第5章 4
二人が話しているところに朱華がやってきた。雪混じりの強い風に、一つに束ねた長い黒髪がなびいている。分厚い防寒着を着込み、すっかり着ぶくれていた。
「ここにいたのね」
ひときわ強い風が吹き、朱華は反射的に肩をすくめて襟巻きに顎を埋める。その仕草は幼子を思わせ、珂瑛は密かに微笑する。
そういえば、彼の主人は幼い頃から寒さが苦手だった。
王都が珍しく雪景色となり、三の姫と五の姫が嬉々として庭に飛び出す中、四の姫だけは気の進まない様子で、女官たちに促されて渋々といった態だった。そんな彼女が寒冷地を治める苴葉公となったことは皮肉だろうか。
霜罧はその頃から朱華に特に構いつけていた。彼がなんとか雪に興味を持たせようとしても、朱華は無言で抵抗した。相手が素直な五の姫あたりなら良かったのかもしれないが、何故か彼は四の姫に執着を見せていた。三の姫がそれで機嫌を悪くすることも珍しくなかったが、朱華は未だに夢にも思っていないだろう。彼女の中では、皆がちやほやするのは三の姫と決まっているようだ。
珂瑛とて、朱華が一方的に霜罧を苦手としていることは知っている。傍から見ている分には、彼はさほど嫌われるようなことをしているわけではない。揶揄いが過ぎるように見えることはあったが、朱華があれほど苦手とするほどには見えなかった。が、事実として彼女は彼を好いてはいない。それが相性の悪さというものなのかもしれない。
霜罧は朱華に対して気遣いは見せるが、時として珂瑛の目には些か過保護にうつることもある。それが朱華の気性にあわないことは珂瑛にもわかることだが、付き合いの長さなら変わらない霜罧には分からないのだろうか。彼は珂瑛よりも洞察力にも優れ、頭も切れるが、誰しも得手不得手はあるということか。枳月は彼以上に実際に手を貸しているが、さり気ないためか朱華の気に触ることはないようだった。
「執務は終わられたのか?」
「一区切りはついたわ、あとはあの二人がいれはすむことだから」
朱華はそう言って肩をすくめた。彼女がしなければならないことは大してない。実務は列洪と霜罧がいれば十分だった。
「稽古なさるか?」
「そのつもりで来たのだけれど、どちらかお相手願える?」
そう言いながらも視線は珂瑛の方を向いている。昔から珂瑛が稽古の相手をつとめてきたので、ごく自然なことではあった。
「生憎だが、俺はこの後予定がある」
「枳月殿もご一緒に?」
地位は同じであるため、二人一緒に行動することも多い。朱華の問いかけに、いきなり水を向けられた枳月は不意をつかれたようだった。
「予定があるのは俺だけだ。たまには殿下にお手合わせ願ってはどうだ?」
「……そうね」
朱華は戸惑いながらも、珂瑛の提案に乗るかどうか迷っているようだった。枳月は朱華の判断に任せるつもりらしい。
「その後、ついでに付き添って貰えばいいんじゃないか?」
次の言葉に朱華はぎょっとして声を上げる。
「珂瑛、それは……」
「付き添い?」
話が見えず困惑する枳月に、朱華は頭を抱えるようにして溜息を吐いた。
「この後、城下におりたいのだろう?」
「城下に?」
珂瑛の台詞に、枳月は驚いたようにで朱華を見た。彼女はげんなりした様子で、恨みがましく珂瑛を睨めつけた。
「構わんだろう、殿下になら」
と、朱華の抗議をあっさりと笑い飛ばす。
「城下の様子を見たいとご希望でな。なに、大丈夫だろう、初めてではないし」
「……既に何度かおりておられると」
枳月は珍しく言外に何かを滲ませ、ちらりと朱華を見る。火傷の跡は髪で隠れており、整った方の顔で感心しないというように一瞥され、朱華は微かに顔を赤らめた。悪戯を見咎められた幼子のような心地だった。
「……霜罧殿はご承知なのですか?」
枳月が口にした名に、朱華は顔を強張らせる。
「いちいち了解はとっていないが、あの男ならとっくに把握しているだろう。何も言ってこないということは了解しているということだろう」
なっ、と珂瑛は朱華に同意を求める。朱華は曖昧な物言いで誤魔化したが、枳月の言葉に明らかに不満そうだった。
苴州の領主であるはずの自分の行動に、霜罧の許可がいると言わんばかりの枳月に、納得いかないらしい。とはいえ、霜罧は女王自ら朱華の後見人に任じた人物である以上、仕方ないともいえる。
「本当にご承知かどうか……きちんとお話なさっては如何ですか?」
「〝お話〟しているうちにおりる時間が無くなってしまいます」
朱華の一日の予定はほぼ決まっている。それに合わせて他の者の予定も決まってくるため、安易に予定変更はできないのだ。
「今日一日くらいは堪えられては」
「次におりられそうなのは十日後なのです」
朱華は感情的にならないように気をつけながら訴える。枳月はその言葉に微かに眉を顰め、それから仕方ありませんねと言いたげに微苦笑した。
「まずはお忘れなきようにお願いしたいことが」
「なんでしょう?」
「公の一番の義務はご自身の安全です。苴州の民に、早々に再び嘆きを与えるような真似は決してなさってはなりません。そしてそれは霜罧殿も同様です。それだけの責務を彼が負っていることをお忘れなきように。彼は単なる守り役ではないのですよ」
