第4章 9
泉の跡のある庭で一息ついた後、隊長は朱華に問いかけた。
「王城は広うございます。まだ他もご覧になられますか?」
朱華は空を見上げた。陽の高さから時刻はまだ昼前くらいかと思われた。
「時間の余裕は?」
「今日は他にご予定はありませんので、ご希望でしたら夕刻まで大丈夫です」
朱華は、今日の予定を変更して供をしてくれているかもしれない枳月を見た。
「枳月殿のご予定はいかがでしょうか?」
話を振られるとは思っていなかったのか、枳月の反応は遅れた。朱華の物問いたげな視線に気づくと、慌てたように応じる。
「特にありませんので、公の思われるようになさってください」
「お戻りにならなくても大丈夫なのですね」
念を押す朱華に、枳月ははっきりと頷いた。
「では、もう再訪することはないかもしれませんから、ひととおり案内を」
「承りました」
隊長は恭しく一礼した。
最初、翠華は砦の一つに過ぎなかったという。砦が城となり、その規模を増していくに従い改築と増築が重ねられ、複雑な構造となった。籠城戦も想定されているため、さらにあちこちに仕掛けのような細工まであるらしい。
「よく覚えられますね」
隊長について歩きながら、朱華はとっくに戻る道を見失っていた。若い隊員も王城の深部となると把握しているものが少ないため、隊長自らが先頭に立つ。彼は王城内をほぼ把握しているようだった。
「昔は城に上がることもできない身の上でしたが」
彼は朱華の感心したような言葉に、彼は振り返ると穏やかに笑った。
今でも王城に上がるには一定の身分が必要となる。当時、彼が一兵卒に過ぎなかったならそれも仕方ないことであった。が、二度にわたる翠華を見舞った戦禍により、その後処理をするため城下のみならず王城内まで把握することとなった。その経験を買われ、翠華の巡察を含む街道警備に任じられたのだ。
「街道警備の任についてからは、年に数回はここを警邏していますので」
年に数回程度の訪問で記憶できるものだろうか、と思うような複雑さだった。
区画のための塀には門が設けられている。どれもこれも特に特徴はなく、門扉はとうに失われているため、朱華にとってはすべてが同じ入り口のように見える。
それでも彼は迷うことなく進んでいく。要所で要所での説明も怠らない。どこもここも、あるのは荒れ果てた光景となにかの残骸のみ。説明がなければ往時を想像するのは難しいような有様だった。
「こちらは東宮の裏の庭園になります」
そこは荒れた庭だった。枯れ果てた木々の茂みの陰には、泉でもあったのだろうか、一段と低い場所に湿った土と枯れ葉が溜まっている。風が吹くと落ち葉が転がった。
庭の片隅には四阿だったと思われる建物が残っていた。夏にはちょうどいい日陰になりそうだが、冬という季節と荒涼とした眺めはいっそう寒々しいものだった。
朱華は吹き抜けた風に、思わず首をすくめながらあたりを見回した。背後に見える建物が東宮だったのだろう。
「……ここで父上がお暮しだった……」
朱華は小さく呟いた。父が二十一歳の時に内乱が起こった。その直前まで、彼はここで暮らしていたのだ。それは知識としては知っていたが、その場に立ってみるとなんとも言い難い気持ちになる。ここはすでに廃墟で、もう誰も住む者はいない。
「人が住まなくなるとこうなるのですね」
気が付くと、隣に枳月が立っていた。彼は視界を遮る前髪を耳にかけ、火傷の残る方の横顔を朱華に晒していた。傷の惨さよりも、その眼差しに視線は吸い寄せられる。そう何度も彼の素顔を見たわけではないが、今日はいつもとは様子が異なっているように感じられた。
朱華とて生まれてはじめて内乱と翼波侵入の戦禍を目の当たりにし、心はざわつくばかりだ。霜罧の、一度は目にしておくべきだという主張はよく理解できる。百聞は一見に如かずとは言うが、それをこれほど実感したことはない。
それでも、本当の当時の惨状までは分からない。どうしても他人事のような、肌で触れるような現実感までは伴わない。
だが、枳月はそれを超えようとしているようにも見えた。張り詰めた雰囲気で、なにかを探るように懸命で真摯な眼差しを注いでいる。それはただの過去へ想いを馳せているだけのようには見えない。
「――枳月殿?」
朱華は彼の集中を乱すことに躊躇いながらも、あまりに切迫したようすに思わず声をかけてしまった。
囁きのような遠慮がちな声は、枳月の耳に届いたようだった。彼はぴくりと肩を震わせ、ゆっくりと彼女を見た。まだ集中していたの名残が残っているのか、朱華に焦点はあっていないようだった。彼の顔はむしろ無表情と言ってよかった。そのくせ、朱華のその次の声を奪うなにかがあった。
「……いかがなさいました、姫?」
問いかけるつもりが、反対に問い返され、朱華は言葉を失ったまま赤面した。枳月は注意を引き戻されたようで、物問いたげに朱華の顔を見つめている。朱華は必死に言葉を探したものの見つからず、結局面を伏せた。
「なんでもありません」
「……それなら良いのですが……」
俯いてしまった朱華に、枳月もそれ以外の言葉が見つからなかったようだった。
特に理由はないものの微妙な雰囲気になってしまったのを悟ってか、枳月は困惑したように視線を動かした。その視界の端に四阿が引っかかった。枳月はそれに気を取られたのか、そちらへ歩き出す。朱華もそれに気づいた。意識せぬままその後に続いていた。
