第2話 突然の別れ
「フィーナ……! フィーナ!」
己の名を呼ぶアリトの声に、フィーナは花を摘む手を止めた。
アリトが呼んでいる。ここまでフィーナを、探しに来たのだ。
フィーナは咄嗟に、身を屈めた。アリトに見つかりたくなかったのだ。けれどいつまで経っても、アリトはこの場から離れようとしなかった。
「フィーナ!」
いつまでも、フィーナの名を呼び続けている。その声には、どこか焦りが混じっているような気がした。
そのことに気付いた途端、アリトに申し訳なくなったフィーナは、かがんでいた身体を伸ばし、アリトに呼びかけた。
「アリト。こっち」
花畑の中から顔を出したフィーナに、アリトがほっとしたような表情を見せながら走り寄って来た。それから眉を吊り上げ、フィーナを責めた。
「フィーナ。駄目だろう、こんなところまで一人で来たら」
「でも……皆来てるのに」
「皆は皆で来てるんだ。フィーナは一人だろ? どうして一人で来たんだよ」
フィーナは咄嗟に、手に持っていた花束を自分の背後に隠した。
だがアリトはフィーナのその仕草を見逃さず、しょうがないなとでも言っているかのように、小さな溜息を吐いた。
「……俺の為に、花を摘んでくれてたんだろ? 俺が、この花を一番好きだと言ったから」
王都へ行くため、明朝には、アリトはこの村を出てしまう。
アリトは以前、数ある花の中でも、この花が一番好きだと言ったことがある。薄い青色の花は、フィーナの瞳と同じ色だからと。
アリトのために花を摘みに来たことを村の女の子たちに知られたら、絶対に揶揄われると思ったのだ。それに、アリトは村の女の子たちに人気がある。知られて、仲間外れにされるのも嫌だった。
だから、少しだけ心細かったけれど、フィーナは一人でここへやってきたのだ。けれど、その理由をアリトに言うことはできない。
フィーナは、アリトの言葉に何も答えなかった。そんなフィーナの後ろに回した手を、アリトが強引に前に引いた。
「帰ろう、フィーナ。そろそろ日が暮れる。日が暮れたら、魔物の動きが活発になる」
魔物と聞いたフィーナの身体が、ぴくりと反応した。
この村は、深い森と隣接している。
フィトナスの森と呼ばれるその森には、多くの魔物たちが存在してるのだ。
かつてその森は、魔物の大行軍を起したことがあり、そのため、魔の森とも呼ばれている森だった。
そして、普段は森の奥深くに棲息している魔物たちだったが、時々、村の近くまでやって来ることがあるのだ。フィーナやアリトの住む、この村の近くへ。
だが村までやってくる魔物のほとんどが小さく、そして弱く、魔力を持たない者たちでも、武器を持てば撃退できるような弱い個体ばかりだった。それこそ、子どもたちが数人でかかれば、森へと追い返せてしまえる程に。
それでも、やはり子ども二人だけでは、心許ないのは事実だ。
「うん。……そうね。帰ろう」
フィーナが素直に頷いたことで、アリトも安心したようだ。フィーナの手から花を受け取り、顔に近付け一嗅ぎしてから、「ありがとう」と言って微笑んだ。
二人で手を繋ぎ、村へ続く道を歩き出そうとした時だった。
ガサっと、近くの茂みから何か大きなモノが現れた。
最初に見えたのは、黒く、大きな翼だった。次に顔、胸部、脚が順に見え、それが全体を顕わにした瞬間、フィーナは小さな悲鳴を挙げた。隣にいるアリトからも、息を呑む音が聞こえて来た。
「魔物だ……」
アリトの言葉に、フィーナの身体が大きく震えた。
茂みから姿を現したのは、真っ黒で大きな翼を持つ、狼のような外見をした魔物だった。茂みの作り出す影に融けそうなほどに、黒い身体。
その全身真っ黒な身体の中で、二つの紅い瞳だけが、沈む直前の夕日を受けて、朝露に濡れた木苺のように輝いている。
