第3章 5
西宮から内奥の門までは至近距離ではない。姉は朱華にだけ送ってくれと言ったが、目的までは把握していない。この状況で直接的な何らかの行動をとるとは思えない。会話が目当てだろうと推測していた。
吹きっさらしの回廊には、冬を思わせる冷たい風が吹き抜けていく。強い風に髪を結い上げて露わになった首筋を撫でられて、朱華は首をすくめた。
「もうすぐ冬ね」
銀華はそんな妹に声をかける。朱華がそれにつられるように姉を見ると、彼女は暖かそうな毛織物で上半身を包んでいた。
「そうですね。すっかり肌寒くなりました……姉上はもっと暖かな衣装をお召しになられた方が良いのではありませんか」
自然と身重の姉を気遣う言葉が口をついて出た。朱華はそんな自分に安堵していた。銀華はわずかに目を瞠り、それから細めて微笑んだ。
「そうね。ありがとう」
銀華は細い声で応じると、羽織った肩掛けを首まで覆い直す。
朱華は自分より頭半分ほど背の低い姉を横目で見た。結い上げた黒髪は艶やかで、残照を弾くような滑らかさを思わせる。肩掛けの隙間から見える肌は柔らかな白さで、首筋は片手で手折れそうなほど華奢だった。横顔は研ぎ澄まされた硬質な線とやわかな曲線の均衡が素晴らしい。
これほど美しい人が他に存在するだろうかと、実の姉ながら惚れ惚れと思うほどだった。
そんな妹の容子をどう解したのか、銀華は小さく息を吐いた。
「朱華……今からでも撤回する気はないかしら?」
「……なにをですか?」
あまりに直裁な言葉に、朱華はその瞬間何について姉が話しているのか分からなかった。
「なにを、とは……とぼけてみせる必要はないでしょう」
少しばかり気に障ったのか、銀華は眉をひそめた。
「そういうわけでは……」
戸惑う容子から真意は伝わったのか、銀華はそれ以上は責めてこなかった。
「あなたという子は昔からこうね」
「……こう、ですか?」
姉の言わんとするところは分からないが、悪く言われていることはわかる。
そんな気振りを察してか、銀華はあからさまに溜息を吐いてみせる。
「ぼんやりしたふりをして、抜け目のないこと。子供の頃からあなたはずっとそう」
「……そうでしょうか?」
そんな抜け目のなさがあれば、今このような立場にはいないのではないか。朱華にはまったく自分のこととは思えない言葉だった。
銀華にはそんな朱華の態度がさらに気に障るようだった。
「今でもそうでしょう。そのように空惚けてみせて。先ほどだってそうだわ。挙句に茜華まで味方につけていたではないの」
三人でいた時に惚けてみせた自覚はあったが、しっかり見抜かれていたようだった。ただし、茜華には何も話していない。あれは五の姫なりの配慮のはずだった。
「……茜華にはなにも話しておりませんよ」
朱華は足を止め、自分より少し背の低い姉の顔を見つめた。銀華もほぼ同時に立ち止まった。
「……茜華になにを話すというの?」
三の姫の表情は読めなかった。朱華はどう返すか迷う。そのままを告げれば、恐らく霜罧からは嫌味を言われる程度では済まないだろう。
「……あれは茜華なりの仲裁でしょう。私と姉上の仲を心配しての……姉上にはそのようなお心当たりがおありですか?」
あとで霜罧には扱き下ろされるだろうと覚悟しながら、朱華は告げる。惚けてみせたところで見抜かれていたのだ。化かし合いは自分には向かないのだろう。
銀華は妹の言葉に訝しげに眉を顰めた。
「私が男の子が欲しいと話したことを言っているの? 確かに王女はもう余っているとは言ったけれど……」
茜華が二人を仲裁しようとしたのは、恐らく三の姫のその言動が直接的なきっかけだったのだろう。だが、朱華が匂わせたのは夏の襲撃の件のつもりだった。銀華はそれにはまったく気づいていないようだった。
姉が恍けているとは、朱華には思えなかった。とりわけ仲の良い姉妹であったわけではないが、共に育ち長く同じ宮で過ごした姉である。多少なりとも人となりは知っているつもりだった。
あの襲撃とて、珂葉家の仕業と断定されたわけではない。そう判断するだけの証拠は見つかっていない。が、霜罧をはじめ、朱華の周囲ではそう見ているものが多いことも事実だった。
