44、小説を小説たらしむもの、それは……
はぁーあ。困っちゃったなあ……。
あ、どうも、マスターです。
何に困ってるんだ、ですって? ああ実はですね、わたしの雇い主から電話が来ちゃいまして。なんでも、『バーの稼ぎが少ないから、もうそろそろ店を畳もうかと思ってる』ですって。要は解雇通知ですよ。
まあ、そもそも、このバーを文人バーっぽくしようと提案したのはわたしですからねえ。その失敗は当然わたしが一身に請け負うべきものです。世間では好景気とか言われてるみたいですが(2014.1現在)、果たしてしがない場末のマスターに次の職なんて見つかるんでしょうか。
さ、お客様ですね。
今日はこのお店最後のカクテルです。心して飲んでくださいね。ハイライフです。
小説において、絶対に必要とされるものは何か。
いろいろあります。小説である以上、文字はあります。物語は……ない場合があります(ダダイズム小説なんかがその例になります)。あとは、登場人物……もない場合がありますね。あれ、そうして考えていくと、案外小説って「絶対に必要なもの」って案外ないことに気づきます。あってもなくても、「まあ、これは他のもので代用可能だよね」っていうことも多いのですよ。
でも、わたしが思う、小説において絶対に必要なものがあります。
それは、始まりと終わりです。
そう書くと、きっと皆様、え、と声を上げることと思います。「それが絶対に必要なの?」と。
断言します。絶対に必要です。
なぜなら、小説というのは、作者が書く価があると考えた「事件(ここでいう事件とは、出来事くらいの意味だと思ってください)」を切り取って成立しているものだからです。
たとえば、「桃太郎」で考えてみましょう。「桃太郎」にあってはおばあさんの元に桃が流れてきてからその中にいた子供の桃太郎が鬼を退治するまでの物語ですが、この時間軸からはみ出した過去や未来も当然想定されるはずです。具体的には、おじいさんとおばあさんのなれ初め話ですとか、あるいは連れて帰ってきたお姫様とこれからどう桃太郎は向き合っていくのか……、みたいな。でも、「桃太郎」の作者はその過去と未来はばっさり切り捨てて、現行の物語を我々に提示しているわけです。
小説における始まりと終わりというのは、絵における額縁のようなものです。
見る側に、作者が見せたい絵を見せるために設定する窓。それが額縁の役割ですが、小説における始まりと終わりというのはまさにこの額縁の役割を負っています。
そして、実は、額縁(始まりと終わり)の存在だけで、作者は読者にある種の提示をすることが出来ます。よく言われることですが、一つの物事について見る角度が変わっただけでまったく印象が変わってしまう、なんてことはざらにあります。額縁の設定、始まりと終わりの位置を決めてやるだけで、実は世間で言われるテーマを描くことさえできるのです。
そう、小説には絶対に始まりと終わりが必要なのです。
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さて、WEB小説の世界を見ていますと、始まりはあっても終わりのない小説をたまさか見かけます。途中停止小説です。
ハッキリ言います。完結することが永遠にない小説など無価値です。
もちろん、世の中には未完の大作と言われる小説はたくさんあります。しかしそれは、これまで数多くの小説を書いてきて、命のともしびが消える直前まで筆を握っていた小説家の絶筆にだけ許される称号です。それに、そういった場合ですら、やはり途中で終わってしまっている作品は評価の対象になっていません。
なぜなら、途中で終わっている小説というのは、ある意味で小説の体をなしていないからです。
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始めた世界をなんとしても終えさせる、というのは、小説の修業にとっては一番重要なものです。
どういうことか。
小説を書く、という行為は常に、始まりから終わりを想定する営みです。小説を書くという行為は、始まりと終わりを字でつなぐ行為、と言い換えてもいいくらいです。
小説を長く書いていると、「あ、この設定、矛盾がある!」とか、「キャラクターが今一つ地に足つかないなあ」となってしまって書くのが億劫になってしまうことがあります。あるいは、展開に詰まってしまってそのまんま放り出している、とか。しかし、そうやって行き詰まったところでもうひと踏ん張りして突破する。これをすることによって力がつくのです。そしてその集大成たる終わりに行きついたころには、あなたは一つ腕を上げている、という寸法です。逆を言えば、年間にいくら百万文字を書いていようが、途中でいくつも投げ出してしまう作者には成長がありません。それだったら、いっそのこと、年間五万文字でもいいから小説を終わりにまで導いたほうが小説の腕は上がります。そりゃあ、年間百万文字も書いていれば修辞や言葉選びはうまくなりますから素人目にはそれなりの文章にはなりますが、終わりまで書いた、という経験のない作者の手による小説は小説にとって一番大事なものが抜け落ちてしまっている印象を受けます。
自らの手で開闢した世界は必ず自分の手で閉じなくてはならない。それこそが小説家一人一人に課せられた唯一のルールであり、小説家という生き物が背負っているカルマなのです。




