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雪の陰翳  作者: 苳子
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第4章 2

 出立の日に降った初雪はその後も続いた。

 行程の妨げとなるほどの大雪ではなかったが、日が差すと雪がとけ、泥濘となって一行の足を遅らせていた。

 馬上の人となった朱華は、常に落ち着かない気分で手綱を手にしていた。通常、王女が騎乗するなど有り得ないことだが、もはや表向き自分は王族ではなく、しかも王統家の当主なのだ。それを大々的に知らしめる意図もあって、朱華は手綱を握る羽目になっていた。

 休憩になると、心底ほっとした顔をするので、夕瑛は密かに苦笑していた。

 下馬の際にも体が強張ってうまくいかず、他人の手を借りなければならないことも度々で、朱華は不甲斐ない想いを噛み締めていた。

 この日も昼食のため、街道警備隊の駐屯所に寄ることになっていた。各王統家も都との往来の際には、駐屯所を利用する。

 ただし、朱華たち一行は人が多すぎるため、全員が駐屯所を利用することはできなかった。溢れた者たちは近くの宿場町の食堂などを利用するか、自炊して凌いでいた。それでも、これで全員ではない。後日遅れて発つ予定の者や、生活が安定する頃にやってくるそれぞれの家族や家人けにんもいる。


 朱華は息をついてから、思い切って鞍の前橋を右手で掴み、右足の鐙を外した。鐙に足をかけたままの左足に体重をかけ、右足をあげて馬の背を越す。両手を突っ張って鞍をつかんで両足を馬の左側にそろえ、それから左の鐙を外す。最後に勢いをつけて着地した。

 鐙に左足がかかったままで下馬してしまい、片足を吊り上げられた状態で地面にひっくり返った記憶はまだ新しい。驚いた馬にそのまま引きずられ、あやうく大怪我をするところだった。気付いた枳月きげつがいち早く馬の手綱をとってくれたおかげで、少し引きずられるだけですんだが。それでも何ヶ所か擦りむく羽目になった。

 あまりの無様さにあたりはしんとなった。その時の居たたまれなさも未だに強く残っている。いっそ誰か笑ってくれれば、まだ救われたのだが。生憎新しい主人に遠慮してか、居合わせた者たちはなにも見なかったとでも言うように、視線を逸らした。

 あとで話を聞いた珂瑛かえいが笑ってくれたが、いかに危ないかという説教付きだった。同じようなことを、霜罧そうりんから皮肉たっぷりに言われた直後だったため、さらにげっそりした記憶も生々しい。


「姫、いかがなさいました?」


 枳月が声をかけてきた。下馬するなり放心して溜息をついた朱華を、心配そうにうかがい見ている。その手には、朱華の馬の手綱があった。

 朱華はまた自分の失態に気づく。下馬したらすぐに手綱をとらなければ、馬がよそへいってしまうかもしれないと、霜罧に注意されたのは昨日のことだった。

 騎乗の際は夕瑛せきえいはいない。女官たちは馬車や徒歩で移動している。

 従者はいるが、この程度のことは自分でするよう言われている。最低限の馬の扱いができなければ、非常時に困るのは朱華自身というわけだ。

 朱華は溜息を吐きそうになるのを堪え、枳月に向かって手を差し出した。


「枳月殿、申し訳ありません。手綱をとっていただき」


 枳月は「ああ」と呟いて、手綱を朱華に手渡した。朱華に渡った手綱は、じきに従者の手に渡る。慣れない騎乗と連日の長距離移動で、朱華の疲労は蓄積していく一方だった。基本的な馬の扱いについては、州に着いてからということで、霜罧と話はついてる。ただ、旅の途中で最低限必要なことは身につけることにもなっている。いつ何が起こるかわからない、ということは朱華も承知している。

 毒見役が体調を崩したり、新しいはずの鐙革あぶみかわが半分ほど切れかけていたりということが、ここのところ続いている。誰かが朱華の命を狙っているのか、それとも脅して苴葉そよう公を辞退させようとしているのか。定かではないが、自分の身は自分でも守れるようになるに越したことはない。朱華とてまだ死にたくはなかった。


