、なにか呟いた。それは彼の父の名だったように思われた。


「……あれは真に……吾は……」


 碧柊は己の不甲斐なさに歯軋りするように、苦渋に満ちた呻きを漏らした。


「……父の罪に変わりはありません……それでも私を託したのは、殿下だけは理解してくださっているかもしれないと考えていたのかもしれません」

「……やはり、吾はあれに尻拭いさせてしまったのだな……そなたには申し訳ないばかりだ」


 碧柊の詫びる声に、枳月は首を振った。


「やるなら徹底する人です。結局は同じ選択をしたのではないしょうか。事態を膠着状態に持ち込んでもさして意味はありません。恒久的な解決は無理でも、それに準ずることは意図したでしょう」


 なにを思い出したというのか、枳月の口調からはずっとつきまとっていた自棄じみた響きは消えていた。


「もう、大丈夫です」


 はっきりと言い切って、腕を掴む碧柊の手にそっと触れた。碧柊は手を放し、青年を見つめた。

 灯火の仄暗さのなかでも、彼の顔半分を占める傷跡は酷いものだった。半分は白く秀麗な顔立ちをしている。凛々しい眼差しは朱華とも似ているように思われた。母親同士が双子のように似ていたのならば、それも無理ないことだった。父親同士も従兄弟であればなおさらだ。

 枳月には他人の視線を避けるところがあった。常に自分の存在を恥じているようでもあった。

 が、今の彼はしっかりと碧柊の視線を受け止めていた。大丈夫ですという言葉は、今だけをさすものではないようにも聞こえた。


「……なにかは知らぬが、心が定まったようだな」

「……はい」


 枳月は薄く笑んで、それから椅子に座りなおした。碧柊も自分の席に戻った。

 枳月はすぐに足元に広がる酒と、割れた玻璃の破片に気づいた。


「粗相をしたようで、申し訳ありません」

「いや、落としたのは吾だ」


 詫びるのを押しとどめ、碧柊は小姓を呼んで片付けさせた。

 その間、枳月はじっと沈黙していた。ただ、その雰囲気はゆったりとしたものだった。どこかしら切迫したものを漂わせていたものだが、それは気配を消している。

 これが良い変化なのかどうか。碧柊にはまだわからなかった。だが、彼がなにかしら自分に意義を見出したのならば、それは悪いことではないだろう。


「飲みなおしたたいのだか、付き合ってくれるか?」


 枳月は黙って頷いた。




 朱華はなかなから寝付けず、結局私室を抜け出していた。

 このような夜更けに城内をうろつくなど初めてだった。背後には警護の兵がついている。一人で大丈夫だと言いたかったが、城内であれ城主が一人で行動することはありえないのだろう。よく考えるまでもなく、昼間とて一人で行動したことはなかった。

 行き先は父のもとだった。王都にいた時は住まう宮が違ったため、このような真似をしたことはない。

 朱華は自分でも非常識な行動をしているとわかっていた。それでも部屋を抜け出したのは、ひょっとすると生まれて初めてそれなりに酔ったためと、父への甘えが出たのかもしれない。

 なんの前触れもなくやってきた苴葉公に、警護にあたっていた近衛兵は顔色ひとつ変えなかったが、すでに先客のあることを伝えた。


「枳月殿下がお越しです」

「枳月殿が?」


 思いがけないことに、朱華は驚いた。彼女は宴席から二人が揃って下がったことには気づいていなかった。

 取次を断ろうとしたところに、碧柊に仕える小姓が出てきた。そこで朱華の顔を見つけると、慌て一礼し室内に戻ってしまった。止める間もなかった。

 やがて再び戻ってきた彼は、朱華に入るよう伝えた。朱華は己の間の悪さに苦笑いしながら、これもまた止める間もなく部屋に戻ってしまった小姓に続いた。彼はきびきびと動くのはいいが、もう少し周囲を見る必要がある。父は気づいていないのだろうか。

