第4章 8
王城の城門は扉こそ失われていたが、建物としては残っていた。枯れた蔦が這い荒れてはいるが、崩落の危険性は感じられない。東葉の建築技術はしっかりしたものだったのだろう。
城門を抜けてすぐのところは広場になっていた。石畳の隙間から草木が生え、それすら枯れた今では荒涼とした風景となっている。
広大な広場を抜け、階段を上って城内に入る。石造りの城内は広かった。が、その内部にはなにも残っていなかった。あちこちに蜘蛛の巣が張り、埃が分厚く積もり、なにかの糞と思しきものが転がっている。
燃えた後と思しき、壁の焦げ跡や、焼け残った家具の欠片などは無数に散らばっている。
「西葉によって破壊され、翼波に略奪し尽されたため、当時すでに本当になにも残っていませんでした」
建物のあちこちで説明しながら、彼は時折当時の記憶をまじえて話す。朱華はそれに頷くのみで、ほとんど言葉を返すことはなかった。彼女の傍らから離れない枳月も、表情こそ見えないものの、熱心に耳を傾けているのは伝わってきた。
朱華はあちこちで見かける、床の黒ずみが気になっていた。廊下の一角で足を止めた朱華の視線の行き先に、隊長も気づいたようだった。
「――それは人の血の跡ですよ」
穏やかだが、沈鬱な声で囁くように彼は説明する。
朱華は肩を震わせ、まさかと問うように、彼を見上げた。
「……え、けれど、もう二十年以上……」
「ここは屋内ですから、雨などで洗い流されることはありません――いずれも誰かが殺害された跡です」
温室に山と積まれた遺体だけでなく、彼らが命を奪われた跡も、場内のいたるところに残されていたのだ。その跡を洗い流すこともないまま、翠華は棄都されたのだ。
朱華は目の前の水たまりの跡ような黒ずみを、息を詰めて見つめていた。いったいここで殺されたのは誰だったのだろうか。それを知るものはいない。朱華の知る人のうちに、被害者の血筋に連なるものはいるのだろうか。
建物に入ってからここまでの間に、どれだけの黒ずみを見かけただろうか。
その廊下の一角から建物を抜けるまでの間にも、どれだけ見かけたかしれない。朱華は数えることはしなかった。とてもそんな気にはなれなかった。それではいけないのかもしれないと思いながらも。
途中の広間では、ここで朱華の祖父である東葉王が殺されたと聞かされた。そこでは本来であれば、朱華の両親の結婚式が行われるはずだったのだ。
青ざめた顔で唇を噛みしめ、食い入るように荒れ果てた空間に見入っていると、そっと袖を引かれた。
「失礼、公――声をおかけしたのですが……」
袖を引いてきたのは枳月だった。袖から手を放し、遠慮がちに声をかけてくる。朱華ははっと我に返った。朱華が声をかけられても気づかないので、仕方なく彼は袖を引いたのだろう。
「……考え事をしていて……」
「そのようですね――唇に傷が……血がにじんでいますよ」
そう言いながら、枳月は自分の手巾をさしだしてきた。朱華は慌てて唇に触れると、小さな痛みと共に指先には血がついていた。唇を噛みしめている間に傷になってしまったのだろう。
「これをお使いください」
押し付けるようにして、朱華に手巾を持たせる。前髪の分け目から除く片方の目は、痛ましそうに朱華の口元を見ているようだった。反射的に彼の手巾を受け取ったものの、自分の物もある。けれど、その視線に返すわけにはいかなかった。
「ありがとうございます」
素直に礼を言い、そっとした唇に押し当てる。鈍い痛みに思わず眉を顰める。
「――ご気分は大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です……ただ、なんといっていいのか……」
溜息交じりに視線を落とす。翠華に近づき始めたころから感じているものを、どう表現すればいいのか、朱華には分からなかった。
「……これが、翼波と――明柊という男のしでかしたことなのですね」
彼にしては珍しく感情の滲む声だった。朱華はそれにつられたように顔を上げる。
