第10話 この恋を叶えるため
どれだけ泣いていたのか、ふいに、パキリ、と枝が折れる音が、フィーナの耳に届いた。
ハッと顔を上げたフィーナの目に、藪の中からこちらを覗く、二つの紅い光が映った。
紅い瞳を持つ獣はいない。
「……魔物」
フィーナの声に応えるかのように、すぐにその魔物は姿を現した。
紅く輝くその瞳には、獲物を見つけた高揚が見て取れる。牙を剥き、唸り声を立てながら、魔物はゆっくり、ゆっくりとフィーナに向かって歩いてきた。
もう、足は動かない。
ここまで歩いてきた疲れと、カロルの死を知ってしまったことでの精神的な打撃が、フィーナの身体から力を奪っていた。
カロルの腕輪を胸に抱き、フィーナは目を瞑った。
――ごめんなさい、アリト。
アリトが護ってくれた命なのに、その命を、繋ぐことができなかった。誰を助けることもできずに、結局は、フィーナはこのまま魔物の餌食となってしまうのだ。
でも、これでようやく、終わりにできる。
フィーナはもう一度、強く腕輪を抱きしめた。
けれど――。
死を覚悟したフィーナだったが、いつまで経っても、死は訪れなかった。
それどころか、魔物の牙や爪による、痛みすら感じない。
もしや、痛みを感じる間もなく自分は死んだのだろうかと、フィーナはおそるおそる目を開けてみた。そこでフィーナは、息を呑んだ。
先ほどフィーナに牙を剥いていた魔物が、地面に倒れていたのだ。青い血を地面に広げながら、ぴくぴくと、身体を痙攣させている。
そしてそのすぐ傍には、いつの間にか、また別の魔物が現れていた。
それは、先ほどまでの魔物よりも大きく、翼を持っている。
その魔物の姿をはっきりと意識した瞬間、フィーナの胸は高鳴った。
――似ている。
目の前の魔物は、アリトを喰った魔物に似ていたのだ。あの時よりもさらに大きくなっているけれど、翼を持ち、四肢を持つ魔物のことなど、この魔物以外には聞いたことがなかった。
その魔物は大きく翼を振るわせたあと、濁った紅い瞳で、フィーナを見つめてきた。
そして――声を発した。
「……フィーナ」
魔物が人の言葉を話したことに驚き、フィーナはまたもや、息を呑んだ。しかも魔物は、フィーナの名を呼んでいる。その事実に、胸がバクバクと不穏に騒いだ。
濡れたような、青黒い被毛。否、実際にこの魔物の毛は、先ほどの魔物の血で濡れているのだ。
「……フィーナ」
もう一度、魔物がフィーナの名を呼んだ。
小さく、掠れた声だった。けれど、何故か聞き覚えのある声だった。
記憶にある声が、耳に蘇る。
目の前の魔物が発した声よりも、幾分高く、澄んだ声。アリトの声だ。
だが、そんな訳はないと理性では分かっていた。
闇夜を写した被毛。どろりと淀んだ、赤黒い瞳。アリトの色ではない。
この魔物はアリトを喰らった、憎むべき存在の筈だ。
けれど心の何処かで、フィーナは望んでいたのだ。目の前の魔物が、かつて失った、フィーナの幼馴染であることを。その存在の一端を、宿していることを。
アリトには、魔力があった。アリトは、普通の人とは違ったのだ。
だったら、通常ではありえないことだって、起こり得るのではないかと。
その想いが頂点に達した時、フィーナは思わず口を開いていた。
「アリト……」
名を呼び、フィーナは一旦そこで言葉を止めた。
自分は一体、何を言おうとしているのか。
答えを求めて、自らの心の内を探ったフィーナだったが、答えは案外とすぐに出た。
否、本当は考えるまでもなく、分かっていたのだ。自分が何を言いたいのか。自分の望みは何なのか。
ずっと、忘れられなかった。ずっと、想ってきた。
それが例え、カロルへの裏切りになろうとも。魔物に殺された者たちへの、裏切りになろうとも。
それでもフィーナは、魔物に向けて言葉を放った。
「……連れてって」
フィーナは魔物に向かって――アリトに向かって手を伸ばした。
「アリト。私を連れてって」
迷惑かもしれない。困らせるかもしれない。魔物と人だ。意思の疎通が、できるのかも分からない。
あるいは、これはただの、フィーナの願望なのかもしれない。勘違いなのかもしれない。近づいた瞬間、アリトと同じように、喰われるのかもしれない。
それでももう二度と、アリトと離れたくなかったのだ。
フィーナにとって、アリト以上の人なんて、この先ずっと現れない。
カロルでも駄目だったのだ。
あの村から、フィーナと家族を救ってくれた。すべてを知ってもなお、フィーナを妻にと望んでくれた、あの、カロルでも。
もし、アリト以外にフィーナの心を満たしてくれる存在がいるとしたら、目の前の魔物以外ありえない。
例え人であることをやめようとも、この魔物の傍を離れたくなかった。
フィーナは着けていた腕輪を外し、カロルの腕輪と共に、地面へと置いた。血と涙に濡れた腕輪が、鈍く光っている。
持ってはいけない。
このままアリトと生きていくにしても、喰われてしまうにしても。
この二つの腕輪は、カロルとともに過ごした日々の、象徴なのだ。
最後には壊れてしまったけれど、確かに幸せも感じていたあの日々の思い出を、持ってはいけない。
魔物はじっと、フィーナを見つめている。
フィーナが腕輪を外している間も、二つの腕輪を合わせて地面へと置いている間も。フィーナはずっと、魔物からの視線を感じていた。
再び魔物と向き合った時、魔物の紅い瞳が、一瞬だけ金色に見えた。
――アリトだ。アリトの色だ。
その幻影に後押しされ、フィーナは魔物に向かって、懇願した。
「……お願い、アリト。どこへでもいい……私を連れて行って……!」
フィーナが叫んだその瞬間――。
黒く大きな影が、ゆらりと動いた。