「姫、ご気分がすぐれませんか?」


 ぼんやりと焦点の合わない目で、緩慢な動きをみせる朱華に、枳月が訊ねる。

 馬に引きずられて以降、朱華が馬を乗り降りする際には必ずと言っていいほど、彼が近くに控えてくれている。醜態をさらした気恥ずかしさはあるが、心強いことには違いなかった。

 朱華は従者に連れていかれる馬の尻を見送りながら、「いいえ」と首を振った。

 駐屯所の中庭には、馬と人が溢れんばかりだった。ごった返している。その喧騒に朱華の小さな声はかき消されてしまった。それに自分でも気づいた朱華は、隣に立つ枳月を見た。頭一つ分以上高いところにある顔は、鬱陶しい前髪に覆われている。わずかにのぞく片方の顔は、確かに彼女を気遣っていた。


「大丈夫です、枳月殿――それより、もう私は“姫”ではありません」


 朱華はもう王女ではない。王統家の女性を「姫」と呼ぶのは一般的だが、朱華の場合は王統家の子女でもない。他家同様、王統家の当主は「公」と呼ばれるべきなのだが、未だに「姫」と呼ぶものの方が多い。やはり女性の当主というものに馴染めないものの方が多いのだろう。朱華自身も馴染んではいない。


「……そうでしたね、失礼いたしました」


 枳月はすぐにそう詫びる。揺れる前髪の影に見える顔は、やはり誰かに似ているような気がする。それは父か、母か。彼が王族であれば当然という意見もあるが、彼と父は兄弟や従兄弟同士よりも遠い関係なのだ。それほど似るものだろうか。一方、母と彼の血縁は遠く、百年以上遡らなければつながらない。

 にも拘わらず、母は彼に親近感を抱いているようだった。娘ばかりの母にとって、彼は息子のような存在なのだろうか。幼い頃に翼波よくはに攫われ、後に半身に火傷を負った状態で保護されたという彼の身上に同情してのことなのだろうか。

 彼の“罪”とは、いったいなんのことなのか。いや、母は“彼に罪はない”と言っていた。では、誰の罪なのか。

 あれ以来、朱華は気づけばそのことばかり考えている。

 枳月は、朱華の夫にはなれないが、力にはなりたいという言葉通り、旅の当初から気遣いを見せてくれている。ありがたいことではあるが、同時に朱華の思考に堂々巡りをもたらしていた。

 朱華はそれを断ち切るように小さく頭を振った。


「枳月殿、食堂へ行きましょう――」

「姫、まだこちらでしたか」


 横から声をかけられ、朱華は反射的に眉を顰めた。

 振り返れば、足早に霜罧がこちらへやってくるところだった。その顔を見て、朱華は嫌な予感を覚える。近頃、彼はまた彼女に辛辣なときがある。一時は和らいだように思ったのだが、気のせいだったのだろうか。


「まさか、また馬に引きずられたのではないでしょうね」


 予感的中で、以前の失敗を引き合いに出して当てこする。ただし、以前のように嫌味を言って揶揄うよう気振りはない。また失態を仕出かしているのではないかと、荒さがしをするような素振りだった。


「残念ながら枳月殿がおられる故、そのような失態はもうしなくて済む」


 朱華は冷ややかに応じる。

 二人ともに同じことで朱華のことを気にかけてくれているのは分かるが、何故これほど態度が異なるのか。霜罧の尽力には感謝すべきであり、そういう気持ちも確かにあるが、それとこれとは話が別だった。


「枳月殿、食堂に行きましょう。無駄にしている時間はないわ」


 朱華はむんずと枳月の腕をつかみ、ずかずかと歩き出した。苴葉公に引きずられながら、枳月はあとに残された霜罧を振り返る。鬱陶しい前髪でその顔は見えないが、仕草から邪魔したことを詫びているようだった。霜罧は小さくため息を吐いた。

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