あたりを見上げるように顔を上げたため、前髪が横に流れ、彼の横顔が露わになっていた。その険しさと、なんともいいがたく張りつめた表情に、朱華は視線を奪われる。
過去へと思いをはせているというようなものではなく、まるでそこにあるもの全てを記憶に刻み込もうとしているかのようだった。ひどく張り詰めた雰囲気に気圧され、朱華には声をかけることもできない。唇の痛みもどこかへいってしまった。
彼はゆっくりとあたりを見回すと、最後にぐっと歯を食いしばったようだった。よく見れば、両手も固く握りこんでいる。まるで何かに耐えているかのようだった。
そんな様子に目を離せない朱華に気づくと、彼ははっとしたようだった。戸惑ったように目をそらし、それから何故か微苦笑を浮かべた。それはとてもやりきれないもののように、朱華の目には映った。
「行きましょう、姫」
彼は彼女を“姫”と自分が呼んだことには気づいていないようだった。朱華も訂正することを忘れ、小さく頷いた。
建物を抜けると、奥庭らしき空間に出た。中央には枯れた噴水の跡があり、水の代わりに枯れ葉や土埃が溜まっていた。
朱華はそこで足を止めていた。ふっと父から聞かされた話を思い出したのだ。
両親が初めて出会ったのは、翠華の王城の噴水のある奥庭だったという。夕星の煌めく黄昏時だったと聞いた記憶がある。
急に足を止めた朱華に、隊長と枳月も立ち止まる。
「いかがなさいました?」
枳月が遠慮がちに声をかける。
「ああ、ごめんなさい――急に思い出したもので」
「失礼ながら、公がこちらを訪問なさるのは初めてでは?」
隊長の言葉に、朱華は薄く苦笑いした。
「ええ、そうです――父と母が初めて出会ったという場所が、もしかするとここではないかと思って」
「……陛下が……」
元王女の言葉に、隊長は改めて物珍しそうにこの庭を見回す。
「違うかもしれませんが」
そう誤魔化しながらも、初めて訪れた場所に懐かしさにも似た感情を覚える。それから、何故、両親はこのような場所で出会ったのだろうという疑問がふと浮かんだ。
婚礼が行われるのは、先ほど抜けてきた広間のはずだった。普通なら婚礼の席ではじめて顔を合わす筈ではないか。そうでなければ、屋内のいずれかの一室で。一国の王太子と王女ともあろうものが何故、このような庭の一角で顔をあわせたのか。
急に難しい顔であたりを見回しはじめた朱華に、枳月が気づく。
「なにかお気になることでも?」
「いえ、そういうわけでは――」
朱華は案じるような枳月の声に慌てて首を振ったが、一度湧き上がった疑問は消えるものではない。
「……ただ、もし本当にそうだとすれば、何故、二人はこのような場所で? と……婚礼の日に会ったそうだけれど」
その前後の詳しい話は記憶に残っていない。父は、自分が母に一目ぼれだったという話を、娘相手に照れることもなく語る人だった。そういう時、母はひどく嫌がったものだったが。
「――婚礼には陛下ではなく、身代わりの女性が臨んだと聞いていますが」
横から隊長が補足してきた。朱華は「ああ」と小さく呟いた。
「そういえば、母は父と翠華から逃れ、翠華にはその女性が残ったのでしたね」
記憶に片隅に残る程度の断片だった。
「はい、当時はその方が“青蘭姫”だと思われていました。だからこそ、苓公もその女性を妻とされたのです」
「……確か、母の従姉に当たる方だとか――そういえば、その方は今はどうなさっているのかしら……お亡くなりに?」
朱華は答えを探すように、隊長と枳月の顔を見比べた。隊長は首を振り、枳月はこちらを見ているのかどうかも分からなかった。
「お聞きしたことはありません――が、確か、お名前は雪蘭殿と仰られたかと」
「名に“蘭”の一字をお持ちなら、西葉の王家に関わる方であったに違いないわ」
女王の身代わりとして、延いては西葉を守った女性として、当時その名は広く知られた。が、その後については朱華すら知らない。




