第2章 9
西宮の外はもうとっぷりと闇に包まれている。内奥の各宮をつなぐ回廊には一定の間隔で篝火が焚かれている。揺らめく灯りは回廊の石畳を照らす。その片隅に彼はいた。柱に凭れかかり、浅く腕を組んで待ち構えていた。
追いついた女官に、彼は柔らかな笑みを向ける。
「女性のお誘いは断らない主義です」
霜罧は艶やかに笑んで、かすかに掠れた低い声で応じる。並みの女性ならうっとりしそうな笑みだが、夕瑛には通用しない。
「誘った覚えはありませんわよ、それに姫さまの手前、そういうことはお控えいただかないと」
「迂闊な真似はしませんよ」
感心しないという表情で窘める女官の言葉を、霜罧は意に介さず、ご心配なくと軽く受け流す。
「あら――だから姫さまに嫌われるんですよ」
夕瑛はにこやかに言ってのける。霜罧は相変わらず微笑したまま、わずかに眉を上げた。篝火を受ける顔の陰翳が増す。
「知っていますよ」
「それは先ほどですか? それとももっと以前から?」
夕瑛の意地の悪い口振りに、霜罧は苦笑する。
「両方です。それは夕瑛殿もご承知だとばかり思っておりましたが?」
霜罧は同意を求めるように夕瑛を見る。表情だけ見ていれば、側からは口説かれているようにも見えるかも知れない。夕瑛はその眼差しに首を振る。
「さぁ、存知ません……先ほどあなたが盗み聞きなさっていたことは知っていますが」
夕瑛はにこやかに告げる。霜罧は己の醜態を指摘されても眉ひとつ動かさない。腕組みを解くと、片方の指先で顔を覆う。
「あれは弁解のしようもありません」
霜罧はあざといほど悔いたような表情を浮かべ、心底恥じているように口にした。
夕瑛はくるりと視線を巡らせ、口の端を持ち上げた。
「何故、あのようなところにいらしたのですか?」
「姫が内奥に戻られたと聞いたので参上する途中で、枳月殿下をお見かけしたのですが、何故か四阿から出てこられたので」
「行ってみたら、私たちが話していたと?」
「その通り」
「盗み聞きなど褒められたことではないと思いますが――あなたがあのような真似をなさるとは、思ってもみませんでした」
後半は夕瑛の偽らざる本音だった。朱華と違い、彼女は霜罧をそれなりに評価していた。それは彼女の表情からも彼に伝わったようだった。
「恥ずべきことは百も承知です」
霜罧は先ほどまでの微笑こそ浮かべていないが、穏やかに話す。恥じているようには見えない。
「では?」
「単純に知りたかっただけですよ」
「何を?」
「想う方の本音を」
霜罧は真面目な顔だった。夕瑛はあらと眉を上げ、それから憐れむような笑みを浮かべた。
「やはりそうでしたか」
「……夕瑛殿はご承知でしたか」
「姫さまは露ほども気づいておられませんけれどね」
夕瑛は苦笑いする。霜罧は自嘲するような笑みを浮かべた。彼にしては珍しい表情だった。
「けれど何故……」
「何故かうまく振る舞えないのですよ、姫の前ではね」
霜罧は苦く笑う。夕瑛は少なからず驚いたが、顔には出さなかった。
「……失礼ですが、もっと器用な方かと思っておりました」
夕瑛は同情するように、けれど愉快そうないろも隠さずに率直な感想を述べた。
「自分で云うのもなんですが、基本的にはそうだと思います」
王配の片腕である父に、長兄よりも似ていると評されることを、霜罧は知っている。自分が長男であれば、十分に父の後を継げる自信もある。けれど、彼は次男に過ぎない。立場的に兄を超すことは終生できない。長兄とて暗愚なわけではない。霜罧ほど際立っていないが、地道に実績を積み上げている。それでも能力的には自分の方が勝っているという思いはある。しかし、どれほど勝っていようと、次男というだけで兄を超えることは不可能だ。
霜罧にも兄への敬慕の想いはある。だからこそ、兄を差し置いて目立つことが得策ではないことも理解している。それでも、自分の能力に自信があるだけに、どれだけのことができるか己を試してみたい想いを強い。それが長男であると云ことだけで兄には可能であり、次男であるということだけで彼には不可能だった。
自分の居場所を持てず、立ち位置を持て余しているという点では、彼には朱華と自分が似ているように見える。ただ、彼と異なり、彼女は自信がなく、自分の為すことに確信が持てずにいる。能力的にも開きがあることは確かだった。
それぞれの立場をわきまえ、王女然としている姉妹の間で、一人だけ立場を見失っている四の姫。それは秀でた才がない故のことでもあった。武芸の腕前など、王女の才の内には入らない。一方、己の才故に立場に収まり切れないのが霜罧だった。
彼女の存在は、何故か彼を苛立たせる。それは幼い頃からのことだった。その癖、気にかかる。苛立たしいから気になるのか、気になるから苛立たしいのか、それはもはやわからない。
女王から今回の話を打診された際、彼に迷いはなかった。おそらく、四の姫は断らないだろうという思惑もあった。王女として誰からも必要とされていない四の姫。それが一転して必要とされるなら、彼女はそれを断ることはできない。
兄を越せないのに、兄を追うしかない現状よりも、これまでに前例のないことに挑戦することの方が、彼には魅力的に思えた。しかも、その神輿はあの四の姫なのだ。彼女をどう担ぎ出し、どこへ誘うか。すべてが己の力量次第なのだ。しかも、巡り巡れば当の姫を守ることにもつながる。
その役割を他の者に任せるということは、彼には想像できない。その癖、その感情をどう名づけるべきなのか、彼自身にも分かっていなかった。




