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雪の陰翳  作者: 苳子
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第4章 11

 

 自分にあてがわれた寝室に入るなり、朱華ははぁと大きく息をついた。小走りであとを追ってきた夕瑛は、閉まりかけた扉の隙間から滑り込む。


「姫さま、いったい……」

「夕瑛、公と呼んで」


 神経質そうに朱華は訂正を要求する。声音から先程の冷ややかさは失せていた。八つ当たりは自覚していた。


「今はどちらでもいいではありませんか。それより先程のはいったい……」

「……私がききたいわ」


 朱華は愚痴るように呟き、外套を乱暴に脱ぎ捨てた。椅子に腰を下ろし、溜息を吐く。

 夕瑛は床に落ちた外套を拾いながら、心配そうに主のようすをうかがう。彼女がここまで自棄じみているのは珍しい。声をかけるのを控えることにし、外套の埃を払い衣装掛けに掛ける。

 朱華は襟巻きを解き、夕瑛に渡す。それを受け取りながら、女官はその手を止めた。


「これは姫さまのものではありませんわね」


 今朝、朱華は襟巻きをしていかなかったし、それは見覚えないものだった。

 朱華ははっとしたように顔を巡らせ、しまったと片手で顔を覆った。


「……枳月殿のものよ」

「……」


 言葉こそないものの、乳姉妹の顔は十分意味ありげだった。その表情を見て、朱華はいらぬ詮索を招いてしまったことに、また溜息をついた。


「やはりね、日陰は少し寒かったのよ。それで気を利かせて下さったの、あなたのためにもね」

「私のため、ですか?」


 夕瑛はきょとんと反問した。


「今朝の私たちのやり取りを聞いておられたのでしょう。あなたが『私のために』暖かい格好をするように、私に言っていたでしょう」

「――ああ、あれでございますか」


 朱華は疲れの混じったようすで説明し、夕瑛はそれではじめて朝のことを思い出したようだった。感心したように呟き、受け取った襟巻きを見つめる。毛皮で作られたそれは、特に高級なものではないが、丁寧に手入れされている。


「……なんといいますか、細やかなお気遣いをなされるお優しい方ですね」


 衣装を手入れするブラシを手に、その襟巻きの毛並みを整える。朱華はそんな夕瑛を見ながら、「そうね」とぶっきらぼうに呟き、肩をすくめた。


「……姫さまはそうはお考えになられないのですか?」

「――いいえ、夕瑛の言う通りよ―……誰にでもお優しい殿方なのでしょう」

「……それは、良い意味ではなく仰っておられますか?」

「――いい意味でしかないでしょう」


 鼻を鳴らすように皮肉げに言い放つ主人に、夕瑛は眉を顰めた。


「姫さま、いったい何がございましたの?」


 夕瑛は茶の支度にとりかかる。朱華は答えずに溜息をついて見せるのみ。女官は仕方ないと言いたげに肩をすくめ、温かい湯気の立ちのぼる茶器を彼女の前に置いた。


「お疲れでございましょう。一息おつきください」


 朱華はぼそっと礼を言って茶器に手を伸ばした。そして、一口飲むと肩を落とした。


「……姫さま、お怒りの因は霜罧殿? それとも枳月殿ですか? できることでしたら、お一人で抱え込まずにお話しくださいな。私はそのためについてまいったのですから」


 そう話しかけながら、朱華の肩にそっと触れる。乳姉妹の両肩は岩のようにかたくなっていた。


「これではご気分がよろしいわけがございませんわね。頭痛などございませんか?」


 最初はそっと柔らかく触れ、徐々に力を増していく。それにつれて、朱華の体の強張りがほぐれていく。


「まだお辛いところはございますか?」

「……だいぶ楽になったわ、ありがとう……それからごめんなさい。八つ当たりだったわ……」

「謝っていただかなくてよろしいのですよ、私にだけは」


 夕瑛は笑いながら囁いた。朱華は答える代わりに、肩を揉んでくれる彼女の手に自分の手で軽く触れ、肩を落とした。


「まだまだだめね、私は。この程度のことで」

「この程度の、ことなのですか?」

「……」


 朱華は答えない。細い肩に触れている指先から逡巡が伝わってくる。夕瑛は指先を滑らせ、次は首に触れた。こちらもかちこちに強張っており、指先がわずかに沈んだだけで、朱華は痛みのあまり息を飲む。