たとえそうだったとしても、あの件に姉が絡んでいるかどうかはまた別のこととなる。もし襲撃が本当に珂葉家の仕業だったとしても、銀華は知らないのではないか。けれど、そう判断できるだけの事実もない。姉は噛んでいないのではないかという推測は、朱華の願望に過ぎない。それは即ち、自分の甘さでもある。
朱華はまた堂々巡りに陥りかけている自分の気づき、断ち切るように息を吐いた。
「――確かに王女は余っていますね」
なるべく平板な声音で返したつもりだったが、銀華はますます険しい顔をする。
「……蒸し返すつもりかしら?」
蒸し返すもなにも、言い出したのは姉ではないか。朱華はそう言いたいのをぐっと堪えた。
「姉上がなにを仰りたいのかわかりませんので――私になにを撤回しろと仰っておられるのですか?」
埒があかないため、朱華は単刀直入に切り込んだ。はっきりと問われ、銀華ははたと困惑顔を見せる。自分から切り出しておきながら、戸惑っているようだった。
「姉上」
朱華は穏やかに畳み掛ける。考える時間を与えない方がいいように思われた。
ちらりと周囲に目をやれば、夕瑛が近寄ってきていた。だが、会話が聞こえるほどの距離ではない。
「……苴葉家の件よ」
朱華に押されて、銀華はようやく渋々口にした。
「苴葉家の、どのような件ですか?」
一つしかないのはわかっていながら、朱華はあえて口にしない。
銀華はそれが気に障ったのか、眉を釣り上げた。
「苴葉家を継ぐ件よ、他になにがあるというの」
激したような、高い声が響いた。夕瑛の体がぴくりと動く。主人を守るべきか迷ったが、まだ口論に過ぎないようだと判断する。
朱華は姉が声を荒げるところを初めて見た。二人の間にこのような利害の不一致が生じたことはないため、口論そのものをした記憶も皆無だった。
「私に苴葉公を辞退せよ、と?」
「そうよ」
朱華はなんとも言えない気持ちで、その言葉を受け取った。傍では夕瑛もそれを聞いていた。それほどはっきりとした物言いだった。後で言い逃れはできないだろう。
「……姉上、そのようなことができるわけがないではありませんか」
嗜めるように静かに話すと、銀華は苛立った様子をみせた。
「そのようなことはわかっています。だから、あなたに直接話しているのではないの」
直談判にきたことを自ら認めた。朱華はどのように対処すればいいのか分からなくなってしまった。
「もう苴州へ立つ日も決まっています。そのようなことはもう不可能です」
「だから、あなたが行きたくないと言えばなんとでもなるでしょう」
朱華の理解の悪さに苛立つようだった。
「私はそのようなことは言いません」
朱華はきっぱりと即答した。今更そんなことができるわけもなく、するつもりもない。覚悟はとっくにしたのだから。
銀華は妹の返事にさらに激昂したようだった。
「……何故、あなたなのよ? 父上はあなたばかり可愛がって、挙句に女のくせに王統家を継ぐだなんて。何故あなたなら良くて、私では駄目だと言うの!?」
「姉上!?」
朱華は姉に摑みかかられて驚いた。夕瑛が顔色を変えたが、朱華は咄嗟に目線で動かないように伝えた。危害を加えられそうな気配はなかった。
朱華は醜く顔を歪めた姉に、しばらく呆気にとられていた。反射的に夕瑛を留めたものの、意識の大半は思ってもみなかった姉の態度に奪われていた。
「辞退なさいな、朱華」
銀華はさらに言い募った。口ぶりは必死で、朱華に懇願すらするようだった。
「姉上、落ち着いてください」
朱華は銀華の肩に手をかけた。銀華はそれを手荒く払った。
「何故、そのように落ち着いているの。私を莫迦にしているの!?」
「そのようなわけありません」
「ならば私に譲りなさい、あなたは苴葉家を継がずとも困りはしないでしょう。あなたに継げるなら、私でも良いはずよ。そうでしょう」
銀華は朱華の両腕を掴み、揺さぶるようにしながら詰め寄る。朱華はそんな姉を宥める術が分からず、ただされるがままだった。
「姉上、私でなければならない理由はありますよ」
