27、人事と自然という観点
あれー、なんだか雨が降ってますねえ。しかも横殴り。困っちゃうなあ、こういう天気だと酔いどれの皆さんは家に帰っちゃうんだよなー。今日は開店休業を覚悟しないとならないかもしれませんねえ。
っておや、いらっしゃったんですか恋愛小説家のスズハラさん。こんな雨の中いらしてくれたんですね、ありがとうございます。
あれ、でもお悩みの様子ですねえ。どうしました?
ふむ、「小説をWEBで発表したんだけど、『まるで書き割みたい』って言われた」ですって。なかなかキツいことを言う人もいるんですねえ。
でも、書き割、ということは、つまりそれ、風景描写が出来てないってことなんじゃないですかね。
え? 「小説っていうのは所詮人間と人間の衝突であって風景はおまけに過ぎない」?
うーん、ちょいとお話ししましょうか。
あ、はい、アイリッシュ・コーヒーです。雨が降って寒い日にはこういう温かなカクテルがいいんじゃないでしょうか。
日本の古典などで取り沙汰される言葉に、「人事と自然」というものがあります。
人事っていっても、あなたがどこかに飛ばされる、とかいう話じゃありませんよ! 「人事」とは「人間の側の出来事」のことであり、「自然」とは「我々を取り巻く環境の側の出来事」のことです。
例えば、菅原道真の百人一首収録歌、
このたびは 幣もとりあえず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
を見てみましょう。
この中では、「手向山」と「紅葉の錦」という自然が歌われています。そんな「自然」に対して、この歌の主人公は「今回の旅は幣を用意できなかったので神様に紅葉を捧げます」と自分の思いや事情を盛り込んでいるのです。短歌ではよく季語がどうのと言われますが、実はこの「人事と自然」のことを言ってるんですね。
そしてこれ、日本だけのものではありません。
例えば、「ママンが死んだ」から始まるカミュの「異邦人」ですが、あのお話の不条理感の背後には、絶望的なほどに眩しく輝く夏の太陽の存在があります。あの夏の虚脱感の風景こそが、あのお話の不透明感を演出しているんですね。
でもこれって、ある意味で当たり前のことなんです。
例えばですけど、休みの日にすごくいい天気になったとしますよね。そうすると、あなたはきっと溜まっている洗濯物を干したり、外に出かけたりしますよね。逆に、雨が降った日には外出を控えたりするでしょ? そう、人間の行ない(「人事」)っていうのは、自然に大きな影響を受けるんです。なので、天気や気候といった様々な条件が人間の選択に影響を与えることがママあるのです。
そして、自然の様相をどう受け取るのか、というのは、その自然を観測している人物に依存しています。ここも見逃してはなりません。
雨が降っているとします。でも、主人公はその時ずっと走っていて、むしろ雨が救いの雨になった、って場合もあります。でも、またある場面ではリストラに遭った主人公に雨が降り注いで鬱々としちゃう、ということだってありえますよね。
そうなんですよ。自然の有り様っていうのは人の心の有り様によってその性格が変わってしまうのです。
なので、風景描写とは、ある意味である人物の心象風景を代弁するものでもあるのです。
と、ここでこんな疑問が出ませんか? 「一人称でその理屈は分かる。でも、三人称の場合は?」 そうですよね。三人称の話者っていうのはお話の中に居ないことが多いですからねえ。なにせ、三人称における話者っていうのはあなたのことですから。
ということは、裏を返すと風景描写というのは作者の思いを代弁する道具立ての一つなのです。どんよりとした風景を描き出してやればそれだけで鬱々とした世界観を読者に提示することが出来ます。逆にあっけらかんとした爽やかな空気感を描いてやることによって、読者側に爽やかな空気をお届けすることが出来るんですね。
自然描写っていうのは、ある意味で演劇の演出にも似ています。役者にこう光を当てるとこう映る、ああいう音楽をかけてやると観劇者はきっとこういう感情になるに違いない……。その積み重ねによって人と人との衝突を後ろから支えてやるのです。
もちろん、劇の種類によってはそういう演出を控えて人と人との衝突に焦点を当てたモノも存在します。しかしそれは役者さんの実力が高くないと成立しえません。つまり、小説でそれをするためには卓越した人間描写力が問われるわけです。
わたしとしては、「風景描写をやったほうが色んなことを考えた時楽じゃね?」というスタンスです。
というわけですよ。
おや、外が晴れてきたみたいです。雨音がしなくなりましたね。
おおっとお客様がなだれ込んできた~! やったあ今日もボロ儲けだ! はいはい、ただいまお酒をご用意いたしますー!
ね? 天気によって人ってこうも翻弄されるものなんですよ。




