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雪の陰翳  作者: 苳子
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第6章 3

 

 枳月きげつは思い切ったように切り出した。


「話せそうか?」


 碧柊へきしゅうは彼の表情をうかがいながら、用心深く問いかけた。

 保護された直後の彼は、たどたどしくある一文を口にすることしかできなかった。ようの言葉を、その一文以外は話すことはなかったが、聞き取ることはある程度できたらしい。

 それが彼を酷く打ちのめすことになった。

 片言のある一文しか口にしなかった少年を、人々は葉の言葉を解さないと思い込んだのだ。彼は、傍らでかわされる会話から己の出自を悟り、その時はじめて彼の両親のことも理解したのだった。彼はその時まで何も知らなかったのだ。

 当時、彼の正体を正確に知るのは碧柊だけであり、綾罧りょうりんは見当はついていたかもしれないが沈黙を守っていた。それ以外の周囲の者たちは、彼をただの少年だとみなしていた。

 やがて少年は片言の一文すら口にしなくなり、声を失ってしまったかのように黙り込んでしまった。そんな彼の異変に、真っ先に気づいたのは綾罧だった。

 殻に閉じこもってしまった少年は、傷がある程度治癒した時点で、王都へ移された。州には置かない方がいいという判断だった。

 それから数年の間、彼は口を閉ざしたままだった。話そうとしても話せない状態が続いていた。

 やがてぽつりぽつりと話しはじめ、今では訛りもなく完璧に葉の言葉を話せるようになった。しかし、話題が翼波よくはのこと、特に彼自身に及ぶと、口がきけなくなってしまうのは変わらなかった。

 翼波から生還したことは知られている以上、彼に山の向こうについて問う者は少なくない。それも曖昧に言葉を濁していれば、彼の心の傷に障ったことに気づいた相手は、それで納得してくれた。

 碧柊も、枳月が言葉を取り戻し、落ち着いたようすを見せてから、何度か彼自身のことや彼の親について触れようとしたのだが、途端に彼は言葉を失ってしまった。

 それ以降、枳月にその件について問うのは禁忌となっていた。

 

 碧柊の問いかけに、枳月は躊躇いながらも小さく頷いた。それを確認すると、碧柊は酒の入った玻璃の瓶子を差しだした。枳月は今度はそれを拒まなかった。


「……あれの消息は?」


 碧柊は呟くように問いかけた。そして酒杯を持ちかえた。

 枳月は注がれた酒はそのままに、照り返す灯りの揺れる酒杯の表面に視線を落とした。


「……わからないのです、まことに申し訳ないのですが」

「そうか」


 彼の言葉に嘘はないようだった。本当にわからないのだろう。己の不甲斐なさに苛立つように顔を歪めている。

 碧柊は酒を一口含んだ。


「あれは最初のうちは翼波に混じって姿を見せておったのだがな、次第に目撃情報も減り、この十年ほどは見かけたものはいない。あちらに覗見かきまみを放とうにも、彼等と吾等は容貌が異なっておるしな」


 彼の生死を知りたいのは山々だったが、消息がつかめないなら仕方ない。

 枳月は眉間に皺を寄せ、懸命に記憶を探っているようだった。思い出すことは苦痛でもあるのだろう。いつから記憶に触れても言葉を失わずにすむようになったのかは分からないが、その苦痛は生涯つきまとうものだろう。


「父……彼と最後に会ったのはいつだったのか、はっきりと思い出せないのです」


 枳月は心底詫びるように呟いた。思い出せないことに苛立っているようでもある。碧柊はそんな彼の肩をそっと叩いた。


「無理せずとも良い、そもそもそなたのせいではないのだからな」


 その言葉に彼は頷かなかった。そんな風にはとても考えられないのだろう。碧柊とて、もし自分が彼の立場であればできないだろうと思う。


「なんのお役にも立てず、申し訳ありません……そもそも、このようにのうのうとしていることが許される身ではないのに……知っていれば、このようにご迷惑をおかけすることもなかったものを」


 過去に彼は何度か自死を試みたこともあった。それも見越して人がつけられていたため、叶わなかったが。

 碧柊が叱咤したのを機に、それは堪えているようだった。


「……以前、そなたには酷いことを言うたとは思うが、今も撤回する気はない」


 碧柊は厳しい表情で、しかしいたわるように言った。

 彼はかつて何度目かの自死を試みた枳月に言ったのだ。


「それほどまでに己の親の罪を重く感じるなら、生きて償え」と。


 彼はその言葉に目をみはり、唇を噛み締めて項垂れた。そして小さく「はい」と答えた。それ以降、彼の自傷はなくなった。

 だが、碧柊は自分のその言葉ほど酷いものはないと思っている。枳月から逃げ道を奪い、償いに生きることを課したのは他ならぬ自分だ。

 償って欲しいわけではない。ただ生きて欲しかった。

 生きるための理由を、枳月は自身で見つけることができなかった。そしてそれは今も変わらないようだった。碧柊に課された言葉に従い生きているのだろう。彼はそのようなことは望んでいないのだが、それしか拠り所がないのなら撤回するわけにはいかなかった。


