第5章 8
なにか言おうとする朱華に、霜罧は声を潜めて囁いた。
「今はお静かに」
涼やかな鋭い眼差しに、朱華は声を飲み込んだ。まわりには風体の良くない男たちが集まりかけている。霜罧の出現で場が誤魔化されているうちに、はなれてしまったほうが賢いことは朱華にもわかった。
霜罧は朱華の手首を掴んだまま、来た道を急ぎ足でもどっていく。朱華はついていくのがやっとだった。しっかりと手首を掴んでいるが、痛みを覚えるほどではなかった。だいぶ戻ったところで立ち止まり、ようやく朱華の手をはなした。あたりは再び露店の並ぶ路地の一角で、人通りの邪魔をせぬように店のわきだった。
「失礼いたしました、公、状況が状況でしたので」
霜罧は心持ち程度に頭を下げ、詫びる。朱華は首を振った。
「いや、助かった……けれど、いつから?」
あの間合いで彼が助けに入ったことを、朱華は偶然とは考えていない。霜罧は人の悪い笑みを浮かべた。朱華はそれに眉をひそめる。
「夕瑛殿たちとはぐれておしまいになった直後から」
「……ずっとあとをつけていたの?」
「お一人で城にお戻りになれるかどうか見極める必要がありましたので」
「それはそうね」
決めた手順も実行できなければ意味がない。霜罧の判断はもっともだった。
「しかし、何故よりにもよってあのような場所に……あそこがどういうところかはもうお分かりですね?」
霜罧は少し言いにくそうに声を押さえた。だが、朱華は平然ときっぱり答える。
「色街でしょう」
あっさりと言ってのける主人に、霜罧はかすかに面白がるようないろをみせる。
「まさかとは思いますが、意図してあのような界隈を目指されたわけでは……」
「何故、わざわざ……たまたまに決まっている」
頬を赤らめて否定する朱華に、霜罧はさもあらんと微笑してみせる。
「ならば良いのですが。発つ前に娼館のことを口になさっておられたので、まさかと。まぁ、お立場上、そういう類のことも見聞しておかれるのもよろしいですが……」
それから腕を組んでにやりと笑う。
「それにしてもお見事でした。まさかあのような対処をなさるとは」
その顔から腕をつかんできた男のことを言っているのだとわかる。朱華は明らかに面白がっている霜罧を、冷めた顔で見据える。
「あれが最も的確でてっとり早い方法だろう、夕瑛もそう言っていた」
「まぁ、中途半端なことをなさっても、逆上した男が反撃にでれば、公といえどもご無事にすんだかどうか」
「その時こそ、そなたの出番だろう」
朱華は鼻で笑った。
「加減しなかったから、睾丸を潰したかもしれない」
「それはそれは」
思わず想像したのか、霜罧は心なしか顔を強張らせた。朱華はそんな彼を怪訝そうに見ながら、別のことを問いかけた。
「……あの男は女衒だったの?」
「そういう類のものでしょう」
霜罧の答えに、朱華は眉をひそめる。
「私を身売りにきた娘と間違えていた。だが、このような身分の娘が自分からそのようなことを? 男の口ぶりだと珍しいことでもなさそうだったが」
下級豪族の娘を想定した質素な出で立ちとはいえ、見るからに庶民の娘の格好ではない。霜罧は小さく頷いた。
「間々あることのようです」
「何故、豪族の娘が?」
朱華は身売りするのはもっと身分の低いものたちだと思っていた。
「原因は当主不在でしょう、苴葉家と同じ事情です」
霜罧の言葉に、朱華は首を傾げた。
「どういう意味?」
「わが国では王家を除けば男子相続です。女子には相続権がありません。特に苴州では後継者である男子を失い、相続人がいない家がたくさんあります。家の当主がいなければ、収入はとだえる。生活が苦しくなれば、あとは身分は関係ありません」
「……年頃の娘がいれば身を売るしかない、と?」
「そうなりますね、だからこそ、公にも声をかけてきたのでしょう」
朱華は苦虫を噛み潰したように顔を歪ませた。そこまでの報告は受けていなかった。
「……私についてきたものたちとの養子縁組は?」
朱華の苴州入りには、元近衛の貴族の次男以下のものたちも同行している。彼らの多くは後継者を失った豪族との養子縁組が進んでいるという話だった。
「元近衛のものたちは殆どが中央貴族の子弟ですから、地方豪族とは家格の釣り合いが難しいのです。養子縁組はその兼ね合いで中級以上の家しか対象にならないため、下級の家はなかなか難しいようです」
霜罧もそれが深刻な問題であることは承知しているようだった。朱華はしばらく沈黙したのち、霜罧に問いかけた。
「……私が苴葉家を継いだように、女性に継がせるわけにはいかないの?」
「それは今のところ認められていません」
「前例がない、と?」
「はい」
「ならば、作ればいい。母上ならそうおっしゃるわ。第一、男子相続の苴葉家を王女が継いだのだから」
「お言葉ですが、それは女王陛下による特例です。苴葉家を絶やすことはできず、けれどふさわしい後継者もなかったための、一時しのぎの策ともいえます。お忘れかもしれませんが、現行法では公のお子でも、男子でなければ次の苴葉公とはなれません」
「――苴葉家のことはともかく、母……陛下の特例のように、一時しのぎでもいいから女性にも相続権を与えることはできないの?」
朱華は淡々と話す。霜罧は面白がるように眉を上げ、小さく頷いた。
