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雪の陰翳  作者: 苳子
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第2章 6

 

 朱華しゅか枳月きげつに気づかれぬよう秘かに深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けた。

 そして、もう一度本題を切り出した。


「その、枳月殿のお話というのは?」


 枳月は手巾をしまいながら、ああとまるで失念していたように頷いた。

 表情は見えずとも、切り出すのに逡巡しているような気振りは伝わってきた。彼は、朱華が思うより重いものを背負っているだろうという師の言葉を思い出す。


「歩きながらというのも何ですから、西宮さいぐうにいらっしゃいませんか?」


 枳月は王族の一人であるため、内奥に出入りする資格を有している。朱華と共に苴州入りするため、西宮を訪ねてもおかしくはない。霜罧そうりんなどはほぼ毎日のようにやってきている。


「西宮にまでお邪魔するほどのことではありません」


 が、歩きながら話すことでもないのだろう。

 立ち話で済ますことにも抵抗がある容子に、朱華は思案する。


「内奥の四阿あずまやは如何ですか?」


 昨日、珂瑛かえい達と話した場所を思い出した。


「姫がよろしければ」


 枳月はその提案を受け入れた。




 内奥に戻ると、先に報せが行っていたため門のところで夕瑛せきえいが待っていた。

 あの襲撃以降も朱華は何度か内奥の外に出ているが、毎回夕瑛は心配そうな顔をする。

 今日も無事に戻った朱華の姿にほっとした顔を見せたが、傍に枳月を見つけると片眉を上げた。今日、朱華は彼を避けて師を訪ねるはずだった。


「夕瑛、出迎えご苦労様」


 乳姉妹の顔を見て何が言いたいか察した朱華は、ねぎらいながらも問答無用と眉を顰めてみせた。女官は本当に微かに肩を竦めてみせて、深々と礼をした。


「あの四阿に寄ります」

「はい」


 慇懃に応じながらも、乳母子めのとごの目が面白がっていることを朱華は見逃さなかった。

 内奥の回廊をしばらく歩き、朱華は四阿に繋がる角で足を止めた。


「枳月殿、こちらです」


 樹影を抜けた先に四阿がある。空は暮れなずみはじめ、あたりはおぼろな影に包まれつつある。

 昨日よりわずかに早い時刻だろうかと、そんなことを考えながら朱華は先に四阿に入り、適当に腰かけた。彼女に勧められ、枳月も腰を下ろす。

 夕瑛は主人の傍に立ったまま控えている。


「それでお話とは?」


 時刻が時刻なのもあり、朱華は枳月を促した。枳月は自分から言いだしたものの、いざとなると切り出しにくいらしい。

 彼はちらりと朱華の傍に立つ夕瑛を一瞥した。彼女が主人に付き従って苴州へ行くことは彼も知っている。存在は気になるが、席を外すように言い渡すわけにもいかない。


「このような話を私の方から切り出すのはなんなのですが……」


 非常に言いにくそうだった。朱華は彼の人となりを熟知しているわけではないが、彼にしては珍しいように思われる。いったい何を言われるのかと、朱華も内心不安になってきた。


「私に言いにくいことでしたら、内容次第ですが、誰か他の者にでも」


 苴州入りの全体を掌握しているのは霜罧だった。朱華は神輿に過ぎない。それは枳月も知るところだが、あくまで次期苴葉家当主になる朱華の顔をたてようとしてくれているのかもしれなかった。


「いえ、これは姫にしかお話しできないことなのです」

「ではお聞きしますが」


 朱華は「言いづらそうですね」、の言葉を飲み込んだ。

 枳月は腕を組み、さらにその指先を小刻みに動かしている。言葉を探しているのだろう。神経質そうなその仕草を、朱華が目にするのは初めてだった。彼については大らかな印象こそないものの、過敏な性質たちにも見えない。

 日が暮れ始めたこともあって、前髪に隠された顔からその表情は全く読み取れない。


「――自分から言うのも難ですが……姫の配偶者候補として、その……」


 と、そこでまた口ごもってしまう。彼が何を言おうとしているのか未だにわからないが、主題は朱華にも分かったような気がした。


「枳月殿もそのお一人かと、私は考えておりますが」


 母の思惑は苴州入りする面々を見れば、なんとなく察しは付く。

 継嗣の絶えた家を継ぐのである。朱華も自分の役割の一つが、跡継ぎをもうけることだということは理解している。相手はそれなりに釣り合いがとれる男性である必要もある。女王である母は、夫となる特定の人物を指定せず、選択肢を持たせてくれた。それだけでもありがたいのかもしれなかった。姉達にはその選択肢は与えられなかったのも同然だった。

 朱華の率直な言葉に、枳月はやや怯んだようだった。

 女性らしい慎ましさに欠けていると、あとから夕瑛に忠告されそうだが、近頃の朱華はそういう女性らしい心がけをいっさい放棄してしまった。有り体にいえば、そんなことにかまけている余裕はなかった。そして、朱華は努力しないとそういう「女性らしい」ことができない。


「……その……」

「私の認識は間違っておりますか?」


 何故、枳月は口ごもるのか。朱華には分からなかった。

 霜罧などは最初から「どういう形であれ一生お仕えします」と、そういうことを含めてはっきりしていた。

 朱華とて、彼と枳月はもちろん違う人間であり、考え方も異なっていることは承知している。が、何故枳月は腫物にでも触るかのように、この話題を扱うのか。

 常の男女の仲として結婚を話題にしているわけではない。これは女王から命じられた任務の一環であり、政治的なことでもある。特に当事者同士であれば、口を憚る話題ではないだろう。


「いえ、そのようなことは……」

「ならば問題ないかと思いますが」


 朱華の畳みかけるような返答に、夕瑛はその傍らで天を仰ぐような仕草を見せた。

 返答に窮している相手を、さらに追い詰めてどうしようというのか。このままでは夫君候補に逃げられてしまいかねませんよ、と二人きりなら忠告するところだった。


「――問題はあるのです」

 

 枳月が思い切ったように口を開いた。


「どのような?」


 朱華は話の流れが見えず、わずかに首を傾げた。


「私をその候補から外していただきたいのです」


 

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