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雪の陰翳  作者: 苳子
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第5章 2

 苴葉公の寝室と執務室は同じ区画内にあった。寒々しく薄暗い廊下をまっすぐ行く。半ば屋外と変わらないためか、人気はほとんどない。

 稀にすれ違うこともあるが、相手が朱華だと気づくと脇に控えて首を垂れるが、気づかなければそのまま行ってしまう。それが咎められることはない。

 王都では考えられないことだが、朱華にはむしろ心地よかった。苴葉公として担ぎ出されることに同意はしたが、実際に担がれてみると心地よいものではなかった。幼い頃からの傾向だが、取りまかれるよりも、それを外からひっそり眺めていることの方が性に合っている。

 開かれた窓の向こうにちらつく風花を見つけ、朱華はわずかに肩をすくめた。雪を見ない日はない。窓の向こうが白く閉ざされることすら稀ではない。春はまだ遠い。




 執務室の暖炉には火が入り、すでにあたたまっていた。鎧戸が閉ざされていないため室内は比較的明るいが、その分肌寒い。光の届かない部屋の隅には蝋燭が置かれている。

 暖房の手間もあり、苴州では苴葉公専用の執務室はない。側近数名との共有だった。

 比較的広い室内には机が複数配置されている。どれも同じ作りのものばかりだった。暖炉にもっとも近い席が朱華のものであり、その手前に二つの机が並ぶ。

 その机の横に二人の男が立ち、朱華を迎える。霜罧と浪列洪だった。

 朱華の入室の先触れに、二人はすでに立ち上がっていた。霜罧は恭しく頭を下げた。


「おはようございます。よくお休みになられましたでしょうか?」

「ええ」


 朱華はちらりと霜罧を一瞥し、浅く頷いた。朝の決まり切った口上を事務的にこなしているという印象は拭えない。苴州入りして一月になるが、生活そのものも決まり切ったことの繰り返しとなりつつある。

 朱華は霜罧がさらに言葉を続けようとする気配を察し、片手を上げて押し留めた。列洪をちらりと見ると、霜罧も納得したようだった。

 列洪は無言で一礼すると、主人の着座を待たずに腰を下ろして早速書類を手にしている。

 朝の挨拶すら無駄なこととして省きたいのが本音なのだろうと、朱華はこの男を見ていると思う。不敬というより、非効率なことを彼が厭うこともすぐにわかった。

 父であり、葉の全軍を掌握する碧柊が、苴州には有能だが取りつく島のない男がいると苦笑いしていたが、それが誰のことかはすぐにわかった。

 朱華が苴州の州都入りしたその日、苴州の民を代表して迎えたのは彼だった。三十代半ばかと思しき落ち着いた容貌の持ち主であり、一見穏やかそうに見えてそうでもないことは事前に耳にしていた。

 先代の苴葉公は彼から早い婚姻を迫られ、逃げ回っていたという。後嗣の必要性は朱華とて理解しているが、早期の決断を迫られるのではないかと、少なからず憂鬱にはなっていた。

 そんな心中を見透かしたように、彼は挨拶もそこそこに言い出した。


「私と先代の苴葉公との軋轢はお聞き及びと存じます。しかしながら、王統家の存続は下々の民の暮らしまで左右いたします。葉の国はじまって以来初めて王女殿下を公としてお迎えする栄誉に、すべての民が喜んでおります。どうかその尊きお血筋をこの苴州に末長くお伝えくださいますよう、心からお願い申し上げます」


 いきなりの先制攻撃に朱華は唖然とし、居合わせた珂瑛は吹き出しかけたのを堪え、枳月の反応は分からなかった。霜罧が「浪殿のお気持ちは公もご承知です」といなしてくれ、その場はなんとかおさまった。

 朱華としては、未だにあの時はなんと返せば良かったのか分からない。夕瑛は霜罧にまかせておけばいいと苦笑した。朱華にとってはそれはそれで不本意だった。

 枳月と霜罧が朱華の夫候補とみなされていることを、列洪が知らないはずはないだろう。その二人が揃っているところで、朱華に後嗣の圧力をかけたのだ。はやくどちらかに決めろと迫られたも同然と感じられたが、それ以降彼はいっさいその件には触れない。前当主を追い詰めた結果から学習したのか、霜罧のとりなしで納得したのか。

 時折霜罧や枳月と話している時に、彼の無言の視線を感じることがある。まるで観察されているようで、朱華は苦い顔をする。夕瑛は例によって笑って流すように忠告する。


「まるで私がどちらに発情しているかを見極めようとしているかのようよ」

「……姫さま、お言葉にはお気をつけになられた方が」


 発情という単語に夕瑛はぎくりとした。


「私の婚姻は家畜の繁殖と同列なのでしょう、列洪にとっては」


 夕瑛の忠告に構わず、朱華は更に毒を吐く。


「けれど、家系の存続は姫さまのお役目の一つでもありますし」

「……私に最も求められているのは確かにそれのようね」


 実際、苴州の運営そのものは、朱華の存在に関わらず順調になされている。朱華自身にこれといって求められていることはない、彼女にしかでかない一つのことを除けば。

 そもそも苴葉家が絶えてしまったこと以外問題はなかったとも言える。新たな当主選定が急がれたのは各勢力の争いが長引くことを避けたいのと同時に、苴州の民の不安を解消するためでもあった。常に戦いの絶えない状況であるため、苴葉家が断絶すらかどうかは彼らの士気にも関わってくる。