「お可哀想に、こちらも酷いですわね」


 夕瑛はわずかに顔をしかめながら首筋をさすっていく。


「今日は寒うございましたからね、襟巻きをお借りできたのはよろしゅうございました」

「……後で返しておかなければね」

「私がお返ししておきますが……どうなさいます?」


 夕瑛の問いかけに返事はない。迷っているようだった。夕瑛は指先に力を込めた。朱華がまた息を飲む。


「朱華さま、ご存知だとは思うのですが……」

「あなたまで勿体ぶるのはやめて頂戴」


 朱華の苦情に、夕瑛は「承知しておりますよ」と笑う。


「私にとって最も大切な方は姫さまですから。姫さまのためでしたら、実家も兄も切り捨てられます。なんでも致します。私だけは最後まであなたの味方ですから、姫さまがなにをなさっても」

「……どうしたというの? 藪から棒に」


 突然の夕瑛の独白めいた言葉に朱華は驚いた。夕瑛は微苦笑する。


「きちんとお伝えしておきたいと思っていただけです……近頃、お疲れもおありでしょうけれど、お一人でなにか抱え込んでいらっしゃるようですし。無理強いするつもりは毛頭ございませんか、私だけはどんなことでも信頼して下さって大丈夫ですから」

「……明柊めいしゅうと共に国を裏切った乳兄弟のようなことでも?」


 あえて不穏当な例を引き合いに出してくる朱華に、夕瑛は勿論と頷く。朱華は苦笑した。


「そういう時は、まずあなたが私を説得すべきでしょう」

「説得するくらいなら命がけでお諌め致します。けれど、その理由が納得できるものでしたら、私はお伴します、どこまでも」

「国を裏切っても?」

「当然ですわ」


 澄ました顔の乳姉妹を振り返り、朱華は呆れたようだった。


「乳姉妹というものはそういうものでございましょう。霜罧殿のお父上は、王配殿下の文字通り命がけで身代わりをなさった。私はずっとそういうものだと思ってきました」

「私にはそこまでの価値はないわ」

「おそれながら、朱華さまは私の姉にして妹のようなお方。一番の理由は親愛の情でございますよ」

「それなら私だって理由は同じでしょう、あなたに私の身代わりなど」

「姫さまと私は立場が異なります。姫さまは愛情がおありなら、私に自分の代わりに死ぬこともお命じにならなければいけません」

「そうかも知れないけれど……そのようなことこそ私は望んでいないわよ」


 朱華は振り返って主張する、夕瑛は苦笑いする。


「それはありがたいことですが、姫さまは上にお立ちになる方です。非常時には他者の犠牲も必要と割り切る非情さは必要かと」

「……分かっているわ」


 朱華は溜息をつき、椅子の背にもたれた。


「けれど、私はあなたに一方的に尽くして貰うばかり。あなたには私に尽くす甲斐があるの?」

「それに見合うとお思いなるだけの行動をお取りくだされば、私はたいへんお仕えする甲斐があります……それに、私の実家にも益はございますよ。実際、冷や飯食いの次男で終わる予定だった兄にも、他家との養子縁組のお話がきております」

