第4章 4
翠華の巡察は街道警備隊主導で行われることになった。出発の準備が整えられる間、朱華は夕瑛に身支度を手伝ってもらうために寝室に戻った。
珂瑛は食べ終えると姿を消し、食堂には霜罧と枳月が残された。他にも一行の者たちが盛んに出入りしているため二人きりではないが、その一角で朱華を待っているのは彼等だけだった。
「……枳月殿下、姫のお供なら他の者でも構わないのですよ、王族であるあなたがなさらずとも」
霜罧はまだその件に拘っている。枳月は食卓の向かいの席に座った彼に視線を向けた。
「お気遣いはありがたいですが」
言葉少なに彼の提案を拒む。霜罧はわずかに眉根を寄せた。
「翠華のことはお聞き及びでしょう」
「聞くだけなら聞いていますが……他に何か?」
枳月は俯き加減だった顔を上げた。今日は前髪を下ろしている。出立の日だけは髪を上げていたが、それ以降は以前にも増して顔を隠そうとしているように、霜罧には思われた。その前髪の間から見える目は、霜罧を訝しむよりも何かを確認するかのようだった。
「……あなたを保護したのは私の父でした」
霜罧は思い切ったように切り出した。表情は至って穏やかだが、その口ぶりは慎重だ。枳月は指先一つぴくりとも動かさない。ただじっと、霜罧を静かに見つめている。
「そうでしたね――それが、何か関係が?」
「……関係ないと仰るならそれでかまいません」
霜罧はそれ以上言及するのはやめた。枳月は視線を彷徨わせるようにわずかに首を動かし、呟くように返す。
「私とて、一度は翠華を訪れてみるべきでしょう」
「そうお考えになられるなら、それでよろしいですが」
霜罧はこの件はこれで終わりに、と言外に匂わせながら、頷いた。それは枳月も同感だったようで、この話題はそこで終わった。
暫く沈黙が続いたが、朱華はまだ寝室から出てこない。
枳月は食卓の上で組んでいた指先を組み替え、霜罧に改めて向き直った。
「霜罧殿、これを機にお伝えしておきたいことがあります」
「――なんでしょうか?」
自分から話を切り出しておきながら、枳月はしばらく黙り込んだ。話を続けることに迷っているというより、言葉を選んでいるようだった。
「……私は姫とは結婚できません――いえ、その、誰とであれ結婚する資格はないのです」
その理由を霜罧は承知しているのではないか、と問いかけるような響きも含まれている。霜罧はそれを肯定するかのように、驚いたようなふりはしなかった。
「それを姫には?」
「もうお伝えしてあります」
枳月は淡々と答える。霜罧は合点がいったというような表情で、主の寝室の方へ視線を滑らせた。以前、四阿で朱華と夕瑛の話を盗み聞ぎするという醜態を晒してしまったが、その時の原因はこれだったのだろう。
「その理由も姫にご説明を?」
「……それはしていません」
言いにくそうにする枳月に、霜罧は苦笑した。
「姫は納得なされなかったでしょう?」
「話さなければ容れないの一点張りです」
「けれど、殿下もお話しなさる気はない、と?」
枳月は黙して答えなかったが、それこそが答えも同然だった。霜罧はふっと愉快そうに口元を歪めた。
「何故、その話を私に?」
「……お話しておいた方が良いかと」
「――殿下に遠慮する必要はない、とでも?」
霜罧は揶揄するように呟き、嗤笑った。朱華にも見せたことのないような類の笑みだった。枳月はそれに反応はしなかった。
「違いますか?」
霜罧の隠す気もない嘲りを、枳月は気にも留めていないようだった。
「……あなたに譲って頂かなくても結構ですよ。他人を莫迦になさるものではない」
霜罧は朱華以外には珍しく、咎めるような厳しい顔をみせた。枳月は少し慌てた様子で、「そのようなつもりは……」と抗弁した。
「姫には姫の御意志がおありになる。それは私も同様です。殿下も同じく……譲って頂かなくとも私は私の意志で動きます。遠慮などするつもりはない。あなたが拒んだところで、もし姫のお心がいったん傾けば、当人であっても止められるものではない。それを受け入れるかどうかは枳月殿下次第。その理由をはっきりとお明かしになれば、姫もご納得なさりやすいかもしれませんが……」
霜罧はちらりと枳月を一瞥する。
「……それだけはできません」
「それでも姫にご尽力を願われる理由があるのですね?」
枳月はまっすぐに霜罧を見た。彼が何を何処まで知っているのか探るような眼差しだった。霜罧にそれに応じるつもりはない。
「……頂いた恩には報いたいものですから」
「……恩、ですか。陛下がそのようなことをお望みとは思いませんが」
霜罧が独り言のように呟いたところへ、朱華が戻ってきた。
「枳月殿、お待たせしました」
毛皮で裏打ちした外套を羽織り、帽子を耳が隠れるまで深く被った着ぶくれた状態で朱華は現れた。
枳月はさっと立ち上がり、一礼する。朱華は彼の出で立ちを見て、夕瑛を振り返った。
「夕瑛、やはり私は着込みすぎではない?」
枳月は外套こそ腕にかけているが、王都を発った時と同じ服装だった。
「雪も止んだようだし」
「また降るかもしれませんよ。道中で寝込んでいただくわけにはいきませんから。姫さまのためではなく、私のためにこのままお出かけください。私はご一緒できないですし」
「ならば、夕瑛も馬に乗れるようになればいい」
朱華がいいことを思いついたとでもいいたげに女官を見る。乳母子はため息をついてみせた。
「それは私も考えていました。が、今は無理ですからお聞き分け下さい」
「人聞きの悪いことを。私は我儘はあまり言っていないつもりよ」
「そうでしたね、申し訳ありません」
夕瑛は口先だけ詫びながら、朱華の背を押した。
「枳月殿下や街道警備隊の方々をお待たせしているのですよ」
「そうだったわね――では行きましょう、枳月殿」
賑やかに娘二人で囀ったかと思うと、くるりと振り返った朱華は生真面目に表情を正していた。枳月はその落差にわずかに微笑んだ。
朱華が颯爽とした足取りで食堂を出、それに枳月が続く。
「では、枳月殿下、公のお供をよろしくお願いいたします」
いつの間にか立ち上がっていた霜罧が、食堂を出ようとした枳月に声をかけた。穏やかに慇懃に一礼する彼に、枳月も目礼で返し、朱華の後を追う。
その場に残された霜罧は、中庭で少年の従者が朱華に駆け寄るのを見守るように眺めていた。
「気になりますか?」
横から声をかけてきたのは夕瑛だった。女官の存在を忘れていたわけではなかった霜罧は、驚いた様子もなく振り返り、曖昧な笑みを浮かべる。
主人が身に着けるのを拒んだ毛皮の襟巻を手に、女官は内心を窺わせない表情で同じく苴葉公を見つめていた。
「どうなのでしょうね――この先々で一々気にしていては切りがありませんしね」
霜罧は淡々と落ち着いた声で応じると、では、と目礼して食堂から出て行った。
夕瑛は小春日和を思わせる外の容子に、「やはり襟巻までは不要だったわね」と呟き、自分の仕事に戻っていった。




