第2章 7
彼が何を言おうとしているのか、朱華は瞬時には理解しかねた。同じく、夕瑛も唖然としている。
「そ、その、姫に非があるわけではなく――ただ、私は生涯どなたとであっても結婚するわけにはいかぬのです」
「……それは何故でしょうか?」
傍系とはいえ、数少なくなってしまった王族の一人なのである。相手が朱華でなくとも、結婚しないという選択はまずないはずだった。
「――理由はお話しできません……ただ、私にはどなたとであれ結婚する資格はないのです」
一度口にしてしまえば、彼も躊躇いがなくなったようだった。
「……それは母……女王陛下もご存知のことですか?」
「――陛下に申し上げても取り合っていただけませんでしたので……」
それで本人に直訴に及んだのだろう。
軽々しい気持ちで、彼がこのような振る舞いに及んだとは、朱華には思えない。正式に命じられたわけでなくとも、女王の意に逆らうということになる。叛意を疑われても仕方ない。それでも女王に直接訴えた挙句、朱華当人に直訴するという暴挙に及んだのだ。それなりの理由と覚悟あってのことなのだろう。
そこで師の言葉を思い出す。「彼は、朱華が思うより重いものを背負っているのだろう」という師の推測は、つい先程聞いたばかりだった。
「――苴州入りはどうなさるのですか?」
「姫に臣下としてお仕えする気持ちに変わりはありません」
「そうですか」
ここまできて、家臣団の顔触れが変わることは避けたかった。まずはその返答に安堵したものの、朱華の内心には重苦しいものが立ち込め始めていた。
「その前にお話しください。理由を聞かずに判断はできません」
「……それは――お話しできません」
「理由がわからなければ受けるわけにはいきません」
「それはそうですが……」
枳月は頑として理由を話すつもりはないようだった。朱華は納得するわけにはいかず、彼の態度に苛立ちを感じないわけにはいかなかった。
「母が……陛下が取り合わなかったと仰いますが、陛下にもそのように申し上げたのですか?」
「それは」
「陛下には理由を申し上げたということですね。そして陛下は取り合わなかったと」
痛いところをついたのか、枳月は抗弁しなかった、
「陛下が許可なさらなかったことを、私が容れるわけにはいきません」
「……そこをなんとか」
「ならば理由をお話しください。本当のことを言えないなら、私を妻にするのは真っ平だと仰ってもかまいません」
「そのようなことは」
「どうしてもお嫌なら、せめて嘘でもいいから理由をと言っているだけです」
朱華の言葉を聞いても、枳月は口を開かなかった。
あたりは暮色に溶け込みはじめている。朱華はしっかと彼を真っ直ぐに見据え、それを揺らさなかった。彼は相変わらず顔を隠したままで、朱華の苛立ちはいっそう募る。
息苦しいような沈黙が長く続いた。その間、枳月は前髪ひとつ揺らさない。なんとしても嘘を吐く気もないが、理由を話すつもりもないということなのだろう。
朱華は根負けして、ため息をついた。彼にも伝わるよう、わざとらしく大きく息をもらした。
「……考慮しておきます」
まさかこの状況で彼の言葉を受け入れるわけにはいかない。その返事に枳月は不服そうだったが、彼もそれ以上は思いとどまったようだった。
枳月は「では失礼したします」と一礼して去っていった。残された朱華は大きく息を吐き、傍らに立つ夕瑛を仰いだ。お互いに表情を見わけるのは難しくなりつつある。
「私、振られたのかしら?」
「それは――姫さまから求婚なさったわけではないのですから、正確には違うかと」
夕瑛の言葉は慰めにはない。
朱華は再び大きくため息をつき、嫌なことに気づいたかのように顔を顰めた。
「どうしよう、もう霜罧しかいない……」
改めて言葉にしてみると、朱華は絶望的な思いにかられた。がっくりと肩を落とし、頭を抱えるようにして四阿の石の床を見つめる。夕闇の中、かすかな風に枯れ葉が転がっていく。そのかすかな音に耳を澄ませながら、朱華は束の間放心していた。
「それほどまでに霜罧殿がお嫌いですか?」
夕瑛が見かねたように声をかけてきた。顔を上げた朱華は苦笑いしつつ、明確な返答はしなかった。わざわざ言葉にせずとも、夕瑛ならわかっているはずのことだった。
「……まぁまだ先のあることですし、おいおいお考えになられては?」
「私ももうすぐ十九になるわ。そう先延ばしにもできないでしょう」
「それはそうですが」
夕瑛は言葉に詰まったようだった。
朱華の背負っている役割には、夫を選び、子をなすことも含まれている。それもあまり先延ばしすることは勧められたものではない。朱華は結婚適齢期を過ぎつつあることも確かだった。
「――枳月殿のこと、どうなさるおつもりですか?」
枳月の申し出よりも、その結果婿候補として霜罧しか残らないことに動揺している主に、女官は本題を提示する。朱華もそれにはっとすると、自嘲の笑みを浮かべた。枳月の要望は重大事にもかかわらず、それより自分の思いに左右されてしまっていた。
「……はいそうですか、と受けるわけにはいかないわね」
「考慮はなさるのでしょう?」
「ああ返す以外、咄嗟に思いつかなかったのよ――確かに考慮する必要もあるのだし」
理由がわからない以上、彼の希望を容れるわけにはいかない。しかも理由を知る女王はその提案を却下した。それを朱華が認めるわけにはいかない――認められるわけもない。
それに、理由もわからないままでは対処のしようもない。
文字通り、頭を抱えるような思いで溜息を吐くしか今のところ術がない。
「姫さま、その……」
夕瑛が珍しく言いよどむ。朱華は徒な思考を切り上げ、夕瑛を見上げた。すでに乳姉妹の姿は闇に飲まれつつある。
「どうしたの?」
「――ただ単純に、男性として枳月殿のことをどう思っておられるのですか?」
さきほど、ひどく衝撃を受けているように見受けれらたが、それは伴侶して選べる相手が霜罧一人になってしまったためのようだった。枳月から拒まれたことが直接の原因ではない。
「……考えたこともないわ」
朱華は驚いたように呟いた。