「なるほど、絶える家が増えれば露頭に迷うものも多くなります。女性でも家督を継ぐことができれば、それも防ぐことができる。苴葉家の家中の相続であれば、公の権限で改められたはずです」
「私の権限だけで可能か?」
「詳しいことは調べてみなければわかりませんが、今は養子縁組みの裁可が多いため、すぐにわかるでしょう」
霜罧とて州法のすべてを把握しているわけではないらしい。朱華は「頼む」と頷いた。
「これがうまくゆけば、身を落とさずにすむ娘が増えましょう。道に迷われたのも無駄ではありませんでしたね」
誉めそやす霜罧を、朱華はじろりと一瞥し、それから目をそらしてため息をついた。
「……そなたが誘導したのではないか?」
「いきなり、いったいなにを?」
訝しむ霜罧のようすにとぼけている感はない。
「私がそう言いだすように」
渋面の朱華に、霜罧は眉を上げ、それから苦笑した。
「女性の家督相続について、ですか?」
「今はそれしかないだろう」
落胆し憮然としている朱華に、霜罧は困惑したようだった。
「……公、あなたという方はご自分を見くびりすぎではありませんか? 私のことも買いかぶりすぎておられるようですが」
「なにを言いたい?」
「そもそも城下におりて、そこで暮らす者たちをじかに見たいとご希望になったのは、あなた自身です。さきほどの発端となった喧嘩沙汰に巻き込まれたのも偶然なら、その結果一人はぐれておしまいになった公が色町に迷い込まれたのも偶然、そこで身売りに来た娘と公が間違われたのも偶然です。下級豪族の娘が身売りする理由を私が説明申し上げたのは必然ですが、そこから女性の家督相続を思いつかれたのは、公、あなたご自身の発想でしょう。私がしたのは、身売りの背景についてだけです」
それでも納得できないらしく、朱華は難しい顔のままでいる。頑固な主に、霜罧は溜息をついて苦笑した。
「あなたは女性の家督相続を提案なさった。しかし、他にも女性なら思いつきそうな案が思い浮かびませんか?」
「……浮かばぬ」
「たとえば、そうですね――身売りした娘たちの借金を棒引きしてやって、その身を自由にしてやる、など」
朱華は霜罧の言葉に呆れたように目をすがめる。
「そんなことをしても、問題の根本解決にはならない」
「そうですね、それで解決するのは可哀そうだと同情する者の憐れみだけです」
「――なにが言いたい?」
「あなたは感情的な一時しのぎの案ではなく、問題を根本解決できる提案をなさったのですよ、ご自身の発想で……それと同時に、借金の棒引きのような案が、問題の解決に結びつかないことも理解しておられる――色街の必要性もご理解しておられるのでしょう?」
「……女の身としては必要悪だとしか思えないが、仕方なかろう」
朱華は不愉快そうに眉をひそめた。
「失礼ながら、一の姫や二の姫のように陛下の後継者として教育を受けてこられたわけではないにしては、朱華さまは感傷に流されず現実的な判断がおできになる、と私は思いますが」
「――それは褒めているの?」
「領主としての素質はおありになると考えています――お気を悪くなさるかもしれませんが、私が覚悟していたよりはるかにマシでいらっしゃいます」
霜罧のにこやかな言葉に、朱華は言葉に詰まった。
「――マシ……」
「これは領主ごっこではありませんのでね――それとも、耳に心地のいい言葉をご希望ですか?」
霜罧の空々しい艶やかな笑みに、朱華は顔をしかめた。
「そのようなものは要らぬ」
短い言葉に、霜罧は笑みを深める。
「それでこそ、我が姫君でいらっしゃいます」
「……だから、それをやめなさいと言っているのです」
「おやおや、偽らざるところなのですが」
「だから、揶揄うのもいい加減にしなさいと――」
朱華は霜罧を睨みかけ、言葉を飲み込んだ。霜罧はそれまでの笑みを消し、朱華を真顔で見据えていた。
「私は本気で申し上げているのですよ」
口調は穏やかだが、その声は冷え冷えとしている。彼は朱華に一歩近づき、朱華は思わず後ずさった。背後は建物の壁になっており、そこに追い詰められた形になった。
「――なにを……」
彼から伝わってくる、なにやら切迫した雰囲気に飲まれ、朱華は口ごもる。
「過度の自己卑下もいい加減になさい、姫――その挙句、他人からのあなたの評価まで拒まれる。“どうせ私など”とあなたは常に思っておられるのでしょう。何か失敗しても、どうせ私のことだから成功するはずがない、失敗して当然だと開き直る。成功しても、それは自分以外の誰かの手柄だと考える。失敗して当然というのは、開き直りにすぎない。失敗して当然なのだから、自省することもない。それは逃げるための方便にすぎないのですよ。あなたは苴州の領主なのです。最終的な責任はあなたに課されるのです。それは“どうせ私など”で負えるものではありませんよ。あなたはそれから逃げようとなさっている」
霜罧は朱華を壁際に追い詰め、容赦ない言葉を浴びせた。朱華は目を瞠り、やがてその眦から涙をこぼした。
「――私……私になぞ、そんな責任は負えない……」
そう言葉にしてしまうと、涙が次々と零れ、朱華はそれを恥じるように唇を食いしばった。
霜罧は慈しむような優しい笑みを浮かべ、そっと朱華を抱き寄せた。
「それでも、あなたは負おうとなさっている……姫、そんなあなただからこそ、私はあなたが愛おしいのです」




