第3章 6
霜罧に一方的に詰られた朱華は、眉を顰めて彼の手を振り払った。
「なにをしていた、ね。見ての通り、姉上と立ち話をしていただけのこと。そのような言われようをされる覚えはない」
朱華は棘のある声で言い返す。霜罧はそんな四の姫の態度を気に留める風もなく、息を切らせている女官長を振り返った。
夕瑛は二人についていけず、追いついたばかりだった。いつものように二人の間に冷え冷えとした空気が漂っていることは分かっても、その経緯を知らないまま霜罧の視線を受け止める羽目になった。
「姫が、三の姫の宮に連れ去られそうだと報せを寄越したのは女官長殿かな?」
「――私は、朱華さまが銀華さまをお送りすることになりそうだと、言づけましたが」
「……本宮から姫君方のもとへ向かう途中でも、三の姫と四の姫が掴み合いの喧嘩をなさっていると聞いたのだが」
いったいどういうことかと問うように、霜罧は王女とその王女の女官長の顔を見比べる。
正確には三の姫が四の姫に掴みかかり、喧嘩とまではいかずとも些細な口論はあったという程度のことではあったが。
朱華は夕瑛と顔を見合わせた。話が途中で大きくなったのだろう。
「そのことはあとで説明する。それより早く陛下に……」
「それは出まかせですから、参上する必要はありません」
霜罧はなんでもないようにさらっと言ってのけた。朱華は唖然として彼を見る。
「そなた、姉上に嘘を吐いたのか」
「便法を講じただけです。あのまま朱華さまに三の姫の宮まで行っていただくわけにはいきませんでしたし、掴み合いが殴り合いに発展しても困りますからね」
「――私が妊婦を殴るとでも」
朱華は底冷えのするような声で霜罧を見据えた。
「まさか――ただのたとえ話ですよ」
霜罧は肩をすくめて、白々しく言い訳した。夕瑛は頭を抱えるのを辛うじて堪えた。
朱華は静かに霜罧を見ている。朱華が怒りを深めている兆候だと知る夕瑛は、溜息を押し殺した。
「霜罧殿、仮に例え話にしても先ほどの言葉は過ぎます」
夕瑛は霜罧を嗜める。彼は微かに眉を上げた。それから改めて朱華に向き直り、深々と頭を下げた。
「確かに言い過ぎました。例え話にしても悪質でした。私は姫をそのような方だとみなしているわけではありません。心の底よりお詫び申し上げます」
真摯な言葉に聞こえる口調だった。朱華は瞬時驚いたような顔をし、それから疑わしげな視線を向ける。
霜罧がこのように素直に謝罪をした例はないため、朱華は戸惑っていた。
「……どういう風の吹き回し?」
「失言が過ぎました。故に謝罪を」
霜罧は身を起こしても、謝意を表すように面は伏せている。朱華はなにやらもやもやするものを抱えながらも、それ以上怒り続けるわけにもいかない。
なにやら納得がいかないながらも怒りを鎮めた様子の主人に、夕瑛はほっと胸を撫で下ろした。
「わかったわ。顔をあげなさい」
朱華は溜息まじりに促した。霜罧は「ありがとうございます」と慇懃に答え、顔を上げた。
「ところで、お二人が掴み合いの喧嘩をなさっていたというのは?」
顔を上げた途端、追求の続きをはじめる。朱華はそれに苛立った様子を見せながらも、首を振った。
「最初から話す」
朱華はそう云って、周囲を見回した。回廊の途中で立ち話をするような内容ではない。
いつの間にか日も暮れ、回廊の篝火にも火が灯されつつある。
「西宮に戻られますか?」
夕瑛の提案に、朱華は首を振った。
「陛下に呼ばれたことになっているのだから、すぐに戻るわけにはいかないだろう」
「では……あの四阿になさいますか? 少々寒いですが」
夕瑛は話しながら、ちらっと霜罧を見た。視線に気づいた彼は微かに口の端を上げた。そんなやりとりに朱華は気付いていない。
「ではそうしましょう」
霜罧は涼しい顔で首肯した。
四阿周辺にも篝火が焚かれた。霜罧が手早く手配した。
木製の長椅子はかけるとひやりとした。斜め向かい側に霜罧が腰を下ろし、夕瑛は朱華の隣に腰掛けるよう促された。
四方に壁のない四阿は風が抜けていく。早晩の晩秋の風は冬と変わらない。
朱華はことの始まりから手短に説明した。
銀華が掴みかかったあたりから、傍らで目撃していた夕瑛がかわった。
話を聞き終えた霜罧は、難しい顔をしていた。
「結局、理由はお話にならなかったのですね、三の姫は」
「そなたが来た故、それ以上はきけなかった」
朱華は半分嫌味も込めて話す。霜罧はそれに構わず、愁眉を寄せた。
「姫にはまだご報告していませんでしたが、三の姫のことです」
「姉上のこと?」
朱華も何事かと眉根を寄せる。
「珂葉家内で色々とあるようです」
「……色々とは? 姉上があのようなお振る舞いに及ばれるようなことがあるというの?」
先程の姉の様子は尋常ではなかった。少なくとも朱華はそれまで目にしたことはなかった。姉にあのような振る舞いをさせる、なにがあるというのか。
「銀華さまのご夫君が、軍でそれなりの役職に就かれているのはご存知ですね?」
「ええ」
