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雪の陰翳  作者: 苳子
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第2章 3

 あたりはすっかり暮色に包まれつつあった。お互いの表情どころか、存在すら影に紛れそうになる。朱華しゅか四阿あずまやの長椅子に腰かけ、珂瑛かえいは柱にもたれかかり、夕瑛せきえいは主の横に立って侍っている。

 朱華は、枳月きげつ翼波よくはのもとで奴婢として扱われていたという珂瑛の言葉に衝撃を受けているようだった。

 朱華は俯きがちにしばらく黙り込んだのち、ようやく顔を上げた。


「奴婢として、か……珂瑛かえいはその辺りのことは詳しく知っているのか?」


 朱華の問いに、珂瑛は小さく首を振った。


「いや、奴婢の話も噂の域を出んからな。詳しく知る機会なら姫の方があるんじゃないか?」


 確かにその通りだった。枳月きげつと顔をあわす機会もあるが、個人的な事情に踏み込むのは躊躇われる。必要なことであれば、母から話があるはずでもあった。


「まぁ、確かにそうなのだが……あの方とは何故か話しづらくて」

「――確かに言葉数の多い方ではないがな」


 朱華の言葉に珂瑛は頷きつつも、「しかし、な」と続ける。


「無愛想な方ではないだろう?」

「そういうことではないのだが……」


 朱華は言葉を濁し、手にした太刀の鞘の表面をなぞる。

 夕闇が迫り、お互いの表情を見分けるのは難しくなりつつあった。

 兄妹はこっそり目配せしあった。朱華は人見知りがちな一面があり、誰とでも親しくなれる性質たちではない。しかもその相手が一貫して控えめな態度を貫く枳月であれば、どう接すればよいのかわからなくなっているのだろう。


「陛下にお訊きになられては?」


 腰かけた朱華の傍らに立って控えていた夕瑛が、助け舟を出す。

 乳姉妹の提案に、朱華は「それもそうなのだが……」と言葉を濁す。自分でもさほど必要性も高いと思われないことで、一国の君主として多忙な母の手を煩わせるのも気が引ける、ということなのか。

 それを察してか、しばらく考え込んでいた珂瑛が口を開いた。


せん師匠ならご存じなのではないか?」


 せん志邨しそんは朱華と枳月の師である。朱華は「また来なさい」と言われていたことを思い出した。


「……そうね」


 言われたのは夏で、既に季節は変わってしまったが。


「夕瑛、明日にでも時間はとれそう?」

「それは霜罧そうりん殿とご相談なさらないと」


 霜罧とは連日のように顔をあわせている。州入りに備えての準備のためだった。朱華は束の間忘れ去っていたことを思い出し、小さく溜息をつく。


「そうね……西宮に戻るわ、霜罧に使いをやらないと」

「すっかり日も暮れましたしね」


 朱華はたちあがり、もう表情も見分けられなくなった乳兄妹に笑いかけた。


「珂瑛、今日も稽古をつけてくれてありがとう。明日も頼む」


 それだけ言うと、西宮に向かって歩き出した。西宮まで護衛にあたる珂瑛は妹と一緒に後を追う。

 近衛を辞した珂瑛は、苴州入りするまでの間、朱華の身辺警護と実践を兼ねた稽古の師範を務めている。


「冗談にされてしまいましたね、兄上」


 夕瑛は頭一つ分高いところにある兄を見上げながら囁いた。兄はなんのことだと言いたげに妹を見たが、夕闇に紛れて顔は見えない。笑みを含んだような、思いやるような声音に、ようやく察しがついたようだった。


「……冗談に決まっているだろうが」


 馬鹿なことをと笑い飛ばさす、呆れ返ったように呟いた。


「そうですわね」


 答える妹の声音からはどんないろも感じられなかった。


「我がかん家が一族をあげてお守りする姫だぞ、当然だ」


 言葉どおりではあった。


 珂瑛は朱華に従い苴州に行くために、近衛を辞めることを決めた。朱華は苴州では大して出世はできないと止めたが、貴族の次男以下が集まる近衛では、中級貴族出身の珂瑛はさほどの栄達は望めない。それなら苴州へ行く方が面白いと笑った。

 苴州では戦で後継の絶えた家がいくつもあり、そこへ養子として入る手もある。下級貴族に落ちる可能性もあるが、継ぐ家もなく燻っているよりはましだと割り切る者も少なくはない。そのために珂瑛同様、近衛を辞した者は少なくなかった。それもあって、朱華に従う家臣団は若者中心で構成されている。

 坩家にとっては他州に布石を打つきっかけにもなる。

 朱華に従って苴州入りするさん霜罧そうりんの父である嶄綾罧りょうりんは、朱華の父である碧柊の乳兄弟だった。元々さん家は上級貴族とはいえ没落寸前で衰退しかけていたような家柄であった。が、綾罧りょうりんが先の内乱時に戦功をあげ、さらに乳兄弟である碧柊が王配となったため、家名を盛り返すことができた。今や王統家をのぞけば並び立つものがないほどの家勢を誇っている。

 五人姉妹の王女には、それぞれ貴族出身の乳母がついている。傅く王女の身の振り方に、乳母の一族の栄達がかかっているといってもよい。一の姫、二の姫にはそれぞれ有力貴族がついており、下の王女になるほどその家格は劣りがちでもある。万が一、傅く王女が王位にでも就くことになれば、中級貴族であっても十分報われる可能性を秘めている。

 そんなことは言われなくても分かっているが、珍しく多弁な兄に、夕瑛は薄く笑った。


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