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雪の陰翳  作者: 苳子
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第6章 4

 碧柊の言葉に、枳月は顔を上げた。理解できないという内心を露わにしている。


「何故、そのような」


 その疑問は碧柊に向けられたものなのか、それとも彼の父に向けられたのか、当人にも分かっていないようだった。


「すべては吾の推測に過ぎぬ。もしあれに訊くことができたとしても、まともに答えぬだろうがな、そういう奴だ」


 碧柊は遠くを見るような眼差しで苦笑いした。枳月は彼のその表情に、不可解なものを見るような思いだった。

 彼の言動の端々に滲む親愛の情は、確かに自分の父に向けられているらしい。それがわかっても、何故そのようなことが可能なのか理解はできない。


「あれは〝これ以上痛い目にあわなければ目が覚めないものかね〟と言った。それで目が覚めなければ、滅ぶべくして滅んだくらいのつもりではいたかもしれぬ」


 碧柊は彼ならやりかねないとでも言いたげだったが、枳月は呆気にとられたような顔をしていた。


「……そのためにあのようなことを仕出かしたと仰るのですか?」

「あくまで吾の推測だ」

「しかし……」


 彼をよく知る碧柊の言葉だ。推測であってもそう大きく外してはいないのかもしれない。


「子供の頃、吾は危ないから水辺には近寄るなといわれておった。だが、言いつけを守るような子供ではなかった」


 突然話題が変わり、枳月は訝しむ。碧柊は構わず話を続けた。


「あれと吾は幼い頃、よく翠華の城の庭で遊んだものだった。吾が言いつけを守らずとも、あれは何もいわなかった。そのかわり、わざと吾を水際へ近寄らせるのだ」

「――いったい……」


 枳月は口を挟もうとしたが、碧柊は一瞥で黙らせた。


「遊んでいるうちに、足を滑らせて池に落ちると当然溺れる」


 枳月のようやくただの思い出話をしているわけではないことに気づいた。


「……わざとそのようなことを?」

「女官に助けられ、父をはじめ周囲からさんざん叱られるわけだ。で、最後にあれが笑っていうのだ……少しは身にしみただろう? とな」

「……」


 枳月は唖然としたようすで黙り込んだ。碧柊は苦笑いし、酒杯を手にする。喉を潤す酒はやや苦かった。


「あれは一事が万事そうだったが、決して大人の目のないところではやらなかった。少なくとも自分の手に負える範囲におさめていた。その点では慎重だった」


 碧柊はちらと若者の手元をのぞいた。彼はほとんど酒には口をつけていないようだった。無理もないことではあった。手酌で酒杯を満たしていても、彼はそれにも気づいていない。


「あれは葉を滅ぼしたかったわけでも、王位を欲していたわけでもない……ただ、ぼんくらの尻を蹴り飛ばして目を覚ましてやりたかったのではないか、とな、吾は思うのだ」


 呟くように話し、碧柊はもう一杯酒を飲み干した。酒には強いため、さして酔った感はない。

 枳月はなにやら考え込んでいるようすだった。険しさはなりを潜め、むしろ無表情だった。言葉を失っていた頃を思い出し、碧柊は気がかりそうに彼を見つめた。


「――それは私のために仰っておられるのでしょうか?」


 やがて顔を上げた枳月が用心深く問いかけた。碧柊の本音をなんとか見抜こうとするような眼差しだった。

 碧柊は誤魔化す必要はないのだが、枳月の疑念を招かぬように真っ直ぐ彼の目を見つめた。


「相手が誰であろうが吾の考えは変わらぬ……ただ、誰にでも話せることではない」

「……何故、私にお話になられました? 知らずにいた方が憎むのは容易いとお考えにはなられませんでしたか? ……父を許せということでしょうか?」


 彼にしては珍しい、ひょっとすると碧柊もはじめて見るほどに感情を露わにしていた。激昂しているわけではないが、詰る強さはあった。

 碧柊は慎重に言葉を選ばなければならなかった。枳月は自分自身の存在も含めて、明柊を許していない。碧柊は枳月に同情はしているが、それと明柊に対する考えは別だった。さらにいうなら、自分の個人的な感慨と対外的な考えは別でもある。それは枳月にはっきり理解できるように伝える必要があった。


「許せなどと言うたところで愚の骨頂だろう。己の心をどうこうできるのは己のみ。許すも許さぬも、そなたの自由だ……故に、そなたには吾の考えを理解する必要はない。吾がどう思い考えるかも吾の自由だ」


 碧柊の言葉に、枳月は不服そうだった。


「では、何故お話になられます?」

「そなたがあれの息子であることには違いない。そして、そなたはそのことで苦しんでおる。違うか?」


 枳月は「苦しみ」という言葉に眉をひそめた。自分にその言葉は相応しくないと思っているようだった。


「……苦しみとは違うかと……」


 しかし言い換える言葉が見つからず、口ごもる。


「枷にはなっておろう」

「……呪いのようなものでしょうか……」


 枳月を呪っているのは他ならぬ自分自身だが、碧柊はそれは指摘しなかった。今はそうしたところで話がややこしくなるだけだ。


「たしかに、そなたの憂いを少しでも晴らしてやりたいという気持ちもある。だが、親しい者にそういう気持ちを抱くのは仕方ないことでもあろう? 無論、あれのためではなく、そなたのためだ。吾等の推測が当たっていたとしても、あれはあれなりに覚悟をしていたはずだ。それに吾等が今更どうこう忖度してみたところで、あれは鼻先で笑うだけだろう。生半な覚悟ではなかったであろうからな……自分だけでなく、あれの乳母子めのとごだったれい家の男子は皆処刑され家は取り潰し、最悪の場合は翼波に東西の葉共に支配されていたかもしれぬ……無論、そなたもその影響を受けた一人だ」