 控えの小部屋の向こうに居間がある。夜はまだ冷えるため、暖炉には焔が揺れていた。その温もりを受ける位置に二脚の椅子と小卓が置かれ、二人がいた。


「父上、枳月殿、ご歓談中に申し訳有りません」


 こうなると謝罪するしかない。朱華は頭を垂れた。


「構わぬ、構わぬ」


 碧柊は椅子から立ち上がった枳月に座るように身振りで示しながら、小姓にもう一脚椅子を持ってくるように指示する。


「しかし」

「せっかくの珍しい顔ぶれだ。無駄にするのは惜しい」


 珍しく酔いが回っているのか、碧柊は上機嫌で娘を慰留する。朱華は戸惑いながら居合わせた枳月をちらりと見た。彼は珍しく顔を露わにしており、穏やかに微笑して微かに頷いた。

 結局椅子が持ってこられてしまい、朱華は腰を下ろすしかなくなってしまう。多少酔いは残っているものの、夜半に男性二人で飲んでいるところに押しかける形になってしまい、間の悪さに頰が赤らんでしまうのはしようがなかった。

 ばつの悪さに居心地の悪さを味わっている娘には気づかないまま、碧柊が主に話し続けた。

 説教をしたり絡むなどの質の悪さはなかったが、昼間のしばらく会わない間に四女が美しくなったという話を蒸し返し、朱華を閉口させた。挙句に朱華と同じ年だった頃の青蘭女王のことでものろけはじめ、枳月は微苦笑し、朱華は呆れかえった。ここに当人が同席していれば、耳まで赤面して夫を罵倒しただろう。

 じきに呂律が回らなくなり、うとうとと舟をこぎはじめた。


「――父上」


 朱華は父の傍らに膝をつき、その体を揺さぶったが、目覚める気配はなかった。年齢よりも若々しい父だと思っていたが、仄かな灯火にも白髪の目立つことに気づく。急に年老いてしまったように感じ、彼女は暫し驚いたように黙り込んだ。


「王都から到着されたばかりです。お疲れなのでしょう」


 気が付くと枳月も傍らに在り、案じるような眼差しで王配を見つめている。


「――そうかもしれません」


 朱華は当惑しながらも頷いた。親が永遠に生きているなどと思っていたわけではないが、このように急に目の前に突き付けられるとは思ってもいなかった。


「私が寝室にお運びしましょう」


 枳月はそう提案すると、碧柊の腕を肩に担ぎ立ち上がらせようとした。しかし、すっかり寝入ってしまっている体は予想以上に重かった。それに気づいた朱華が、反対側から父の腕を肩に担いだ。二人がかりでなんとか奥の寝室までその体を運び、寝台に横たえた。


「――お力添え、ありがとうございます」


 父の肩まで掛布団をかけ、朱華は改めて枳月に礼を述べた。枳月は薄く笑んだまま、黙って首を振る。


「……もう少し、お酒には強い印象だったのですが」

「お疲れだったのだと思いますよ」

「――そうかもしれませんね」


 朱華も苦笑しつつ頷き、両者ともに示し合わせたようにして王配の寝室を出た。朱華はそのまま父の居室を辞そうとしたが、それを枳月が押しとどめた。


「公、この機会に、お話があります」

「――どのような?」

「まずはおかけください」


 なにを改ってと首をかしげる朱華に、枳月はもう一度掛けるように促した。

 朱華は不審そうにしながらも、言われるままに腰を下ろした。そうすすめた枳月自身は立ったままでいる。彼は話があると切り出しておきながら、しばらく躊躇していた。


「枳月殿?」


 待ちかねて、朱華は声をかけた。枳月はそれを受けて小さくため息をつき、思い切ったように顔を上げた。


「以前申し上げた、私がどなたとも婚姻できない理由です。私はあなたにお仕えする以上、お話ししないわけにはいかないかと……」

「――事情がおありなのでしょうけれど、無理にお話していただかなくとも」

「いえ、そういうわけにもいかないのです」


 枳月はそういうと一つ深呼吸し、まっすぐに朱華を見つめた。


「私の父は葉明柊なのですよ」


 

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