彼にしては珍しく厳しい表情と物言いだった。
朱華の内心を読んだような言葉に、彼女は今度こそ耳まで赤面した。幼稚な反発心を見透かされたようだった。
「……わかりました、今日はまず霜罧に相談します」
朱華は自分を恥じるような気色をにじませながら枳月に応じた。彼はにこりと優しげに微笑した。
「お供いたしましょうか?」
「いえ、これは私の……」
「時間があればついでに城下まで同行いただけばいいんじゃないか?」
遠慮しかけた朱華の言葉を遮った珂瑛の提案に、枳月も「ではそういたしましょうか」と応じたため、朱華もそれ以上辞退するわけにはいかなくなった。
「では、お言葉に甘えて……けれど、珂瑛に予定があるのなら、この後のことは枳月殿が当たられるのではありませんか?」
朱華は練兵場に視線をやる。二人はちょうど視察中のはずだった。
「いや、俺がいれば済む。今も直接指揮をとっているわけではないしな、支障ない」
練兵の指揮には下士官があたっている。
「しかし、この後予定があるなら……」
「養子の件でな、人と会うだけだ」
「ああ、そのこと」
珂瑛は数件の養子縁組の申し込みを受けている。いずれも浪家に次ぐ、苴州内では家格の高い家ばかりである。中央では中級貴族であっても、地方ではこのような釣り合いになる。
上級貴族出身の霜罧ともなると、州内には釣り合う家がない。朱華の夫に選ばれなければ、王都に戻るのではないかとも言われていた。
「婿養子の話もあってな」
満更でもなさそうに珂瑛が話すと、朱華は頷いた。
「珂瑛ならそうでしょう。体も丈夫だし、腕も立つ、人望も厚い。婿に迎えたい家はいくらでもあるでしょう」
尤もな話だと言わんがばかりの乳兄妹に、珂瑛は複雑な笑みを浮かべた。
「ああ、それで困っている程だ。ともかく、さっさと霜罧殿のところへ行かれることだ、城下におりる時間が無くなるぞ」
珂瑛に促され、朱華は失念していたことに気づく。
「では、枳月殿、お付き合い願えますか?」
「どこへなりとも」
枳月は恭しく一礼して承った。朱華は「そのような……」と戸惑いを見せ、それを誤魔化すように「早く行きましょう」と先に立って歩き出した。
「では、珂瑛殿、失礼」
枳月は軽く頭を下げ、慌てて朱華の後を追っていった。いったん止んでいた風が強さを増し、雪に視界が悪くなる。そんな中、遠ざかっていく二人を見送りながら、珂瑛はふっと息をついた。
「……なるほど、お似合いかもしれんな」
独り言ち、また練兵場の様子に目をやる。
「――男は諦めが肝心、か」
呟きは風に乗り、搔き消された。
来た道を戻りながら、朱華の表情はさえなかった。枳月の言葉には素直に納得できたものの、その結果対峙することとなった相手のこととなると話は別だった。
「……あまり気が進みませんか?」
隣を歩いていた枳月が遠慮がちに声をかけてきた。自分の考えに没頭していた朱華は、現実に引き戻された。同時に、内心を読まれたかのような彼からの問いかけに、ばつの悪さに頬に熱が奔る。
「その……枳月殿もご存知のように、霜罧とは円滑とは言い難いものですから……」
だからといって、今更前言撤回するわけにもいかない。それではあまりにも幼稚すぎる。だが、そうしたい衝動に駆られている自分も確かにおり、それがまた自己嫌悪の原因となっていた。
「……」
枳月も今更それは知らなかったとは言えない。枳月が返答に困っていることに気づき、朱華はさらに慌てた。
「――その、枳月殿は霜罧がすでに知っていると思われますか?」
珂瑛はとっくに知っているだろうと言い切っていた。朱華は内緒にしているつもりだったため、珂瑛のその判断には正直驚いた。だが、考えてみるまでもなくあり得そうな話ではある。“あの”霜罧が朱華の浅慮ともいえる行動を、しかも何度も繰り返したものを、見過ごしているとは思えない。掌の上で転がされているとは思いたくないが、彼の目を盗んで何かができるとは考えにくい。
「……さぁ、いかがでしょうね」
枳月は顔を隠す前髪の陰で小さく笑った。彼は朱華に親切だが、ご機嫌を取ろうとはしてこない。それが朱華にとっては居心地がよかった。
「珂瑛にああ言われると、そんな気がしてきました」
朱華はぼやくようにこぼすと、彼はまた笑ったようだった。だが、霜罧のそれとは違い、朱華の気にはならない。
「もしそうだとした場合、霜罧殿がなにも言わないのは公のお考えに賛成だからでしょう」
「城下におりることに?」
「はい、そうです――王都におられた頃に、そのようなことをお考えになられたことがありましたか?」
「……いえ、ありませんでした」
枳月の言葉を、朱華は考えてみたこともなかった。
「失礼ながら、姫に苴葉公としてのお自覚ができてきた証拠でしょう」
「――自覚、ですか」
「意識してできるものではありません――良い傾向だと私は思います。おそらく、霜罧殿も同様かと」
枳月は今度ははっきりと朱華に微笑んでみせた。前髪の影にちらりとひきつれた傷跡が見えたが、朱華に目にはそんなものは映らなかった。朱華は瞬時に耳まで熱を感じ、慌てて目をそらした。
「……あ、ありがとうございます」
それだけ答えるのがやっとだった。