これまで一度も、ここらでは見たことのない魔物だった。大人たちの話の中にだって、こんなに大きくて恐ろしい魔物の話は出てこなかった。
闇のように黒く、大きく、翼を持つ魔物。
その闇の一部に亀裂が入ったと思ったら、そこには白く大きな牙と、紅い口内が現れた。
魔物の唸り声さえ聞こえない。辺りはまるで、時が止まったかのように静かだ。
あまりの恐ろしさに、フィーナの目からは、勝手に涙が零れて来た。涙だけではない。手も足も、全身が自分の意思とは関係なく、カタカタと震え出す。
唯一己の意思でできたことは、幼馴染の名前を呼ぶことだけだった。
「ア……アリト……」
頼れる幼馴染の名を呼ぶことで、ようやく、身体の緊張が解けた。
だが、救いを求めてしがみ付いたアリトの背もまた、細かく震えていた。
「……逃げよう、フィーナ」
「でも……」
逃げようにも、逃げられなかった。足がすくんで、動かなかったのだ。
「無理……。足が、震えて……」
「……俺が背負う。フィーナ、早く……」
アリトが、そう口にした瞬間だった。なぜかアリトが、フィーナに体当たりをしてきた。
「……きゃっ!」
一瞬、何が起きたか分からず混乱したフィーナだったが、すぐに事体を察した。見れば大きな魔物が、アリトに覆いかぶさっていた。
「アリト!」
フィーナはアリト、アリトと、幼馴染の名を呼び続けた。
だが、アリトからの返事はない。その代わりに聞こえて来たのは、魔物の大きな身体の下からくぐもったように響く、苦しそうなアリトの悲鳴と、魔物が立てる、ポキ、ゴリ、という不気味な音だけだった。
「あ……あ、あ……」
同じだ。
フィーナはこの音を知っている。
いつだったか、フィーナは森の中で、小鳥が狼に食べられている場面を見たことがあった。あれは確か、父親について鳥を狩りに森へと入った時だ。
森の入り口付近へ入って間もなく、枝に留まっていた鳥を、父親が射留めた。
鳥が落ちた先へと、フィーナは我先にと駆けて行った。だが、フィーナは先を越されてしまっていた。そこにはすでに、父親が射留めた鳥を食べる、狼の姿があったのだ。狼は、その大きな口を真っ赤に染め、地面に落ちた鳥を食べていた。
ポキ、ゴリ、と骨を砕く音が、それからしばらくの間、耳にこびりついて離れてくれなかった。
アリトは今、食べられているのだ。あの時の小鳥のように、この魔物の腹を満たすために。
魔物が上体を上げた時、そこにアリトの姿はなかった。あったのは、真っ赤な血だまりだけ。アリトの身体は、一欠片も残さず、この魔物の腹の中に収まってしまった。
魔物はピチャピチャと、己の口周りを、長い舌で舐めている。ひとしきりその動作を繰り返したあと、魔物はぎろりと、紅い瞳をフィーナに向けて来た。
「あ、あ……嫌」
アリトを喰らってなお、この魔物の瞳は飢えている。
すぐ傍で聞こえる、荒い息遣いが、怖くて怖くて仕方ない。
でもそれ以上に、悔しくて、悲しくて、悲しくて仕方ない。
「嫌、嫌……」
もう、いないのだ。アリトはいない。あの、優しくて、少しだけ意地悪な、フィーナの幼馴染。
アリトは、フィーナを庇って死んでいった。フィーナのせいで死んだのだ。
明日には、王都へ旅立つ筈だったのに。将来は魔術師になる筈だったのに。
アリトは将来、フィーナをお嫁さんにしてくれる筈だったのに――。
「やだあぁあ! アリトぉ!」
フィーナは力の限り、アリトの名を叫び続けた。いつまで経っても襲ってこない魔物のことなど、この時のフィーナにはどうでも良かったのだ。
だから、フィーナは気付かなかった。魔物が、泣き叫ぶフィーナのその様子を、じっと見つめていたこと。
そして――まるで笑っているかのように開かれたその口に、アリトの血に濡れた、鋭い牙が光っていたことに。