「しかし、他に生きる理由を見つけてくれることが、吾の一番の願いだ」

「……翼波討伐にわずかでもお役にたてれば……」

「それは償うためであろう? そなた自身が望むことを……幸福を願っているのだ」


 碧柊の言葉に枳月は困惑したようすをみせた。


「……私に幸福など」

「そなたの想いは知らぬ。ただ、吾と青蘭はそなたの幸福を望んでいる」


 個人的な想いであることを強調するため、彼は妻を名で呼んだ。


「……何故、私などに……」


 理解できないというように、枳月は首を振る。俯く彼の手を、碧柊はとった。その手を、両手で包み込むようにする。彼はそれを拒もうと手を引いたが、碧柊はそうはさせなかった。

 碧柊は枳月の手をとったまま、訥々と語りかける。


「――吾にとって朱華はかけがえのない娘だ。親が子を思うのは当然だろう。それと同じように、吾はそなたを思っている。そなたは吾にとっては息子同然だ。子の幸福を親が願うのは当然であろう」


 異論は受け付けないというように、彼はきっぱりと話す。枳月は信じられないという顔で、碧柊を見上げた。


「しかし、私は……彼の息子なのですよ」


 それが彼にとっては全てなのだろう。


「……あれは吾にとっては兄弟同然だった。そなたの母は、青蘭にとっては姉妹同様、いやそれ以上の存在だった――このようなことは他では云えぬが、吾はあれを憎んではいない……むしろ、吾の甘さがあれを歪ませたと思っている。吾に甘さがなければ、あれは今もここにいて、治世に助力してくれたことだろう……そなたはむしろ、吾の被害者とも言えよう」

「……そのようなわけが……」


 頑なに碧柊の言葉を拒む枳月に、彼は「黙って聞きなさい」と小さく一喝した。




 碧柊は先にあった戦いについて、自分の視点から語った。枳月とて大まかな経緯は知っている。だが、その主だった当事者から聞くのははじめてだった。

 約百年続いた東葉と西葉の戦い。それは東葉の圧倒的な勝利で終わった。一番の功労者は碧柊だとされているが、明柊の助けが大きかった。だが、彼はその功績を全て碧柊のものとさせた。

 彼が求めたのは西葉の解体に近いものだった。徹底的な処刑と、万が一にも武装蜂起できないように軍を解体し武器を放棄させることを求めた。王統家の廃止も含まれていた。

 あまりの徹底ぶりに碧柊は躊躇した。

 その中に、西葉王家の男性王族の処刑も含まれていたためである。有史以来綿々と葉を治めてきた王家であり、正当な王家は西葉王家であるという意識を、碧柊も拭い去ることができなかった。

 様々な思惑が入り混じり、さらに戦後処理がもたついている間に老獪な西葉側が介入するようにもなり、結果的にそれは甘いものとなった。明柊はその結果に落胆したようすで、「これ以上痛い目に遭わないと目が覚めないものなのかね、お前も含め、ね」と嗤笑わらった。そして、それ以降なにも言わなかった。


「あの時、吾はあれを失望させた。最終的な決定権は吾にあった故な」

「……しかし」

「すべては過去だ。今更どうにもならぬ。ただ、そなたにはなにがあったか知っておいてもらいたい」


 異論をはさもうとする枳月を黙らせ、碧柊は薄く笑った。


 そして、あの日を迎えた。

 西葉王女であった青蘭と、東葉王太子であった碧柊の婚儀の前日。

 東葉に敗れた西葉は、王位継承権を持つ青蘭を東葉に差し出さざるをえなかった。青蘭を妻とすることで、東西の葉をまとめ、二つに分かれていた王家も一つとなり、碧柊が葉の王として立つはずだった。

 舞台となったのは、今や廃墟となった旧東葉王都・翠華すいか

 妹である青蘭王女と共に東葉入りしていた西葉王子蒼杞そうきの手の者が刃を抜き、碧柊の父である東葉王を殺害したことに端を発する。災禍を免れた碧柊は、女官に身をやつしていた青蘭に偶々行き逢った。そして、彼女を伴い翠華から逃れた。翠華には青蘭の代わりに、彼女の従姉である雪蘭が残った。その後、雪蘭は青蘭王女として振る舞い、蒼杞を欺いた。

 翠華の南方、苓州の砦に逃れた碧柊は、そこで同じく逃れてきたという明柊と落ちあった。が、彼はそこで碧柊に向って刃を抜いた。彼は西葉王子蒼杞と結託していたのだ。碧柊の乳兄弟綾罧りょうりんが彼の身代わりとなり、その間に彼は青蘭と共に逃れた。


「綾罧が今のように足を引きずるようになったのは、その時の怪我が原因だ」

「――霜罧殿の父上が……やはり、あの人は……」


 枳月は唇をかみ、項垂れる。「いや」と碧柊は呟き、自分の酒杯を手にした。口を湿らせるように、わずかだけ含む。飲まなければ話せないことではない。


「圧倒的にこちら側が不利だった。実際、あの時砦に居合わせたもので生き残ったのは綾罧だけだ。綾罧も重傷を負ったが、とどめを刺さずに見逃したのはあれだった」

「……それは……」

「綾罧はその後、東葉の取りまとめに成功し、内乱終息に大きな功があった――綾罧を生かしていればそうなったのは目に見えていたはずだ。あれはそれを知っていて、あえて見逃したのではないか――吾はそう考えている」






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