朱華は揺さぶられながらも冷静に話しかけた。それが耳に届いたのか、銀華が眉を顰めた。
「……それはどういうこと?」
「私だけ婚約者がいません。姉上方はすでに王統家から夫をお迎えになり、茜華は王統家出身の婚約者がいます。私以外の王女は、皆いずれかの王統家とつながりがあります。私だけそれがありません。だから、私の配偶者候補にも王統家とは関係のない人物が選ばれたのでしょう」
「……」
「もし姉上が苴葉家を継がれるなら、義兄上と離縁なさらなければならないでしょう……そのようなことがお出来になるのですか?」
朱華は視線を下へ滑らせた。銀華も無意識に下腹部へ手をやっていた。
「……」
「何故、姉上は苴葉家をお継ぎにならなければお困りになるのですか?」
本来の姉は翼波との戦いの最前線の、絶えた王統家をわざわざ継ぎたがるような人間ではないと朱華は思う。彼女の好むことは、もっと華やかで人目をひくことだったはずだ。それをわざわざ臣籍に降下し、さらに王統家ですらない人間と結婚しなければならないような選択を望むとは思えない。
そのくせ、朱華に苴葉公辞退を迫る様子は、切羽詰まっているようにすら見える。なにか他に理由があるように感じられた。
姉の身を案じるように、朱華は心配そうに話しかけた。その言葉に姉はさっと表情を曇らせたかと思うと、顔を強張らせた。
「――あなたには関係ないでしょう」
「……いえ、そうではないのではありませんか? 実際、姉上に一方的に苴葉公を辞退するように迫られているのですから。理由をお訊きしてもいいはずです」
朱華はあえて言葉を選ばなかった。迂遠な話し方をしたところで解決するわけではない。銀華は妹のあからさまな物言いに不愉快そうに眉間に皺を寄せたが、視線をそらし黙り込んだ。
朱華は困り果て、視線を巡らす。少し離れたところに夕瑛がおり、銀華付の女官や近衛はさらに遠巻きにしている。夕瑛には二人のやり取りが聞こえていたようで、主と同じく困惑顔だった。
陽はとうに傾き、吹き抜けの回廊を渡る風は冷涼としている。耳朶は痛みを感じるほどに冷え切っている。このような冷え込む場所が、身籠っている姉の身にいいはずもない。
「――姉上、ともかく内奥の門までお送りします。このように寒い場所にいては、お体に障ります」
朱華がそう促しても、銀華は目をそらしたまま応じない。無理強いするわけにもいかず、また、主の命がなければ銀華付の女官たちも動きようがない。
さてどうしたものかと夕瑛と顔を見合わせたところへ、回廊の曲がり角から霜罧が現れた。
霜罧は二人の王女の姿に、やっと見つけたという顔をした。
「朱華さま、こちらにおいででしたか」
霜罧は足早に近寄ると、まずは朱華にそう声をかけ、それから三の姫に向かって恭しく首を垂れる。
「お二人でご歓談中のところ、失礼いたします――銀華さまにおかれましてはこの度の吉報、心よりお祝い申し上げます。さぞやお美しいお子様がお生まれになられることでしょう」
心地よく響く低い声で言祝ぎ、面を上げると華やかな笑顔を銀華に向けた。銀華は最初は戸惑っていたものの、じきにいつものように華麗な笑みを浮かべた。
「ありがとう、霜罧。相変わらず耳の早いこと」
そうして揶揄うようにくすくすと笑う。
「つい先程、陛下よりお聞きしましたので――このようなときに申し訳ないのですが、朱華さま」
霜罧の登場にほっとしながら、二人のやりとりを傍観していた朱華は現実に引き戻される。
「陛下が至急お呼びです」
「――そう」
ちらりと姉を見れば、銀華はすでにいつもの容子で落ち着いていた。妹の視線にゆったりと笑みを浮かべてみせる。
「ならば仕方ないわね、お行きなさいな、朱華」
「では、失礼いたします」
朱華は恭しく一礼し、銀華と離れた。本宮を目指し、足早に回廊を進む。いくつか角を曲がり、銀華たちから十分離れたところで、いきなり腕を掴まれた。朱華は勢い余って前のめりになりかけた。いきなり腕をつかんだのは霜罧だった。
朱華はいったい何事かと振り返り、文句を言おうとしたが。
「姫、あなたはいったいなにをなさっておられるんですか」
先に霜罧が険しい顔で詰ってきた。




