終わりに 小説とはバーリトゥードである
中断期を挟みながらも二年程度をかけて書いていたこのエッセイも、これで終了になります。
なぜここで終わるのか? 理由は前回に書いた通りです。いかな小説も(そしてエッセイも)いつまでも書き続けるなんてことはありません。いつか終わらせなければならない。そういうものです。……という小説のルールに従ってここで終わりにしたというのが本当のところです。はっきりいえば、このまま続けることも当然できます。しかしながら、そうするとその内容が「20作目に悩んだら」というタイトルから大きく離れたものになってしまいます。タイトル詐欺はダメゼッタイ!
そういえば、ここで脱稿、ということになって、一回自分のテクストを読み返してみたんですよ。そうしたら、あることに気づきました。
たぶん、わたしはあんまり「○○すべし」とか、「××してはならない」という言葉を使っていません。ずっと、「○○したほうがいい」「××しないほうがベター」という言葉を使っているようです。思うに、ここはこうすべし! とわたし自身が考えたとしても、いざ書こうとしたその瞬間に「待てよ? これって人によっては違うかもしれないし、状況によっても違うかも?」と考え直して日寄っている結果なのかもしれません。
でも、もしかするとこれこそが小説という文芸の本質なんじゃないでしょうか。
つまり、小説という文芸は、何をしてもいいのではないか。
バーリトゥードな文芸なんではないかと。
もちろん、実際にはやってはならないことというのはあります。でもそれは著作権やプライバシーの保護に抵触する場合や、大方の読者が存在すら認めてくれないようなものを書く、といった、きわめて特殊な事例だけで、どんな小説も、どんなに突飛なつくりだとしても存在自体は許されます。本質的には、小説というのは何をしてもいいのです。
でも、世の中には「こうしたほうがいい」「こういうことはしないほうがいい」という不文律が出回っている。なぜ?
それはきっと、読者様が小説という文芸に科している「枠」のゆえです。
「小説とはかくあるべし」
そういう意識、あるいは無意識が存在して、読者様は小説を読んでいるのでしょう。
そして、それは作者の側も一緒です。
「小説とはこういうものだ」
そういう確信を以て、小説家は小説を書いています。
でも、「こういうものだ」という枠の外側に、実はとんでもないフロンティアが広がっているのではないか。実は、「こういうものだ」という確信は、ただの井の中の蛙の思い込みなんじゃないか。そうやって小説を書く人もいます。
でも、小説家の中には、既存の枠の中を立ち回って大成功する人だっています。
どっちがいい、どっちが悪い、という性質のものではありません。
でも、どっちの小説家にとっても、今存在する「枠」の存在を知っておくことは有用なことです。特に、枠を壊そうとする方にとっては。
以前書いたかもしれませんが、言わずと知れた大芸人の志村けんさんが「非常識を提示したければまずは誰よりも常識人であれ」といっています。セオリーをぶっ壊すには、壊す対象であるセオリーを熟知していないとならない、というのは何も芸人さんの世界の事だけではありません。
「枠」に挑むか。
「枠」の中で最大限の力を発揮するか。
それすらも自由なのが、小説という世界なのです。
ああ、なんて自由な世界なんだろう!
というわけで。
皆様の充実した執筆ライフをご祈念して、筆をおかせていただきます。
ありがとうございました。




