訪問者
階段を上りきると、下の階とは雰囲気が変わった。
天井は少し低く、廊下も僅かに狭い。でも圧迫感はなく、人の出入りが少ない場所特有の落ち着きがある。淡い青の壁紙に金の縁取りが走り、この階は落ち着いた品の良さをまとっている。
色褪せてはいないのに、どこか昔のままの佇まいがあり、長く大切に扱われてきた場所だと分かる。
「三階は、国王陛下がお使いになっていた頃のまま、ほとんど手を加えておりません。下の階は壁紙や調度品を新しくしておりますが、こちらは当時の姿を保っております。陛下が統括宮へ移られてからは、必要最低限の手入れだけで維持してまいりました」
この階にあるものはどれも、昔のまま残されているのだという。
「こちらが、王女殿下のお部屋でございます」
ローガットが立ち止まった先の扉は、飾り立てた豪華さなどない白木で作られた素朴なもの。
その扉に、そっと手を伸ばし、
「……何、この、可愛さ」
思わず目を瞬いた。
扉を開けまず目に入った物は、淡いピンクや白を基調にしたロココ調の調度品の数々。丸みのある脚のチェストや繊細な彫りの鏡台。部屋の中央には大きなソファーが置かれていて、淡いピンクの張り地に細かな花模様という、恐ろしく可愛らしい代物だ。座面にはふわりと広がるフリルのクッションがいくつも並び、幼い少女が喜びそうな物が揃っている。
「こちらは全て、国王陛下がご用意されたものでございます。最近はお仕事の量を調整されておりますので、こうした時間もお取りになられるのです」
(これを……イシュラ王が……?)
リオルガ曰く、冷酷で無慈悲なのではなく、思いやりがなく人間らしい感情に欠けている鬼畜なイシュラ王が、職人と一緒にこの甘ったるい調度品を真剣に選んでいるのかと思うと、どうしても笑いがこみ上げてしまう。
ふわりと波打つフリルのカーテンが掛けられている大きな窓からは、噴水がある庭園と、統括宮がよく見える。
窓際に置かれた机はイシュラ王が幼少期に使っていた物を修復したらしい。
「これは?」
「全て王女殿下の物です」
本棚には、歴史、政治、語学、礼法……といった様々な教材がぎっしりと詰まっている。人生三度目でも胃が痛くなりそうな量だというのに、これを普通の平民上がりの幼い少女がこなせる筈がない。クリスがああして侮るような態度を取るのも、分かる気がする。
部屋の隅には小さな暖炉と読書椅子。床には全体的に白い毛の長い絨毯が敷かれていて、ふかふかで柔らかい。
そして、部屋のあちこちに、イシュラ王が幼い頃に使っていた痕跡が残っていた。
窓枠にある小さな傷や、暖炉の側の床板だけほんの少し色が濃くなっていて、壁の低い位置には何か硬い物でぶつけたような浅い擦り跡が残っている。
(ここで育ったんだ……)
「壁や床の傷を軽く整え、調度品を入れ替えただけなのですが、お気に召しましたでしょうか?」
穏やかに微笑むローガットに、小さく頷き「気に入りました」と答えた――そのとき。
――コン、コン。
控えめなノックが静かな部屋に響いた。
誰だろう……とローガットを窺うと、彼は眉根を寄せて扉をじっと見つめながら首を傾げた。
「王子殿下方はこの時間は授業がございますし……王女殿下付きの侍女達は午後に参りますので違うかと」
では、誰なのだろう?
