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雪の陰翳  作者: 苳子
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第5章 5

 城内に入ると寒さは多少ましになる。とはいえ、風が吹かないだけましという程度だが。吐き出した息が白く煙り、後方へたなびいていく。それを横目で時折確かめながら、朱華はもう一つ息を吐いた。行先は執務室だ。

 いくら暖房と仕事の効率がいいからといって、領主とその補佐官の執務室が同室というのはどうだろう。朱華はこの時ほどそう思ったことはなかった。

 霜罧に用があるということは、そこには列洪もいるということだ。ことがことだけに霜罧だけに話を通すというわけにはいかないことは、朱華とて分かっている。

 気が重いのは、列洪がどんな顔をするかという点だった。

 先代の苴葉公が亡くなってからまだ一年も経っていない。それを思い出し、そのことを全く考慮していなかった自分に愕然とする。軽挙妄動というより他なく、顔から火が出るとはこのことかと激しく己を恥じた。自省すればするほど足取りが重くなる。

 それに気づいた枳月が、足並みを合わせながら問いかけてきた。


「如何なされた?」


 朱華はとっさに言葉につまり、顔を歪めた。今更ながら自分の愚かさが身にしみたが、それを口にするのは弁解じみているような気もして躊躇われた。


「……なんと言いますか……恥じています」


 押し出された最後の言葉に、枳月の口元は密かに綻んだ。


「ご自分で思い至られたのなら、よくよく身にしみられたのではありませんか?」

「ーー穴があったら入りたいとは、正しくこういうことを指すのですね」


 今にも頭を抱えて蹲りそうな風情で、だが朱華は俯きながらも足は止めなかった。


「今後に活かされればよろしいのではありませんか?」

「それはそうなのですがーー列洪も愚昧な主人に頭を抱えているのではないかと思うと……」


 付き合いの長い霜罧なら、言うまでもない。むしろ何故今まで黙っていたと詰りたいくらいだったーー勿論、八つ当たりだと言うことは分かっているが。


「そこまで自己卑下なさる必要はありますまい。公はまだまだお若い。通常であれば後継者として経験と知識を積んでから就任するところを、いきなり心構えもなしにこうなったのですから。むしろご己の未熟さを自覚して恥じておられるということは、悪いことではありますまい」


 朱華は納得しかねるという顔で枳月を一瞥した。


「ただし、何事も程々が肝心です。公はいささか生真面目すぎる面もおありになる。自分を責めるだけでもいけません。きちんとご自分を認め、褒めることも肝要です」

「――自分を褒める、ですか」


 心許なげに呟き、朱華は唇をかんだ。そんな心当たりはどこにもない。枳月はその口元を一瞥し、小さく、けれどはっきりと呼びかけた。


「姫」

「――はい?」


 朱華は姫と呼ばれ、一拍おいて驚いたように顔を向けた。枳月は労わるような表情かおで朱華を見つめていた。


「その癖はおやめになったほうが良いでしょう」

「……癖、ですか?」

「唇をかむ癖がおありでしょう。失礼ながら、特にご自分を不甲斐なく感じておいでの時に、その癖が見受けられるように思います。いたずらにご自分を傷つけるものではありませんよ、身も心も」


 言葉遣いは淡々としているが、声音は柔らかい。

 朱華は一瞬息が詰まりそうになり、それから立ち止まった。困惑したように顔をゆがめ、それから耐えかねるように唇を嚙みかけたが、辛うじて堪える。


「……姫? いや、公?」

「――枳月殿は何故……」


 憤りを滲ませて、朱華は枳月を睨みつけた。だが、じきに諦めて息をついた。枳月はまさか朱華がそのような反応を示すとは思ってもなかったのだろう。その理由がまったく見当もつかないらしく、ただ慌てて頭を下げる。


「――出過ぎたことを申しました、お気を害したなら申し訳ありません」

「……違います――そうではないのです」


 彼の反応に朱華は失望したように首を振り、項垂れてそっと目尻に滲んだものをぬぐった。自分が何に憤っているのか、彼のその態度になぜこれほど気落ちしているのか、朱華自身はっきりと理解しているわけではなかった。ただ、自分が混乱していることは確かだった。


「もういいのです――行きましょう、時間が惜しい……それから、先ほどのお言葉、ありがとうございます」


 枳月から目をそらしたまま浅く頭を下げ、朱華は俯いたまま再び歩き出した。礼の言葉はむなしく響き、枳月は彼女のそんな様子を理解できないままだった。




 この城はどこもここも無機質だった。寒々しいともいえる。そこへこの厳寒が加わると、体だけでなく心まで凍てついてしまいそうな気がする。

 朱華は廊下の明り取りの窓の向こうに、再び激しさを増した吹雪を見た。この冬が終わることはあるのだろうか。そんな馬鹿げたことを考えながら、その足は見慣れた扉の前で止まった。

 執務室の扉もまた、ほかの部屋のものと何ら変わりない。場所を覚えていなければ、通り過ぎてしまうだろう。その室内もまた、質実の一言で片付く。下級役人たちの働く部屋と大差はない。あるとすれば、その室温くらいのものだろう。さすがにその点だけは優遇されていた。

 予定外の主の帰室に、護衛兵は慌てた様子は見せなかった。突然戻ってきた主に、二人の補佐官もまた別段驚いた様子もない。ただ、列洪の眉根がわずかに寄せられた。おそらく、予定を乱されたことに苛立ったのだろう。


「如何なされましたか、公――枳月殿下もご一緒とは」


 如才なく霜罧が穏やかに問いかけてくる。その視線は朱華の上を滑り、枳月へと向けられた。すべて承知しているのではないかと詰りたい衝動に駆られるが、八つ当たりにすぎないことは分かっている。

