第4章 12
朱華は自分が知る限りのことを夕瑛に話した。彼女に伝えるために事柄を整理しながら話すことで、朱華の頭の中も多少すっきりする。
朱華の頭皮をもみほぐしながら話を聞いていた夕瑛は、開口一番に呆れたように確認した。
「本当に枳月殿下にそのようなことをお訊きになられたのですか?」
「可能性の一つですからね」
「あなたは男色家でいらっしゃいますかと訊いたも同然ですよ」
「そうよ、そうお訊きしたのだから」
「姫さま……」
夕瑛は頭を抱えんばかりだった。他の姉妹より王女らしさには多少劣るところもある四の姫だったが、これは王女どころか女性としてどうかという問題になってくる。
「私だって迷ったのよ、けれど可能性の一つとしては大いにありうるわけではあるし、なかなかお訊きする機会はないのだし……だいたい私しかお訊きできる人間はいないではない。あなたに訊ける?」
「無理ですね」
夕瑛は即答した。身分差もあり過ぎるし、度胸もない。朱華はほらねと言いたげな顔で振り返った。
このいささか凛々しぎる端麗な顔で、どんな表情をして問うたのか。
「けれど、誤魔化されておしまいに……」
夕瑛の言葉に朱華の顔がわずかに引きつった。
「誤魔化されたのではなく、嘘をつかれた……と思うのだけど」
「確かにそのようなお噂は聞きませんしね」
「そうなのよ、私の問いに便乗して誤魔化そうというのがね……詰めの甘さに、また腹がたつやら……」
朱華はそう言いながらも苦笑いする。
「お話をお伺いしている限りでは、まぁ確かに」
夕瑛も微苦笑しながら朱華に前を向かせ、頭部から首にかけて上から下へと指を滑らせる。
「少しはお楽になりましたか?」
「ありがとう……今夜はよく眠れそうよ」
朱華は首や肩をまわしてその解れ具合を確認し、振り返って夕瑛に礼を言う。それから表情をただした。
「で、あなたの考えはある?」
「さぁ、さっぱりですわ」
按摩で乱れた主人の髪を整えるため、夕瑛は衣装の隠しから櫛を取り出した。梳られながら朱華は顔をしかめた。
「考える気がないの?」
「それだけの材料では、考えてみたところで全て推測に過ぎないではないですか」
「推測に意味はないと?」
「一つの推測結果に囚われると、他の可能性について考えられなくなりかねません」
「……一理あるわね」
夕瑛は滑らかな髪の感触を確認しながら簡単に結っていく。王都を発ってからというもの、肝心要の艶やかさが日々失われていくのが気になっていた。苴州入りにあたっては最初が肝心である。げっそりと旅疲れを感じさせるようでは乳姉妹の名折れである。
「先ほど私にお話なさったことで、要点の整理がおつきになったのでは?」
「そうね」
「大前提として、おそらく枳月殿下は男色家ではいらっしゃらないでしょうということは間違いないかと」
「にも関わらず、誰とも結婚するわけにはいかないとお考えになるだけの理由がある」
「その理由を陛下はご存知でいらっしゃる」
「その上で、枳月殿の婿候補からおりたいという希望を却下なさった」
朱華はそこまで話し、手にしていた茶器が空になっていることに気付いた。気付いた夕瑛がすかさず器を満たす。すでに温くなっていたが、朱華は気に留めない。
「枳月殿下はそのことを、恐れながら……」
夕瑛は流石に口にするのは憚れるのか、口ごもった。そのあとを朱華が受ける。
「正気の沙汰ではないと仰った」
「……その理由を陛下は、枳月殿下の罪ではないとも仰せになられたわけですね」
「その理由は、枳月殿自身にとっては悪夢でもある、と」
「分かっていることとしてはこのくらいでしょうか?」
朱華は満たされた器を再び空にする間だけ考え込み、最後にわずかに顔をしかめた。
「霜罧がなにか知っているようね」
「……ただ、それが枳月殿下のその理由に直結するかどうかは分かりませんわね」
「それもそうね」
朱華は思案顔で空の茶器を弄び始めた。夕瑛は主人の身支度を整え終えると、無作法に手遊びを続けている主人から茶器をさり気なく奪い取る。
「……お尋ねになられてみては?」
「誰に?」
手遊びを視線で咎められ、朱華は首をすくめた。それから夕瑛の問いにひやりとするような一瞥を返す。
「霜罧殿に」
険のある眼差しに気付いた風もなく、夕瑛はあっさりと言い放つ。朱華は嫌な顔をした。
