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雪の陰翳  作者: 苳子
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第5章 1

 朝は寒く暗い。時を告げる鐘の音でも目覚めない主人を、侍女頭が起こしにくる。


朱華しゅかさま、朝です」


 掛け布団に頭まで埋もれた体を揺さぶっても、主人はなかなか目が覚めないようだった。布団を捲れば、毛布をしっかりと巻き込んで丸まっている。本来は寝起きの悪さとは無縁だったはずの彼女である。

 侍女頭は小さく息を吐くと、毛布の端を掴んで一気に引き剥がす。


「なにをするの!?」

「やはり、お目覚めでしたね」


 悲痛な声をあげて、朱華は毛布の端にしがみついた。蝋燭の灯りに照らされた主人の姿に、夕瑛せきえい)は同情的な笑みを浮かべながらも、往生際の悪さを嗜める。朱華はそれに構わず毛布を取り返そうと渾身の力で抗う。日頃から男達に混ざって体を鍛えている主人に、侍女頭が力でかなうわけもない。あっさり毛布を奪い返すと、再びそれに包まった。


「すっかり冷えてしまったわ」


 くぐもった抗議の声に、夕瑛は肩を竦めた。


「お目覚めになられたのではありませんか?」

「目ならとっくに覚めている」

「ならば速やかにご起床なさいませ。火ならもう搔き起しておりますよ」


 その言葉通り、暖炉の燠火はすでに暖かそうな焔に変じており、薪の爆ぜる音もしている。ようやく目が覚めてきたのか、それを自分の耳で確認した朱華は、毛布から頭だけ出した。

 石造りの室内は朝だというのに暗い。防寒のために窓は塞がれている。そのため朝から蝋燭が灯されている。


「……まだ寒いわね」

「……姫さま」


 ぼそっと漏れた不満に、夕瑛は苦笑いする。言ってもしようのないことは朱華とてわかっている。いつまでも寒さに慣れないのは夕瑛も同じ。愚痴をこぼしたくなる気持ちはわかる。


「まずは洗顔をなさいませ。私は朝食をとってまいります」


 そう言い置いて夕瑛はいったん退室する。

 残された朱華はしばらく愚図愚図していたが、溜息を吐くとようやく諦めたようだった。寝台から降りると室内履きをつっかけ、名残惜しそうに毛布を振り返る。それでも戻ることなく洗面に向かう。

 寝台の隣に小ぶりな家具が置かれ、その上に水差しと盥がのっている。水差しからは湯気が立ち上っている。朱華は盥に湯を注ぎ、洗面をすませた。手探りで準備された手巾を探り当てる。

 西宮さいぐうにいた頃は、常に傍らに誰かがいてあれこれと世話を焼いてくれたものだが、ここでは基本的に自分のことは自分でするのが当然とされていた。王族と王統家という違いだけでなく、東葉とうはというかつての国の特徴でもある。質実剛健を旨として、生活は全体的に慎ましい。経済力は西葉さいはより高いため、決して貧しいわけではない。

 寝台に腰かけ手巾で水気を拭っていると、夕瑛が戻ってきた。

 寝台と同じ壁沿いに机と椅子がある。その上に朝食をのせた盆が置かれる。朱華は湿った手巾を夕瑛に渡すと、椅子に腰かけた。

 苴葉そよう公の寝室だというのに、家具はこれだけだった。食事も書き物も同じ机を使用する。その家具とて飾りも塗りも一切ないものである。庶民のものと変わりないのではないかと、夕瑛が呆れてこぼしたほどである。西宮のものとは比べるまでもない。

 そういうことに頓着することのない朱華も、はじめて目にした時は驚いた。これを先祖代々受け継いで使用してきたと聞くと、このままでいいとしたのも朱華だった。こういうことには一切口を挟んでこなかった霜罧そうりんも、流石にもう少し身分に相応しいものにしてはと提案した。が、朱華は代々受け継がれてきたものならそのままでいいとした。