 苴州のことは浪家の優秀な兄弟の手腕もあり、重大な問題は生じていない。おかげで霜罧は朱華の国入の準備だけに集中することができたと、州都入りの際には列洪にも礼を述べていた。列洪も霜罧の手腕を褒め返していたが、どこか他人事で、霜罧からの感謝もどうでも良さそうにも見えた。


「仕事熱心には違いありませんが、他人からの評価には関心がないようですね」


 霜罧は後日朱華にそう囁いた。

 帳簿や書類にも不正どころか不審の影もなく、いつ誰が確認しても支障ないように整えられていたという。それも朱華の国入に際して整えられたものではなく、日頃の列洪の仕事ぶりからするとそうあるのが当然のようだった。

 苴葉家再興にあたり、浪家自体からの要望はまったくなかった。主家不在の間の苴州統括経営の維持や、朱華の苴葉家継承においてもっとも尽力を求められるのは浪家である。労いの意味も兼ねて、浪家には王家から褒賞を与える話もあったが、列洪は辞退した。無欲な人物には違いないようだが、何故かそういう印象を他人に与えない。その点では損をしているとも言える。

 ある意味非人間な印象も与える精勤ぶりに、朱華は舌を巻く思いだった。霜罧とて負けず劣らずの勤めぶりだが、非人間ではない。何がそれを分けているかといえば、列洪は文字通り一言も無駄口を叩かないのだ。彼と比べれば霜罧は無駄口だらけだ。

 欲もなく、立場を私的に利用することも一切なく、正確無比にただひたすら仕事に励む姿に、朱華は霜罧に呟いた。


「なにを励みにあれほど勤めているのかしら」

「あの人を困らせたいなら簡単な方法がありますよ」


 もったいぶった言葉に朱華は先を促すように眉根を寄せた。


「仕事を取り上げればいいのです」


 霜罧はにこりと言い切る。朱華は一瞬押し黙り、それから小さく笑った。


「確かに妙案ね」


 珍しく二人が笑って会話している様子を、列洪はちらりと一瞥する。それに気づいた朱華は笑いをおさめた。

 霜罧も彼の視線に気づいていたのか微苦笑した。


「気になりますか?」


 朱華は、霜罧の言葉に彼の真意を探るように即答しなかった。霜罧はそれを察したように微苦笑した。


「挨拶もそこそこにあの発言ですからね、姫が気になさるのも無理はない」

「……公と呼びなさい」

「今はあくまで私的な会話ですから」


 霜罧は主人の言葉を意に介さず、艶笑する。どちらかといえば華やかに整った容貌の彼のそんな笑みに、相手によっては顔を赤らめるところだが、幸か不幸か幼い頃から見慣れている朱華はただ眉を顰めた。


「その顔と物言いはよしなさい」

「なにかお気に召しませんでしたか?」

「その顔とその物言いよ」


 険しい顔で負けずと言い返す朱華に、霜罧は満更でもなさそうに口の端を上げる。それがさらに朱華の気に触るが、言葉を重ねることはしなかった。


「失礼いたしました。近頃は姫とこのように会話する機会がありませんでしたので、つい」

「機会があれば、すかさず相手の気分を逆撫でするのは悪趣味というもの」

「悪い癖です、申し訳ありません」


 言葉とは裏腹に悪びれた様子はない。朱華は呆れたように溜息をついた。

 霜罧 は確信をもって逆撫でしているのである。以前のような嫌味こそは影をひそめるようになったが、未だに主人を揶揄って楽しむという傾向は変わらない。


「……これ以上そなたの悪癖について論議したところで無駄なようね」

「以後、注意いたします」

「期待しないでおく」


 朱華は冷ややかに笑い、霜罧を自分の席に戻らせた。彼は朱華の皮肉を受け流したのか、恭しく一礼して朱華の前を辞した。

 他愛ないはずのこんなやりとりすら、最後にはこういう結末になる。朱華自身うんざりしていた。

 霜罧は誰に対してもそういうわけではない。夕瑛とはいつの間にか情報交換をしていることさえある。他の姉妹に対しても朱華にみせるような態度はとらない。よほど自分たちは相性が悪いのか、それとも彼は朱華を嫌っているのか。

 朱華とて彼を嫌っているに近い。だが、このような事態になり最も頼りになり、実際頼りにしているのも霜罧である。その存在をあてにし、何かの折には心強く感じることもある。嫌っているとは言い切れない。

 矛盾する自分の気持ちを持て余す一方で、彼の気持ちも理解できない。苴州公を継ぐのが朱華だからこそ、彼はそれまでの経歴を投げ打って王命を受けることにしたと断言していた。相手が他の姉妹であれば断ったと。

 お世辞かもしれないが、この件で彼がそんなことは言わないように朱華には思えた。ろくな信頼関係ではないが、ぎりぎりのところで彼らの関係は保たれている。この件においてだけは彼の言葉に偽りがあってはならない。それはお互いに承知しているのではないか。だからこそ、朱華は彼との間にいざこざがあっても、最終的には破綻せずにいられているような気がしている。

 そんな危うい関係を、彼はどうしようと、どうしたいと考えているのか。



 席に着いてから僅かの間にそんなことを思い出していると、霜罧がこの日朱華が目を通すべき書類を持ってきた。


「こちらの件をよろしくお願いします」


 一通り目を通し、わからないことがあれば尋ね、最終的に決済の署名するのが朱華の仕事だ。


「ええ」


 無表情で受け取りながら、朱華は内心息を吐く。こんな風に何も言わないでくれれば悩むこともないのだ。だが、それはそれで物足りなく思うこともあるのだろうか。

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