「けれど、地方の中下級貴族でしょう? 家格はずいぶん落ちるのでは」


 夕瑛の実家であるかん家は中級貴族とはいえ、中央に勢力もつ。地方の中下級貴族となると、その勢力はその地方に限定的なものとなり、家格も劣ることとなる。


「一生冷や飯食いよりは、ずいぶんとありがたいお話ですわ。坩家が苴州に繋がりを持つことも出来ますし」

「――見返りもなく乳母めのと役に着くわけはないわね」

「ええ、ですからご安心ください」


 夕瑛の物言いに、朱華は微苦笑した。


「……けれど、明柊の乳母役を務めたれい家は取り潰し、男子は悉く処刑されたと聞くわ――そんな結果になると分かっていても、あなたは私の暴走に付き合える?」

「姫さまの暴走ですか? それほど大掛かりなことのできるお方とは思いませんが――失礼を」


 揶揄するような夕瑛の言葉に、朱華は鼻先で小さく笑う。


「そうね、私の暴走といえばせいぜい霜罧相手に自制心を失うことくらいかしらね」


 朱華は自虐的に呟く。夕瑛は曖昧に微笑み、主の髪の間に指先を滑り込ませ、頭皮を揉み始めた。朱華はそれに心地よさそうに息を吐く。


「――こんなことを申し上げていいのかどうか、ですが……」

「私相手ならかまわないでしょう」


 先ほどまでの応酬を蒸し返すように、朱華が先を促す。


「……何故、明柊さまというお方はあのような企てをなさったのでしょう」

「――それは、自分が東葉の王位を手に入れるためでしょう」


 今更何を言い出すのかと言いたげに、朱華が呆れたように応じる。


「それにしてはおかしくございませんか? 先の内乱の時、明柊さまは陛下にお破れになった直後に翼波を引き入れているのです――まるで、ご自分が負けることを承知しておられた……もしくは予め負けるおつもりだったのではないでしょうか? そうでなければ、ご自分が支配したい東葉に翼波を招き入れるような真似はなさいますまい――いえ、それもおかしゅうございますね。戦に負けてから翼波と通じたにしては、翼波の侵入が早すぎるように思います。」

「それは、自分が負けた際には翼波の力を借りて、最終的な勝利を得るつもりだったのではないかしら。翼波には見返りを約束しておけばいいわけだし」

「けれど、明柊さまは侵入した翼波が雪を機に引き上げると同時に葉から去り、そのまま、でしたわね?」


 夕瑛の問いに、朱華の眉間に皺が寄る。


「……確かに、その後、翼波が明柊を旗頭に攻め込んだという話は聞かないわ……いったい、なんのために翼波を引き込んだのかしら?」


 夕瑛の指先の力が増し、朱華は心地よい痛みに目を閉じた。


「なんだか、おかしい気が致しません? 納得がいかないと言いますか……」

「――そうね、すっきりしない」

「それで、考えたのですが――明柊さまは結局何一つ得ておられないわけなのですよね」

「――それは敗者なのだから、仕方ないことでしょう」


 すべて得るか失うかの博打じみた反乱を企て、敗れたのだから当然ともいえる。


「その点はそうですわね」

「……他に視点があるの?」

「もし、あの内乱が起こっていなかったら、どうなっていたでしょうか?」


 夕瑛の疑問に、朱華は目を見開く。


「父上が“葉”の王として東西を統一され、母上は形ばかりの女王となり――私たちが生まれて、姉上が次のお世継ぎという結果には変わりないのではないかしら」 

「けれど、随分と事情が変わってしまうのではないでしょうか?」

「あの内乱がなければ……あれだけの人の死はなかった」


 朱華は翠華で目の当たりにした数々のことを思い出していた。


「ええ、そうですわ――あの時、東も西も多くの貴族が粛清されました……私の祖父もそうですが……だからこそ、東西の葉共通で皆の憎しみは明柊さまお一人に集まった」

「――だからこそ、統一が円滑に進んだとも言えるかもしれないわね……百年近く争ってきたのだから、お互いに確執は深かったでしょうし……そういう場合、共通の敵の前に団結するというのは有効な手段には違いない……」


 そこまで言葉にして、朱華は愕然としたように夕瑛を振り返った。


「――まさか、そのために?」

「……まさか、とは思いますが――けれど、何事も今となっては推測にすぎません」

「……けれど、そのために苓家はつぶされ、一族は処刑――それが分かっていて、協力する?」


 朱華は理解できないと言いたげに、夕瑛に水を向ける。夕瑛は切れ長のやや鋭い主の目を見つめながら、小さく頷いた。


「そういうことでしたら、そうするかもしれません」

「――まさか、馬鹿げている」

「馬鹿げてはいますが、そういう結果をあなたがお望みになられるなら」

「けれど……」

「先ほども申し上げましたが、私はどこまでもお供いたします――それだけのことです」


 朱華は大きく息を吐くと、また前を向いて肩を落とす。夕瑛は中断していた頭部への按摩を再開した。連日の馬での移動もあってか、彼女の頭皮は随分と強張ってしまっている。それをほぐすことに専念していると、やがて朱華が重い口を開いた。


「あなたに話していないことがあるわ――特に、枳月殿のことで」


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