四阿には大理石の円卓と椅子が残されていた。さすがにこれまでは持ち去れなかったのだろう。床にも卓上にも座面にも砂や埃が降り積もり、片隅には枯れ葉が吹き溜まっている。
枳月はしばらくそれを眺めていたが、なにを思ったか、突然四阿に立ち入ると椅子の座面を自分の手で払い清めた。
「枳月殿?」
「少しお休みなりませんか?」
驚く朱華に、枳月は椅子に腰かけて休憩するよう勧めてきた。
「けれど……」
朱華は躊躇った。それを遠慮したように受け取ったのか、枳月はちらりと笑みを見せた。
「では、私も休ませていただきますので」
そう言って、彼は汚れたままのもう一つに椅子に腰かけた。
朱華は戸惑いながらも礼を言って、その隣に腰かけた。石造りの座面のひやりとした感触がじわじわと伝わってくる。
四阿は柱のみで四方の壁がない。一瞬強く吹いた風に、朱華は首をすくめる。外套の襟を立てて首を埋めるようにすると、隣で枳月がごそごそと動いた。かと思うと、ふわりと朱華の首に暖かなものがかけられた。突然の温もりに、朱華は驚いて顔を上げる。
「お寒いでしょう、宜しければお使いください」
枳月が自分の首巻をといて、朱華の首にかけたのだった。咄嗟のことに応じられない朱華にかまわず、彼は彼女の首にかけた襟巻をもう一重巻いてやり、その端を簡単に結んでやった。
「無いよりはましでしょう、私の物で申し訳ありませんが」
枳月は優しく話し、柔らかく微笑した。惨い火傷の跡も露わなままだったが、朱華には気にならなかった。それよりも呆気にとられたように黙り込んでいたが、無意識に指先が首巻に触れるとようやく我に返る。
「……けれど、これは……」
「お風邪を召してはいけません。女官殿のためにも」
出がけの夕瑛とのやり取りまでを引き合いに出されては、朱華にも断り切れない。
「ありがとうございます」
朱華はおずおずと礼を言うのが精一杯だった。
四阿に二人が腰を落ち着けたのを見計らい、隊長はここでの休憩を提案した。陽は中天にありちょうど昼時でもあった。朱華に否やはなく、枳月と並んでそのまま昼食をとることになった。
朱華や枳月の昼食は若い隊員が支度してくれた。簡素な食事をとりながら、革袋に入った水を飲む。空腹は感じていなかったが、いざ口にしてみれば食は進む。
四阿にも斜めに冬の日が差し込み、朱華の足元を温めてくれていた。枳月が巻いてくれた首巻に顔をうずめるようにしながら、朱華がぼそぼそと口を動かしていると、枳月が話しかけてきた。
「少しお疲れになりましたか?」
朱華は慌てて口の中のものを飲み込んだ。
「すみませぬ、まだお召し上がりでしたか」
「……いえ、もう終えました」
そう言いながらも、朱華は革袋の口をあけ、一口水を含んだ。無作法には違いないが、喉が痞えそうだったのだ。そんな彼女の行動に、枳月は申し訳なさそうにしている。
「まだ大丈夫です――お気遣い、ありがとうございます」
朱華は笑みを浮かべて見せた。
正直なところを言えば、多少の疲労感はある。いざこうして腰かけてみると、思っていたよりも足に痛みや重さが生じていた。だが、それを口にするわけにはいかなかった。
笑んだ朱華の表情にはかすかに疲れが滲んでいたが、枳月はそれには触れなかった。
「……ひ、公は翠華をご覧になられて如何思われましたか?」
枳月が未だに自分を「姫」と呼びそうになることに気づき、朱華はひそかに微笑した。
「――如何と言われてもなんとも……ただ、霜罧が一度訪ねておいた方がいいと言っていた意味は分かったように思います」
未だに考えは纏まらないが、素直な思いと言えばこれにつきた。朱華の言葉に枳月は頷いた。
「確かに仰られる通りです。翼波の侵入を許せばどうなるか――もう二度と斯様な真似をさせるわけにはいきません」
枳月の静かな言葉には、決意のほどがうかがわれるようだった。
翼波に攫われ、そこで育ち、やがて逃れてきたという彼は、いったいかの地でなにを見、なにを感じてきたのだろう。顔だけでなく全身に及ぶというその傷跡が、未だに疼くこともあるのだろうか。翼波を憎むというなら、彼ほどその憎しみが深くてもおかしくない人物はいない。
そして、朱華との縁談を拒むその理由。そこにも翼波が関係するのだろうか。
何が、彼にとっての“悪夢”なのだろうか。
「そうですね――そのためにもお力添えを」
「……命に代えましても」
枳月は小さいがはっきりと言い切り、承るように浅く頭を下げた。
朱華はその言葉に嘘はないと感じていた。朱華の縁談を馬鹿正直にも真正面から断り、気まずい間柄になってしまっても、「助力したい」という言葉どおりの態度は示している。良くも悪くも、何事に対しても誠実であろうとしているのは分かる。
朱華は襟巻に顔をうずめるようにして、そのぬくもりを確認する。
彼の気遣いの数々や行動から、彼のいう“悪夢”が自分との縁談だとは考えにくい。少なくとも“悪夢”と言われるほど毛嫌いされているとは思えなかった。けれど、おそらくそこまでだろう。
彼は常に控えめて、誰に対しても丁寧な態度で接する。心根が優しいのだろう。そして、それはおそらく誰に対しても。
襟巻の温もりは、朱華には少し寒いようにも感じられた。