「姫さま、近頃お顔に出過ぎではありませんか?」
苦笑まじりの女官の言葉に、朱華ははっとした。
「自覚はしていていたのだけど、だめね」
朱華は自己嫌悪を滲ませながら、苦く笑った。
「お疲れなのでしょう……とはいえ、賢明なこととは言えませんわね」
「その通りよ」
溜息まじりに同意し、肩を竦めた。
「ともかく、これであなたに話していなかったことは以上、よ」
「姫さまのお考えは?」
「私の?」
「枳月殿下を夫となさりたいなら、このままというわけにはいきませんでしょう。けれど、そうでないなら放置なさるのも一つかと」
朱華は一瞬ぽかんとした表情を見せ、それからうーんと唸った。
「まだ何とも決めがたいわね……枳月殿に訊いたところで答えて下さりそうにもないし、個人的なことをあれこれと詮索するのも気がひけるし、かと言ってこうと決めるにはまだ早いようにも思えるし」
「霜罧殿を夫にというお気持ちにも……」
朱華はその言葉に眉間にしわを寄せ、それから慌ててその皺を誤魔化すように指先でそこに触れた。
「それはまだ早いわね……それと、霜罧の先ほどの様子では、何を知っているのか訊いたところで答えてくれるかどうか」
名前を呼んだが、彼は振り返りもしなかった。その背中を思い出しながら、そう言えばこんなことははじめてだということに気づく。
霜罧がどういうつもりで朱華を無視したのか。それは彼女自身に理由があるのか、それとも枳月のことには一切答えないという意思表示なのか。
「……夕瑛、やはり枳月殿についてはこのままにしておくわけにはいけないと思うわ。今日の霜罧の態度といい、何かあるのは確かなのだし」
「恐れながら、姫さまが全てを把握しておかれる必要はないかと……霜罧殿も必要だと判断されればお話しになられるのではありませんか?」
「ならばあのような態度は慎むべきではなくて?」
霜罧が、翠華での枳月のようすについて朱華に尋ねたことを指しているのは、夕瑛にもわかった。
「餌だけ蒔いておいてお預けを食らっているのと同じよ。確かに私は多くのことで霜罧に頼っているけれど、自分で判断することまで任せたわけではないわ。支えて欲しいとは頼んだけれど、操ってくれとは言っていない」
霜罧の気持ちを知る夕瑛には、それが彼なりの〝甘やかし〟だということが分かる。が、それは口が裂けても言えないことも承知している。彼女の主人は甘やかされることをむしろ嫌う。さらに相手が霜罧では二重に逆効果になるに違いない。
「霜罧殿にもお考えがあってのことでしょう」
「……夕瑛、あなた、近頃いやに霜罧の肩を持っていない?」
「いやですわ、姫さま、何故私がそのようなことを?」
探るような疑ぐり深い目で見据えてきた主人に、夕瑛は涼しい顔で否定してみせた。
実際、彼の肩を持っているつもりはない。むしろ穏やかで優しい人柄と思われる枳月の方が、朱華にはいいのではないかと感じている。霜罧の思いやりは朱華相手には空回りしがちで、恐らく相性が悪いのだろう。枳月相手ならば戸惑いつつも、結果的に朱華は彼からの厚意を受け入れている。
「霜罧殿が、あのようなことを姫さまにお尋ねになった理由はいったいなんだったのでしょうね」
朱華がこの一件を水に流す気がなく、さらに自分の部が悪くなってきたことを悟り、夕瑛は話の矛先を変えた。
「……なにか疑っているのかしら」
「なにかお疑いになるような状況がございますか?」
「……思いつかないわ」
「お疑いというより、なにかを気になさっているのではありませんか?」
「枳月殿のなにかを?」
朱華は今朝、霜罧が彼の翠華同行に気が進まなさそうだったことを思い出した。それを夕瑛に話すと、彼女は気づかなかったと返してきた。
「私の気のせいだったのかしら?」
首をかしげる朱華に、夕瑛は小さく首を振った。
「むしろその方が話の筋が通っているように思えます」
「筋が?」
「ええ、霜罧殿には枳月殿下を翠華にいかせたくないような素振りがおありだったのでしょう?」
彼女の兄は霜罧の悋気だと誤解したようだったが。
「私はそう感じたわね」
「理由は分かりませんが、霜罧殿は枳月殿下を翠華に行かせたくなかった。けれど、結局、殿下は姫さまに同行なさった。だから、姫さまに翠華での枳月殿下のご様子について質問なさった」
