第3章 8
朱華は視線を巡らせた。役人たちが忙しそうに立ち働き、騒然としている。
「ここでする話ではなさそうですね」
「……はい」
枳月の前髪が揺れる。
かと言って、勝手知ったる場所ではない。夕瑛不在のため、人目につかないところで二人きりもまずい。
朱華が視線を彷徨わせていると、枳月がある方向を指差した。
「あちらは如何でしょう?」
窓の向こうに露台が見えている。人目にもつく。ただ、外は寒そうだった。
朱華は腕にかけていた外套を羽織った。枳月もそれにならう。
二人して移動しはじめたのを、霜罧が目で追っていることには気づいていなかった。
枳月が窓を押し開け、朱華を先に通してくれた。
いきなり冷たい風に吹き寄せ、前髪が乱れる。反射的に朱華は肩をすくめ、外套の前をさり気なく搔き合せた。
隣に少し離れて立つ枳月は、寒さに気づいてもいないような様子だった。
露台からは苴葉公邸の玄関先を見下ろすことができた。高く巡らせた石塀と、正面の門も堅固な造りをしている。すべては翼波との戦いを想定して造られている。翼波に国土を蹂躙された記憶はまだ新しい。
朱華はちらっと枳月を一瞥したが、彼が口を開く気配はない。先に自分から切り出しておいて、どういうつもりかという苛立ちを感じ、朱華は溜息を吐いた。
「で、お話とは?」
露台の手すりに片手をのせ、朱華は隣に立つ枳月を真っ直ぐに見つめた。枳月はその視線にたじろぐこともなく、見つめ返してきた。
「以前お願いした件です……お考えいただけましたか?」
朱華は漏れそうになる溜息を押し殺し、一拍の間を置いた。
「考えはしましたが、結論は変わりません。どうしてもと仰るなら、私が納得できるように説明してください」
また一からの押し問答になるのだろうかと、朱華は気が重くなる。
「理由はお話できません」
案の定、前回と同じ回答が返ってきた。朱華は今度はわざとらしく溜息を吐いた。
「それは前にもお聞きしました。だから私が納得できる理由を、とお願いしているのです」
「……」
自分から切り出しておいて、新たな回答を準備していなかったらしい。枳月は口を開きかけたが、結局言葉は出てこなかった。
「私がお気に召さないという理由でもいいのですよ」
朱華は苦笑いしながら水を向けるが、それにはのってこない。
仕方なく話を続ける。
「陛下からお話があった際、枳月殿に選択権はなかったのですか?」
「……そういうわけでは」
「では、ご自分の意志でこの話を受けられたわけですよね。にもかかわらず、今更拒否されるとは無責任ではありませんか?」
枳月の希望を頭から拒むつもりはないが、飲むわけにもいかない状況に変わりはない。ここまで彼が拘泥する理由でも分かればまだ対処のしようもあるが、話せないの一点張りでは、朱華も前に進めない。
「それは承知の上です」
枳月は頑として譲らない。彼の決心はそうとう固いものなのだろう。だが、朱華とて「はいそうですか」と引くわけには行かないのだ。それは霜罧との結婚を避けたい一心ばかりではない。
「……私は、枳月殿を一人の殿方として、お慕いしているわけではありません。私の結婚は多分に政略的なものでなければなりません。王統家である苴葉家を継ぐのであれば、夫となる方は王族であることが望ましく、さらに苴葉家に連なる方であれば最善です。即ち、あなたが最も相応しい殿方ということです」
どうしても枳月と結婚したいわけではない。ここまで自分との結婚を拒んでいる相手に、縋ってまでして夫となってもらわなければいけないわけでもない。
苴葉家は独身の王女として継ぐのであり、女王の準備した配偶者候補の一人は王統家の者ですらない。朱華の場合、王統家の中から相手を選ぶことはできないという事情も、あるにはあるが。
では、何故、枳月の希望をそのまま容れないのか。
朱華の結婚は公のものでもある。自分の意志でどうこうしていいものではない。
それは枳月も同じだと朱華は考える。「嫌だから嫌だ」は、王族には許されない。だからこそ、女王も彼の言葉を容れなかったのだろう。それは朱華も同じ考えだった。
最終的にどちらを夫に選ぶのか、今はまだ朱華にもわからない。が、最初から枳月の「拒否」を許すことはできない。
枳月は、朱華の言葉に酷く顔を歪めた。初冬の風が彼の前髪を揺らし、傷跡までが露わになっていた。醜い傷跡がさらに惨さを増す。それは傷の惨さだけではなく、彼の心のうちまで表しているかのようだった。
「――」
彼はいったん口を開きかけたが、また閉ざした。
「陛下は、あなたが結婚を拒む理由をご存知だと仰いましたね。その上で、あなたの希望を酌まれなかった。それは、それがその程度の理由だということではないのですか? 陛下にはお話しできて、何故私には話していただけないのですか? この先、実際にあなたのお力を必要としているのは私です」
枳月は大きく息を吐いた。表情は苦痛に耐えるかのように歪んだままだった。
「――その程度の理由、ですか……」
食いしばった唇の間から絞り出すような呟きだった。
そのあまりの苦渋に満ちた響きに、朱華はびくりと身を震わせた。耳元をかすめたいっそう冷たい風のせいではなかった。
「……言葉が過ぎたなら謝罪します」
枳月のあまりの容子に、朱華は反射的に詫びていた。事情も知らないまま、触れてはいけないことに触れてしまったことだけは明白だった。
蒼白になった朱華に、彼はふっと笑った。それまで見たこともないような笑い方だった。
「――あなたはなにもご存知ない。お知りになれば、先ほどの言葉に誰が最もふさわしくないかお分かりになるでしょう……陛下は確かにすべてご承知です――私にしてみれば、どうかなさっているとしか言いようがありません――正気の沙汰ではないとすら言える」
彼はついさきほどまでの荒んだ表情が嘘だったかのように、穏やかに話す。口元にはうっすらと笑みすら浮かべて。
朱華は知らず知らず唾を飲み込んでいた。背筋が寒いのは、寒風のせいか、それとも――
「母の――陛下のご判断が正気の沙汰ではないと仰るのですか?」
「ええ、そうです」
枳月はなんのためらいもなく、そう言ってのける。朱華の、露台の手すりを握る指先が白くなる。
「――枳月殿が大げさにお考えなのではありませんか?」
「……大げさ、であればいいのですがね――私にとっては悪夢ですよ」
枳月は静かに言い切ると、手荒く風に乱れた髪を整えた。
朱華にはそれ以上問うことができなかった。