私もじっと扉を見つめていると、リオルガが無言のまま扉へと向かう。静かに取っ手へと手を伸ばし、そのまま勢いよく扉を開け放つ。
「……わあっ……え、あ……」
扉の外に立っていたのは、授業中の筈のソレイルだった。
「授業中なのでは……?」
予想外の人物が現れ思わずそう呟くと、突然開いた扉に驚いていたソレイルが「今日は休みだ」と反論してきた。
「そうなの?クリスお兄様は授業に向かわれたようだけれど」
「あ、兄上と私は授業内容が違う。だから、さぼったわけではない」
「さぼったのですね」
「……うぐっ」
さぼったのかと呆れていると、隣に立つローガットから「またですか」と聞こえてきた。どうやら常習犯らしい。
「王族って、もっと規律に厳しいものだと思っていました」
そんな感想が口から零れ、ハッとして口をきゅっと閉じる。余計なことを言ってしまったと、そう思ったのに……いつもなら噛みつくように言い返してくるソレイルが、今日はやけに静かだった。反論もせず、何だか落ち着かない様子で扉の向こうから部屋を覗き込んでいる。
「は、入ってもいいか?」
牙の抜かれた狼のようなソレイルに困惑しつつ、「どうぞ」と招き入れる。
すると、ソレイルは部屋に足を踏み入れ、ゆっくりと視線を巡らせ、小首を傾げた。
「父上が使っていた部屋だよな?」
「そう聞いていますけど」
「そうか……へえ、ここが」
「王子宮殿には、王女殿下がお使いになられる部屋が元々ございませんでした。その為、空いている部屋の中で最も条件が整ったこちらを割り当てられただけです。決して、どなたかを優遇したり冷遇したりという意図ではございません」
ソレイルを気遣っての言葉だろうが、当の本人はぽかんとしながら「いや」と首を左右に振り、
「別に何とも思っていない」
と口にした。
「親からの愛情を求めるほど幼くも愚かでもない。それに、国王である父上がこの部屋をリスティアに与えると判断したのだから、私が口を挟む権利などないだろう?国王の決定は絶対なのだから」
その言葉には、ソレイルの本音がはっきりと滲んでいた。
国王の決定は揺るがないのだと、それがソレイルの当たり前なのだろう。
それを聞き腑に落ちた。ソレイルが態度を軟化させた理由は、これだったのだと。
平民として育ち、王族籍に入っていなかった頃の私は、彼にとって王族ではない卑しい血を持つ者だった。
だからこそ、あれほど露骨に蔑み嫌な顔を向けてきたのだ。
でも、イシュラ王が私を王族籍に入れたことで、ソレイルの中で私は妹になった。
国王の決定が何よりも正しいと、そういった世界でこの子は生きているのだ。
(思っていたより、ずっと大人なのかも)
そう感心しかけたとき、ソレイルが真剣な顔で口を開いた。
「それより、メリアのことだけど。あの子も僕の妹だから、大切にしてほしいんだ」
「嫌です」
きっぱり、はっきり即答すると、ソレイルの眉がぴくりと跳ねた。
やはり子供だと半眼になった私に、それまで大人しくしていたソレイルがいつものように吠え始めた。
「どうしてだ……!?メリアは母上も兄上も認めた妹なんだぞ!大切にするのは当たり前だろう!」
「ソレイルお兄様が大切になさればよいかと」
「でも、メリアはリスティアのことを嫌っているから、リスティアから歩み寄ってあげてほしいんだ」
自分を嫌っているという人に、どうしてこちらから歩み寄らなくてはならないのだろう。
言っていることがおかしいと自覚していないのか、メリアのことになると途端に理屈がどこかへ吹き飛ぶらしい。
「ソレイルお兄様の好きな子を、私が大切にする理由はありません。初恋の子を大切にしたいというそのお気持ちは分かりますけど、それを私に強要するのは間違っていますよ?」
「……初恋?」
「初恋というものをご存じありませんか?誰かを特別に思ってしまう気持ちのことです。その人のことを考えると胸が温かくなり、他の誰よりも大切にしたいと思うその感情を、初恋と言うのです」
「は、初恋……」
目を瞬かせ固まっているソレイルにやれやれと肩を竦めると、背後から小さく息を呑む気配がした。
そっと振り返ると、目を見開いたリオルガが何やらショックを受けた顔をしている。
(一般論を説明しただけであって、私のことではないのだけれど……)
私はそれを見なかったことにして、まだ固まっているソレイルへと近付き、彼の顔の前でパン!と軽く手を叩いた。
「あ……」
「ソレイルお兄様。初恋というものは他者が介入するとろくなことになりません。つまり、当人同士で勝手にやっていただくのが一番ということです。私を巻き込まず、どうぞお好きに進めてくださいね」
ぽかんとするソレイルにそう告げると、彼の耳がほんのり赤くなった。
若いなあ……と見守っていると、
――コン、コン、コン!
先ほどのソレイルよりも強く扉が叩かれ、皆の視線がそちらへ集中する。
「私が」
そう言ってリオルガが扉へ向かおうとした、その瞬間。
バン……!と勢いよく扉が開いた。
そこに立っていたのは、メリアだった。