 ただ一つ慣れないのは一人で摂る食事だった。子供の頃から姉妹で食卓を囲んできたため、一人きりの食事はじめてだった。給仕に夕瑛が控えているとはいえ、壁に向かって黙々と摂っていては味気も何もない。さらに冬季ということもあり、食事は保存食が中心。栄養の均衡はとれているが、目を楽しませるような彩りとは無縁だった。さらにはその内容も質素極まりない。

 夕瑛は口にこそしなかったが、まるで幽閉中の罪人のような扱いだとさえ感じていた。まさか苴葉家再興とは名目で、苴州に流罪になったわけではあるまいが。溺愛され甘やかされていたわけではないが、一国の王女だった人物に対する扱いとしてはあまりに酷くはないか。当の本人が不平を一切口にしないため、夕瑛も口を噤んでいるが。

 そもそも朱華は自分一人のことであれば滅多と不平を口にすることはない。こんなものかと受け入れてしまう。彼女の欠点であり、長所でもあるが、しばしば自分の考えなしに他人の意見を容れてしまうのは考え物ではある。

 朱華は汁物を口にすると、溜息を吐いた。横に立つ夕瑛が眉を顰める。


「お口にあいませんか?」

「そんなことはないわ」


 毎朝同じものなのに何を今更と思いながらも、朱華はそこまでは口にしなかった。が、夕瑛にはそんな胸中は伝わっている。


「……お寂しいですね」


 食事中にお喋りに夢中になってしまうことは行儀が悪いとされるが、ある程度の会話はむしろ推奨されている。茜華せんかと他愛ない話をしながらの食事が基本だった。


「……そうね、意外と大切なことだったのね」


 朱華は元々口数の多い性質たちではないため、一人の食事がこれほど味気ないものだとは思っていなかった。


「かと言って、あなたに相伴してもらうわけにもいかないし」


 夕瑛は他の使用人たちと一緒に摂ることになっている。

 夕瑛の実家は中級貴族とはいえ、中央に勢力を持ち家格も低いわけではない。王女の乳母をつとめるには相応の勢力、家格が求められる。その正妻腹の嫡出の姫君である。西宮では女官長だったとは言うものの、実際は友人・話し相手というのが相応しいものだった。それは他の王女の乳姉妹も同様だった。

 だが、そんな実情を州側が知るはずはない。長年仕えた女官がそのまま苴州までついてきたとしか認識されていない。夕瑛はそんな扱いに異議をとなえることなく受け入れている。西宮でも女官たちに立ち混じって働いてきたため、その動きも板についている。ただ、らん列洪れっこうだけが身分に相応しい扱いを提案したが、夕瑛はそれを辞退した。そうすれば王都からやってきた貴族の姫として、苴州の人々との間に溝ができてしまう。夕瑛は人々の生の声を直に聞き、朱華に届けることを優先した。

 朱華は申し訳ないと言ったが、夕瑛は「あなたのためならなんでも致しますと申し上げましたでしょう」と笑っただけだった。


「ご相伴はできませんが、二人きりなのですから話しかけていただいて構いません」

「……私から話すほどのこともないものだから」


 二人は苦笑しあい、朱華は食事を続けた。

 茜華はどこからあれほど話題を見つけてくるのかと思うほど話題豊富で多弁だった。朱華はその姉とは思えないほど口数が少ない。だからといって支障があるわけでもないのだが。

