第5章 7
城下は賑わっていた。
城のすぐそばの区域には、苴葉家につかえる豪族たちの屋敷が並んでいる。城は一帯を見下ろす小高い丘を利用して建てられ、それを中心に円状に城下は広がっている。
州都は長大な城壁に囲まれている。城壁は二度と翼波の侵入は許さぬとでもいうように、厚く、高い。
城の周囲には内堀がめぐらされ、さらに外堀が豪族の屋敷街を取り囲み、その向こうに豪族以外の住民たちが暮らしている。そして、そここそが州都の中心地といえる。
朱華はすでに何度か城下におりたことはあるとはいえ、警邏に同行という形だったため、実情を目にしたとは言い難い。それも朱華の安全のために手が回されていたとなればなおさらだ。
今回の朱華は比較的家格の低い家の娘らしく、侍女一人と警護一人伴う態を装っている。実際は、やはり身分を隠した兵士が、付かず離れずで同行することになっている。直接供をするのは枳月、霜罧は少し離れて見守る形をとる。
霜罧は苴州では文官であり、枳月は武官の上に立っているため役割分担としては当然だった。しかも霜罧は執務室にこもっていることが多いため、腕も鈍っている。枳月はこれまで目立つことはなかったが、腕前は珂瑛と互角だった。腕の立つものが護衛につくのは当然の成り行きだった。
「あまりきょろきょろなさいませんように」
興味津々の朱華に、夕瑛がそっと耳打ちする。夕瑛はこの日に備えて、すでに何度か城下におりていた。
そうは言われても、朱華には難しい注文だった。商業区域は、それまでの朱華の警邏経路には含まれていなかった。それも霜罧のいうところの〝配慮〟の一環だったのだろう。
大勢の人間を見慣れていないわけでも、賑わいが珍しいわけでもない。だが、雑多な人々で混雑する道を歩くなど生まれてはじめてだった。
これまでは朱華の行く先々では誰もが道を譲り、傍に退くものだった。もしくは予め人払いがされていた。だが、今は誰もが朱華の行く手を塞ぐし、一度ならず足を踏まれたことすらあった。
まるで辺鄙な田舎から出てきたばかりのお上りさんのような主人の姿に、夕瑛は微笑ましさを感じながらも緊張を強めていた。
特にこの日は賑わっていた。この季節には珍しく雪がちらつく程度で、日が差す瞬間もある。日和に人々が誘い出されているのかもしれない。人混みはなんらかの危険性を孕んでいる。
朱華は外套の頭巾を目深に被り、その影からあたりを見回していた。冬の季節が幸いした。多少落ち着きがなくても、すっぽりと体を覆う外套が隠してくれる。
予想外の賑わいに、朱華は驚いていた。
冬になると全国から集まっていた兵たちが退いてしまうため、もう少し閑散としているのではないかという思い込みがあった。天候が良いためもあるにせよ、目の前の光景は朱華の予想以上だった。
店舗を構えた比較的大きな商家の続く区域を抜けると、次第に街路は狭くなり、露店や簡易な作りの店が増えはじめる。人混みはさらに密集し、自分の足元も見えなくなった。
朱華はいつの間にか、夕瑛に手を握られていた。まったくそれに気づいておらず、自分がどれほど周囲のようすに目を奪われていたのかわかる。苦笑しながらも改めて気を引き締める。この人混みではなにかあっても、直ちに密かに随行してくれているもの達の助けは期待できない。自分と枳月で切り抜けなければならない。
「姫さま、大丈夫でいらっしゃいますか?」
朱華のなにをどう解したのか、夕瑛が身を寄せて囁いてきた。
「変わりはないわ、ただ少しばかり驚いていただけよ」
「人が多ございますね、これほど多いのは私ははじめてです」
夕瑛も同意してみせる。朱華も彼女が下見がてら何度かおりていることは知っている。
「いつもはこれほどではないの?」
「――通常はわかりませんが、私ははじめてです」
「そう」
朱華は頷き、すぐ後ろにいる枳月をちらりと見た。彼はいつも通り落ち着きはらっているように見える。視察を兼ねた警邏で、このあたりにも何度も来ているのかもしれない。
わずかばかり離れた人混みのなかに、霜罧の顔も見えた。目があうような真似はしでかさないが、ぴたりと張り付いているといってもいい距離だ。朱華は複雑な気分で前を向く。あれでは近すぎるのではないか。しかし、この人混みでは、離れすぎると護衛の意味がなくなってしまうだろう。
そんな彼女の勘があたったのか、前方で騒動が持ち上がりかけていた。男の怒声が響いたかと思うと、なにかを破壊する音と女性の悲鳴やさらに罵倒する声が続いた。
「姫さま」
夕瑛が警戒に声をひそめて、朱華の手を強く握った。朱華は利き手を外套のあわせにさしいれ、短刀の柄を握る。 ふと見れば傍に枳月がおり、やはり太刀の柄に手をかけてる。特に変わったようすはないが、構えはいつなにが起きても対処できるものだった。
「喧嘩か!?」「喧嘩だっ!!」
騒ぎが大きくなっているのか、怒声に野次馬の声も重なり一気に喧しくなる。見物しようと寄ってくる人と、避けようと退く人の波が重なり、朱華たちはいきなりもみくちゃにされた。
あっと思う間も無く、その人の流れに飲み込まれてしまった。こういう時ですら掏摸が出るらしい。朱華はともかく懐中のものだけは守るべく、外套の前をきつく握った。人波に飲み込まれた拍子に、夕瑛の手ははなれてしまっていた。