「あの戦禍と無縁だったら人がいましょうか……」

「多少なりとも誰もがそうかもしれぬ。だが、そなたは最もその影響を受けておろう」

「……」


 禍の原因となった父を持つことで、彼の人生は根本から歪んでしまっている。


「先ほどのようなことは表立っては口が裂けても言えぬ。だが、そなたには知っておいてもらいたかったのだ。ただ親を憎むだけでなく、何故あれがあのようなことをしでかしたかということをな……無論、推測に過ぎぬが」

「……庇っておられるようにしか聞こえません……知ったところで、私にどうせよと仰るのですか?」


 憤慨しているというよりもやりきれないように彼は呟く。碧柊はそんな彼を複雑な思いで見る。


「……吾と青蘭の考えはほぼ一致しておる。吾はそなたの母をよく知らぬ、青蘭もそなたの父については吾ほどには知らぬ。そなたは父のことばかりに気を取られているようだが、母君についてはどうなのだ?」


 思いがけない話題に、彼は戸惑いながらも記憶をさぐる。


「母については名すら知りませんでした。ち……彼からなにか聞いた記憶もありません。ただ、お二人のお話からあの女性かと勝手に思ってはおりました」

「青蘭がそういうのだから間違いなかろう。他にもそれを裏付ける状況証拠もある」

「……陛下の思い違いということはないのでしょうか?」

「人間とは間違えるものだが、そなたに関しては彼女が間違えることはありえないだろう……そなたの母、雪蘭殿は彼女にとっては最も大切な存在なのだ。雪蘭殿との約束がなければ、葉よりも雪蘭殿を選ぶだろう」


 女王その人が国よりも優先するということに、彼は目を瞠った。


「……約束ですか?」

「青蘭が大切にしなければならないものに順位をつけたそうだ。一番は葉、二番目は夫……吾だが……三番目に雪蘭殿だと。心情では一番は雪蘭殿だっただろうがな」


 碧柊は深く息を吐いた。


「彼女にとっては母であり、姉であり、友人であり、命の恩人であり、指標とすべき女性であり……一時期はすべてだったのであろう。絆の深さは他者には想像もつかぬ」

「……」


 枳月は母について深く考えたことはなかった。父の存在が大き過ぎたとも言えるかもしれない。


「吾等がそなたに知っておいてもらいたいと考えるのは、雪蘭殿のためなのだ」

「母の……しかし、母は……」

「賢く冷静で美しい女性だった。現在の葉があるのは雪蘭殿のおかげでもある」

「……しかし、母は……では、何故?」


 そのような女性が何故そのような選択をしたのかという疑念を抱かないものはいないだろう。


「雪蘭殿も葉に尽くすよう育てられ、実際に身を呈して身代わりとなり青蘭を守った。そ

のような女性が浅はかな選択をするとは考えられない」

「母にもなにか理由があったと仰るのですか?」

「……彼女は青蘭にもほとんどなにも語らなかったそうだ。ただ、雪蘭殿は青蘭の身代わりをしている間に、あれと婚儀をあげている。無論、政略的なものであり、無効な式ではあるが。雪蘭殿に仕えていた女官によると、あれは彼女には指一本触れなかったそうだ。二人の関係も冷ややかなものだったらしい……だが、二人にしか分からぬものがあったのやもしれぬ」


 碧柊は小さく息を吐いた。


「雪蘭殿は内乱後は聖地で暮らしていた。翼波の侵入時にあれが西葉に潜入していたことが分かっている。その直後、雪蘭殿は行方知れずとなった……そして、そなたが戻ってきた」

「それだけで、何故、私が二人の子だと分かるのですか?」

「そなたが最初に覚えた葉の言葉を覚えておるか?」

「――“なにがあっても私はずっとあなたのことを想っているわ”でしたか……」

「それは青蘭が雪蘭殿と最後に交わした約束だ……知っていたのは二人だけのはずだ」


 碧柊はいったんここで台詞を切った。枳月には思ってもみないことだった。身を明かす証一つないにもかかわらず、何故碧柊と青蘭の二人が自分の身上に疑問を抱かないのかと考えてはいた。葉に戻った――正確にははじめて来た時に口にした言葉が、何よりもはっきりと己を身を明かしていたのだった。


「そして、そなたには母――雪蘭殿の記憶はない。彼女がその言葉を誰かに託し、その者がそなたに教えたのだろう。では、それは誰か?」

「……父だと?」

「あれがそなたに教えたなら、間違いなかろう」


 枳月は答えなかったが、その表情が事実を物語っていた。彼は、確かに父からその言葉を覚えるように繰り返し言い聞かされたことを覚えていた。意味も分からぬまま繰り返し言葉にさせられた記憶があった。嫌々ながら従ったそれにこのような意味を持たされていたとは、今の今まで知らなかったのだ。

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