 朱華は小さく息をつき、自分を落ち着かせるべく努める。


「話し忘れていたことがあったので」

「承ります」


 執務中だった手を止め、霜罧が立ち上がった。朱華に自分の執務机に着くよう身振りで示すが、朱華はそれを手で押しとどめた。


「私がすでに何度か城下へおりたことだけれど――」


 いったん言葉を切り、朱華は相手の反応を待った。霜罧の席の向かい側に座ったままの列洪は、形ばかり手を止めている。直接話を受ける霜罧に、驚いた様子はない。


「すでに知っているようね、二人とも――それなら話が早い」


 やはり珂瑛の読み通りだったことに、朱華は脱力して笑い出したくなるのを堪えた。主の言葉に列洪は小さく頷き、霜罧はわずかに笑んだ。その笑みがまた朱華の気に障るのだが、もはやそれが難癖に近いことも自覚している。

 その何もかもお見通しと言わんばかりの笑みを無視して、朱華は言葉を続ける。


「その様子だと、特に異論はないようね――二人とも」

「私どもは公のご判断に従うまでです」


 枳月の言うままに、霜罧にそのまま“お話”していれば、主が臣下に許可をもらうことになってしまう。そこを朱華は、主の独断をあとから臣下に承諾させるという形で話を通した。霜罧はそのことにも満足そうだったが、その意図までは彼女に伝わらない。


「それに失礼ながら良いご決断かと」

「そう」


 霜罧は誉めそやすかのようだったが、朱華はあっさりと受け流した。いつもの苛立ちまじりの拒絶よりも、はるかに冷淡な反応だった。それに霜罧は表情一つ変えなかった。


「列洪の意見は?」


 列洪は形ばかり止めていた筆をおいた。そうして立ち上がる。主と霜罧が立っているのに、自分だけ座って答えるわけにはいかなかった。


「霜罧殿と同意見です」


 列洪は短く答えた。それに朱華は浅く首肯する。彼の意思を確認したかったわけではなく、霜罧にしたことを彼にもしないわけにはいかなかったことが透けて見えていた。だが、それもまた、彼にとってはどうでもいいことには違いない。それで気を悪くするような人物ではないことは、短期間でもわかることだ。


「そう、ならばいい」


 二人の了解を得たことで用は済んだと言うように、朱華は踵を返しかけた。


「失礼ながら、公」


 一方的に話を終わらせようとした朱華に、霜罧が食い下がった。それを列洪はただ観察するように眺め、枳月は入室してきた時から一貫してずっと扉のすぐそばに控えている。その表情は見えない。


「それは公自らのお考えからの行動ですか?」


 霜罧はいつもの揶揄うような笑みの片鱗も見せず、まっすぐに問いかけてきた。“四の姫”に問うているのではないのだ。朱華は反射的に隣に立つ枳月を見た。前髪で顔の半分を隠したその表情は読めないが、かすかに頷いたようだった。

 朱華は霜罧に改めて向き直る。


「ええ、そうよ」


 朱華は短く答え、頷いた。霜罧はそれを確認すると、ちらりと列洪を一瞥した。


「これまでは御身に危険の及ばぬよう手を回させておりました」


 二度も領主を失うわけにはいかないのだ。枳月と話す前の朱華なら、また霜罧の過保護だ、過干渉だと気分を害したかもしれない。けれど、それが当然だと理解できる今はただ無言で頷くのみだった。その様子に、霜罧の口の端がわずかに上がる。


「民の暮らしの実際をご希望でしたら、夕瑛殿にご相談されるべきでしょう。兵を連れていてはお望みのものは見えますまい。暮らしを知るには住民に混ざることです――ただ、鄙には稀なその御器量ではただの町娘には見えないかもしれませんが」


 最後は彼らしく麗々しく微笑んで揶揄するような物言いだった。それには朱華はいつものように不愉快そうに顔をゆがませた。


「では、娼館にでも滞在してみようかしら――私程度でもつく客はあるでしょう」


 皮肉気に冷笑する。それに慌てたのは枳月だった。


「公、さすがにそれは……」

「その時は私が買い切らせていただきますよ」


 霜罧は恭しくそう返し、ますます朱華を苛立たせた。


「それよりも、公、せっかくですから今日はこれまでのように城下におりられてはいかがですか?」


 あっさりと話を変えられ、朱華は不快な気分を引きずりながらも合わせるしかない。


「しかし、もう時間が」

「今後のご予定でしたら変更すればよいだけのことです。実のあることをご希望なのでしょう? せっかく枳月殿下にも付き添っていただけるようですし――町娘に扮するのは次回以降になさるとして」

「……本当に、そなたのその物言いは……」


 朱華はうんざりしたように呟き、それから枳月を振り返った。


「今からでもお付き合い願えますか?」

「喜んで」


 枳月は短く首肯した。


「夕瑛殿には私から話を通しておきます。日暮れには城にお戻りください」

「――分かった」


 霜罧の言葉に、朱華は振り返らずに応じる。そして、そのまま執務室を出ていった。枳月は一礼して、そのあとに続いた。

 主が去ると、列洪はすぐさま着座し、再び筆を手に取った。


「列洪殿、なにかご意見が?」


 霜罧もゆっくりと腰を下ろし、年長者に考えを問う。書類を手にしながら、彼はわずかに首をひねった。


「特に何も――強いて言うなら、私の望みは早く決着がつくことです……が、あなたにはその気がおありなのか些か疑問です」


 その言葉に霜罧は声もなく笑った。


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