朱華は騒ぎの中心から遠ざかろうとする人の流れに身を任せた。それでも野次馬と入り混じり、なかなか思うようには動けなかった。
もみくちゃにされた末、ようやく抜け出せた朱華はほっと息をついた。とはいえ、先ほどの騒ぎの人だかりから脱出できただけで、立ち止まれば他人の通行の邪魔になる。露天のわきに身を寄せ、いったん立ち止まった。
あたりを見回すが、見知った顔はない。完全にはぐれてしまったらしい。溜息をつき、気を取り直す。想定内の出来事に過ぎない。こういう場合、どうすればいいかも決めてあった。朱華はともかく城を目指すことになっている。
「城は……」
頭巾をずらして視界を広げ、空を見上げてしばらくきょろきょろしたのち、小さく息をついて肩をすくめた。狭い路地には二階三階建ての建物が両脇から迫り、城は見えなかった。
肝心の城が見えないことで、朱華は帰る術を失ってしまった。警備兵にでも声をかければ、おそらく彼らは朱華のことを多少は見知っている可能性がある。しかし、その彼らの姿もない。おそらく、あの騒ぎのほうへ駆けつけているのだろう。もっともな判断でもある。
城があるのは小高い丘の上。つまりは、州都は全体的にゆるやかな坂の街でもある。商業地区はその末端に位置するので、豪族の屋敷街ほど顕著ではないが、多少の傾斜はあるはずだった。
朱華はそこに思いたり、足元を注意深く観察する。ほぼ平坦にも見えるが、路地を目で追っていくとほんのわずかだが、傾斜していることがわかった。その傾斜をたどっていけば、やがて城も見えてくるだろう。
他に方法も思いつかず、朱華は俯きがちに歩き出した。
歩き出して間もなく、朱華は再び路地裏で途方に暮れていた。土地の高いほうへ向かっていたつもりが、道が折れ曲がると低いほうへ向かいだし、他に曲がる道もないままどんどん低地へ向かっていきだした。路地も次第にますます狭くなり、もはやどちらが高台の方なのかすらわからない。
それに、俯きがちに歩いていたのがまずかったらしい。世間知らずの朱華でも分かる、明らかに風体の悪そうな男たちが行きかい、通りそのものも荒んだ雰囲気の界隈に紛れ込んでしまっていた。
「ここは……」
嫌な印象に、朱華は頭巾の陰で眉をひそめた。それを裏付けるように、すれ違う男たちの視線が朱華を舐めまわすようだった。ぞっとするような嫌悪感の理由をとっさに思いつかなかったが、それは本能的なものだろう。
朱華とてまったくの無知ではない。目にするのははじめてだが、ここはいわゆる男性のための歓楽街なのだろう。少なくとも女一人で来るべき場所ではない。
しまったと思い、踵を返そうしたが、もう遅かった。
「こんなとこでなにしてるんだい、ねえちゃん」
通りすがったはずの男に、いきなり腕をつかまれた。とっさに振り払おうとしたが、痛みを感じるほど強くつかまれ、敵わない。
「なにをする!」
「それはこっちの台詞だぜ、見たこといいとこのお嬢さんみたいだが、なにをするつもりだい?」
一喝して抵抗するのに構わず、男は朱華の頭巾を後ろへずらした。陰になっていた顔があらわになると、男は小さく息をのんだ。朱華は息がかかるほど近くにある男の顔をまっすぐに睨みつけた。男はそんなことでは怯まず、むしろ面白がるように口の端をゆがめた。
「こりゃあ、上玉だ――いったいどこの姫さんだ? その気の強そうなところもたまんねぇな――こりゃあ、いい」
「手を放しなさい、いったいどういうつもりで……」
朱華は懸命に抵抗するが、力では全く敵わなかった。
「身売りに来たんだろ? かわいそうに、でも心配はいらねぇ、そのご面相ならどこでも高値で買ってくれるぜ」
「――身売りだと!? 誰がそのようなことを申したか、さっさとその手を離さぬか!」
朱華は怒鳴りつけると、相手はますます面白がるようににやにやと笑う。
「ここは男が女を買いに来るところだぜ。そんなとこへ女がなにしに来るってんだ? そんなこたぁ、決まってるだろ、売りに来るしかないじゃないか、なぁ?」
男は舌なめずりするように、朱華をしげしげと見回す。朱華は不快気に眉を顰めると、一歩踏み込み、膝で相手の股間を一気に蹴り上げた。
男は声もなく悶絶すると、股間を押さえて崩れこんだ。
朱華は小さく息をつき、周囲を油断なく見回した。狭い路地での小競り合いに、すでに何人もの男たちが足を止めている。座り込んだ男の陰になっていた朱華の容姿があらわになると、空気がざわついた。
普段しない化粧をほどこし、髪を結い上げた姿は、滅多とお目にかかれないほど清艶だった。そんな美しい娘が油断なく男たちを見据え、隙なく身構えている。その姿は中性的でもあり、ある種の凄艶さまで感じさせる。
それに吸い寄せられるかのように、数人の男が一歩近づこうとした、その時。
「やっと見つけたぞ、こんなところにいたのか!」
人垣をぐいとかき分けて、一人の男が踏み込んできた。彼は感心しないといいたげな表情で朱華を一喝した。
「――な……」
「方向音痴にもほどがある、よりにもよってこのようなところに。さっさと行くぞ」
反論を許さず、強引に朱華の手をつかんだ男は霜罧だった。