「確かに筋は通るわね。そこは私もひっかかっていたの。私は翠華に行くべきで、枳月殿が行かない方がいい理由なんてあるかしら。私と枳月殿は共に翠華を訪ねるのは初めてだった。訪れてみての感想も似たようなものだったわよ」
「それは私にも分かりかねますが……」
夕瑛は首を捻りながら、今度は朱華の手をとった。指先から丹念にほぐして行く。何か作業しながらの方が、考えに集中しやすいのは昔からだった。
「翠華でのお話を、特に枳月殿下のご様子を詳しく教えていただけますか?」
「ええ、では話すわ。その前にあなたも椅子にお掛けなさいな」
朱華の言葉に、夕瑛は「では、お言葉に甘えます」と笑った。
話を聞き終えた夕瑛は、案の定意味ありげに微笑した。
「その顔はやめなさい」
「あら、失礼いたしました」
すました顔をしてみせるが、目だけは探るように朱華の顔を見ている。彼女がこんな顔をするのは、道を踏み外しかけた時のことには違いない。
「良い感じではありませんか?」
「なにが?」
分かっていながらわざと惚けても、夕瑛は引き下がらない。
「枳月殿下とのことに決まっているではありませんか、はぐらかそうとされても無駄ですよ」
「……あれは、私が足を滑らせかけた際に手を貸してくださっただけのこと。なにを期待しているの」
「けれど、近頃は馬の乗り降りの際にも細やかにお気を使って下さっておられるようですが?」
よく見ているものだと感心する一方、いい加減にして欲しいという気持ちが頭をもたげてくる。
「夕瑛、枳月殿は結婚できないとおっしゃってるのよ」
「それは殿下の勝手なご都合ではありませんか。陛下はそれをお認めではないですし、姫さまのお気持ちまで抑える必要がありましょうか?」
「気持ちで結婚するわけではないのよ」
「人生は長いのですよ、お気持ちは大切です。人間、そんなに長く辛抱できるものではありません」
やけに力説する乳姉妹に、朱華は苛立つ。
「私は王女で苴葉公なのよ、すべては義務なの」
「だからといって後悔なさらなければならない義務もありませんわ。結局は義務として受け入れざるを得なかったり、諦めなければならないとしても、せめてお気のすむようになさるべきです。母がもうしておりました。結局は勤めを全うできませんでしたが、姫さまの乳母として上がらせて頂いて良かったと」
朱華の乳母をつとめた夕瑛の母は、生来体が丈夫とは言い難かった。それでも二人の産み月が近かったことや、人柄を見込まれて王城に上がった。結局は病を得て志半ばで宿下りをした。気丈な女性であったが、別れの際には涙涙で、それでも最後まで笑顔を通した。
「最初からから無理だと諦めてしまうことと、足掻くだけ足掻いた結果では、結末は同じだったとしても違うはずです。だからこそ、姫さまは苴葉公就任のお話をお受けになられたのではありませんか? 結果的には務まるかどうかは分からずとも、最善を尽くすだけは尽くしてみようと」
いつの間にか夕瑛は、しっかりと朱華の手を両手で握りこんでいた。朱華に返す言葉はなかった。
「どうか、後悔だけはなさいませんように」
「……後悔なんてどうせするのよ」
「しなかった後悔より、した後悔と申します。やるだけやってみた結果なら、諦めもつくというものです。どうせなら潔くお生きなさいまし」
朱華はしばらく答えなかったが、もう苛立った様子は失せていた。視線を落とし、なにやら思案顔だった。それを夕瑛はじっと見つめていた。
「……夕瑛、あなた、私が枳月殿をお慕いしていると決めてかかっていない?」
「お慕いするもしないも姫さまの勝手です。枳月殿下の勝手にご遠慮なさる義務はありませんわ」
夕瑛の返答に、朱華は小さく笑った。
「あなたにかかると、いろいろと考えるだけ無駄なような気がしてくるわね」
「考えることは必要ですが、考えるだけでは不十分ですわね」
さらりと言いきって、夕瑛は微笑む。どちらかといえば、そういうことに囚われがちなことを自覚している朱華は苦笑いする。
「それから、肝心の本題ですが」
「――なにか気が付いて?」
「枳月殿下は、ご自分から一つだけ発言なさっておられたのですね?」
朱華は咄嗟に思いつかなかったのか、小首をかしげた。
「陛下の身代わりだったお方が、“花の柱”の最上階に囚われておられた、と」
「……そうだったわね」
応じながらも、朱華はぴんと来ていないようだった。