 楽しい食事ではないが、食欲がないわけではない。味付けとて悪くはない。ただ毎朝変わりばえしないというだけのこと。朱華は義務的に食事をすませた。

 食器を夕瑛が片付けている間に更衣をすませる。衣装は夕瑛が支度してくれるが、身に付けるのは原則自分ですることになっている。それも代々のことらしい。

 苴葉家を継ぐことになってから、朱華は自分のことは自分でやるようにしてきた。おかげで正装以外ならなんとか一人で着用できる。

 元々着飾ることに関心がなく、夕瑛に任せきりだった。苴葉家の歴代当主たちは装いも質素だったようで、夕瑛によってそれなりに支度されてきた衣装の数々は出番が少ないままだった。普段のものは文官の制服を模した寒色の簡素なものだ。朱華は女性にしては上背があるため、遠目には線の細いただの文官と区別がつかないような始末だった。

 若く美人だが、それに頓着しない新たな当主は概ね好意的に受け入れられている。

 前代未聞の王女の臣籍降下に、最も動揺したのは苴州の人々である。特に東葉では、建国以来直系の王女が生まれたことがない。東西の葉統一後、東葉王子を父に生まれた王女。その王女を当主に迎えたことで、苴葉家は東西の王統家のなかで最も家格も高いものとなった。それは公式にそうと認められたことではないが、葉の民の前では自明のことであった。

 そんな当主が、苴州の人々の気質に沿った生活を特に苦もなく受け入れ、さらには敬う女神さながらに武に秀でているとなると評判が悪くなりようはない。

 朱華は「男性と比べれば人並みに過ぎないのだけれど」と苦笑いするが、女性としては抜きん出ているには違いなく、人々にはそれで十分でもあった。

 朱華はいつものように衣を纏うと、帯をしめた。さらに剣帯を重ね、太刀をさげる。それは普段用に王女時代から携えてきたものだった。


「いつもながら惚れ惚れするほど凛々しくていらっしゃいますこと」


 夕瑛が感心したような呆れたような口ぶりで嘆息する。朱華は苦笑いする。

 近頃は薄化粧すらやめてしまった。王都にいた頃から行事の際にする程度だった。しかしすでに成人しており、婚期も逃しつつある年頃である。苴州入りを機に夕瑛の意見を容れて薄化粧をするようにしたのだが、薄暗い室内では大して映えず、してもしなくても気づくのは霜罧くらいのものだったので、やめてしまった。霜罧に褒められるとその日一日中居心地が悪かったのも一因ではある。さすがにそれを聞いた夕瑛は「霜罧殿がお気の毒では……」と口ごもったが、朱華には何故気の毒なのか理解できなかった。

 朱華は毛皮で裏打ちされた長靴に履き替え、夕瑛が準備してくれた温石おんじゃくを懐中した。これは炉で焼いた石を布でくるんだものだ。その上から毛皮の外套をまとう。まるで外出するような出で立ちだが、城内でもこの位着こまないと寒さを防ぐことはできないのだ。

 支度を終えると、ようやく朱華は私室を出る。扉を開けると思わず肩をすくめるほどの冷気が襲ってくる。それまでの室内とは比べ物にならない寒さだった。そして、これでも建物の内側であり、外よりはましだというのだ。

 扉の外の廊下には護衛番が控えている。苴葉公は毎日ほぼ同じ時刻に部屋を出る。そのためか、扉が開くとすでに二人の護衛兵が首を垂れて控えていた。朱華は小さく息を吐き、頭を切り替える。寝室では夕瑛とたわいない話で気楽に過ごすことができるが、ここから先は苴葉公として振る舞うことが求められる。

 朱華は夕瑛を一瞥すると、口元を引き締めて歩き出した。夕瑛はその扉の前で首を垂れて主人を見送る。供は護衛兵に引き継がれる。

 明かり取りの窓は半分塞がれているため、廊下も薄暗い。火の気はないため冷え冷えとしている。

 吐き出す息が白く広がるさまに、朱華はぶるりと震えた。自室がいかに暖かったのかを思い知らされる。あれでも暖かいとのだと思うと、王都での暮らしが懐かしく思い出される。小雪の舞うこともあるとはいえ、ここと比べれば何ということはない。里心がついたわけではないが、それだけこの終わりのない寒さは朱華の身にはこたえていた。


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