銀華の夫は王女の夫ということもあり、それなりに重要な地位に就いている。ただ軍人としての評価はさほど高くないため、軍の花形ではあるが、その実あまり権限のない役職を割り当てられている。
そのことに当人が気づいているかどうかまでは、朱華は知らない。
「ご本人はそれがお気に食わないようです」
霜罧は小さく肩をすくめてみせる。
朱華は呆れたように目を見開いた。
「確か、二の義兄上と同じ階級だったはずでは?」
「そうですよ」
応える霜罧も呆れた様子を隠そうともしない。
二の姫の夫も軍に所属し、三の姫の夫と階級も同じである。ただし、彼は軍人としての才を買われ、専ら裏方に徹しているかわりに、権限はそれなりに握っている。
相婿同士であっても、姉の夫の方が目上であることに変わりはない。にもかかわらず二人の義兄の階級が同じなのは、三の姫が両親に〝おねだり〟した結果だった。二の姫夫妻も苦笑いしただけだったと聞く。
本来目上であるはずの義兄と同じ階級で、まだ不満があるのかと、朱華は驚くと同時に憤慨していた。
「まさか、それが不満だから苴葉公を継ぎたいと?」
「端的に言えばそのようです」
「そのようなことが認められるはずがない。まさかそれが理解できない人なの?」
洒落者の義兄はいつ会っても調子がいい。近衛は軍とは別の組織であるが、国の行事の折などは顔をあわすこともあった。
そういう時、義兄は良く言えば親しげに、悪く言えば馴れ馴れしく接してくる。ある意味、霜罧と並んで苦手としている人物だった。ただし、霜罧とは真逆の印象を抱いている。
「まさか、そこまであれな方ではありませんよ」
霜罧はかつて軍に所属していたため、彼とも面識はある。
「……あれとは?」
朱華が訝しげに問う。
「ご自分が苴葉公になれないことは理解できる程度の方ということです」
淡々と話す霜罧に、朱華は腑に落ちない顔をする。
「……そなた、義兄上を莫迦にしているの? いないの?」
「莫迦にするなどとんでもないことです」
霜罧はすました顔で否定する。朱華は溜息をついた。
「賢明な方とは言い難いわけ、か」
朱華の言葉を、霜罧は否定も肯定もしない。
「で、それで何故姉上に話が繋がる?」
霜罧は考えるように上を見て、それから話し始めた。
「ここから先は推測まじりになります。恐らくは名より実を取るよう、珂葉公から焚きつけられたのではないかと」
珂葉公は銀華の夫の兄である。
「実とは?」
「妻に苴葉公を継がせ、実権は夫が握るというようなことかと。そうなれば珂葉家は二州に影響力を持ち、王統家内でも頭一つ抜きんでることになりますから」
「それでは実を握るのは珂葉公ではないの」
「だから、そこまでは理解できない方なのでしょう」
お気の毒ですと言わんがばかりの霜罧の口ぶりに、朱華はやはり莫迦にしているではないかと溜息をついた。
「……それで、姉上が苴葉公の地位を得られるように焚きつけられていると?」
「焚きつけられているというより、追い詰められておられるのでは? 銀華さまは本来であれば、苴葉公を継ぐようなことはお望みにならないでしょう」
「……私も姉上らしくないとは思ったけれど……」
朱華は肩を落とした。霜罧はそんな主人を冷ややかに見ている。
「けれど、離縁でもしない限り、姉上が苴葉公を継ぐのは不可能でしょう。他の王統家が承認するはずがない」
「陛下の承認があれば不可能ではありませんよ」
最終的な決定権を握っているのは女王だ。貴族や王統家の反対があっても、女王が承認すれば通らないことはない。たとえそれで禍根が残っても。
朱華は呆れたように霜罧を見た。
「母上が承認するわけがない」
「まずあり得ないでしょうね。だからこそ、銀華さまはお苦しい立場にあるのでは? そして、朱華さまに迫ったのでは?」
「……私から陛下に姉上に譲るよう言わせるおつもりだったと?」
「あくまで推測です」
朱華は疲れたように椅子の背にもたれかかった。
「銀華さまはご夫君にべた惚れでいらっしゃる。離縁でもチラつかせられれば必死におなりでしょう。そのためにも苴葉公の地位を譲ってくれと窮状を訴えられたら、それをあなたは退けられましたか?」
鬱屈を見せたことのない姉の窮状を知れば、朱華とて気持ちが揺れないわけはない。
霜罧は身内に甘い覚悟しかない朱華を見抜いている。
「夏の襲撃事件は恐らくは珂葉家によるものです。それに銀華さまがかかわっているかもしれないことをお忘れなきように」
「……今日の会話からはそんな感触はなかったわ」
霜罧は呆れたように大きく溜息をついてみせた。そのわざとらしさに、朱華は顔をしかめる。
「その甘さがあなたの命取りにならないことをお祈り申し上げますよ」
皮肉な口ぶりに朱華の頰に熱がはしったが、抗する言葉が見つからなかった。
「……ここまで申し上げてもお目が覚めないようでしたら、いざという時は私も聞く耳を持ちませぬからご承知ください。私の一番の役目はあなたをお守りすることですから……相手が誰であっても」




