穏やかな時間
驚いて口をパカッと開けた私を見たシリルは、肩を跳ねさせ恐る恐る口を開いた。
「兄上はリスティア様の専属護衛騎士ですよね?」
シリルの問いに、口を開けたまま首を縦に振る。
「兄上に忠誠を誓われ、それを受け入れたのでは?」
……忠誠とは?
リオルガは自身の名に誓って私を守ってくれるとは言っていたけれど、それが忠誠を誓ったことになるのか分からない。
なので、縦に振りかけた首を左右に振ってみた。
「えっ、ですが、専属騎士になるということは、つまりそういうことで」
そういうことと言われても困るのだと眉尻を下げ、開きっぱなしだった口を閉じる。
「誰からも何も説明を受けていないのですか……?」
ぶんぶんと首を縦に振れば、シリルの片眉がクイッと上がった。
「全て知った上で兄上の忠誠を受け取ったのだと。だって、それほど大事なことで……一体何をしているのだろう、兄上は……っ、兄上!」
大分混乱しているシリルを見て、それほどなのかと驚愕する。
「兄上!直ぐに来てください!」
だって、冷静沈着なシリルが、あのお兄ちゃん大好きっ子が、リオルガに向かって声を荒らげたのだから。
少し離れて待機していたリオルガはシリルの大きな声に驚き、何かあったのかと慌てて駆けて来るが、その何かはこれから起こるのである。
「どうかしましたか?シリル、何か……シリル?」
「何か?兄上はリスティア様に何も説明しないまま忠誠を誓い、専属護衛騎士になったと聞いたのですが」
「説明、というのは……?」
「盾と矛のことです」
「それなら軽く説明はしてあるよ」
「軽く……それは、次期王候補に関する矛と盾の役割のことですか?」
「役割は……」
初耳ですが?と弟に責められるリオルガに胡乱な目を向ければ、リオルガはとてもすまなそうな顔で私に頭を下げた。
「すみません。リスティア様が王宮に残ると決められたときに、改めてお話しするつもりでいました」
「兄上は、どこまで説明されたのですか?」
「矛と盾の二家は、少し特殊な立ち位置にいるといったことを……」
「……それは、そうですが」
特殊というのは、確かに間違ってはいない。ただその一言に色々と詰まり過ぎていただけで。
私が王宮に来たのは、エドに一度だけでも父親に会って来いと言われたからだ。
王女になるつもりはなく、ただの平民として隠れて生きていくので生活費を寄越せと言いに来ただけ。
私の幸せは、母と祖母と暮らしたあの村の、あのおんぼろな家にあるから。
それをリオルガは知っていたから、余計な枷にならないよう敢えて省いたのかもしれないし。
「取り敢えず」
パチン……!と手を叩き、こちらを見た兄弟に向かってにっこり笑う。
「シリルから凄く衝撃的なことを聞いた気がするけど、それよりも先に、次期王候補って何ですか?」
そう尋ねると、これでもかと目を見開いたシリルが「そこからですか」と呟くのを見て、頬をかく。
そう、そこからなんですよ。
国が違えば文化や慣習、法だって違ってくる。
次期王候補に矛と盾と、全く聞き慣れない言葉なのは、それがこの国独自のものだから。
これでも私は、侯爵令嬢というものを一度経験している身である。
次期王候補が王太子のようなもので、矛と盾は国王陛下の側近だろうと、そう予想はつけていた。
騎士の忠誠や貴族が自身の名に誓うのも、それがとても重いものだということも理解していた……つもりだったのに。
「胃が痛い」
ただの第一候補で挿げ替えのきく王太子とは違い、次期王候補というのは仮国王陛下だったのだ。
リオルガから説明を聞きながら、(もうそれ、国王だよね?)と思ってしまったほど、ありとあらゆる権限が与えられるのだから。
よく晴れている空を見上げ、キリキリと痛む胃をそっと片手で摩る。
騎士の忠誠?名に誓う?それを矛と盾の跡継ぎがしたら、重いなんてものではない。
現国王にだけ忠誠を誓う矛と盾と称される二家。
その二家の跡継ぎ達が忠誠を誓った王族が、次期王候補になる機会を得る。
凄く重すぎて、私ごとき、ぺちゃんこに潰されて風で飛んでいってしまう。
「知らないうちに、次期王候補争いに参戦していたとは……」
はーっと深く息を吐き出し、シリルの籠からプレッツェルを奪い噛み砕く。
「聖母とか謳われている王妃様が、初対面から攻撃的だった意味が今になって理解出来た。息子二人の為に取り込んでおかなければならない重要人物が、どこかから湧いて出てきた王女の側にいたら、驚きを通り越して殺意すら湧くよね……」
統括宮から出てはいけないと、しつこいくらい皆が言う理由も分かる。
王妃様の手が及ぶところに行けば、死が待っているかもしれない。
「あれ?でも、クラウディスタ家の跡継ぎはリオルガなんだよね?それなら王妃様がシリルを抱き込んでも意味がないのでは?」
「護衛騎士と当主を兼任するといった話は聞いたことがありません。どうするかは兄上が決めることですが、僕が跡継ぎになる可能性が高いと思われていてもおかしくはありません」
「もう一つの伯爵家にも跡継ぎはいるよね?」
「いますが、既婚者です」
「あぁ、だからシリルなんだ」
王妃様の駒の一つであるメリアをシリルが気に入れば、あとはどうとでも出来ると思っているのだろう。
「僕があの子に好意を持つと思われているのであれば、とても失礼なことですよね」
綺麗な顔で毒づく、この腹黒いシリルをどうにかなど王妃様でも難しいのでは?
野生児メリアではなく、淑女メリアになってからチャレンジした方がいい。
「メリア・アッセンには王妃様の後ろ盾があるとはいえ、男爵令嬢という身分であの性格です。僕でなくても上級貴族からは煙たがられ、下級貴族からは遠巻きにされると思います。そうなったら他国にでも遊学させて、そこで権力者を捕まえさせればいいだけですけど」
「それだ……!」
思わずシリルを指差して声を上げていた。
王族や貴族が他国に遊学する目的は、遊学先の王族、貴族と友好的な関係を築き、自国や家の利になる人脈をつくること。
王女と同等という異例の待遇で遊学したメリア。
彼女の目的は、始めから遊学先の王太子だったのかもしれない。
「リスティア様?」
コテンと小首を傾げたシリルに何でもないと首を左右に振っていると、背後に立つリタさんに「そろそろ」と耳打ちされた。
「もう時間のようですよ」
「そのようですね。それなら一つだけ」
そう言って微笑むシリルを胡乱げに見ると、「ただの質問ですよ」と笑われた。
初対面のお茶会で自分が何を言ったか忘れてしまったのだろうか?
「何でしょうか?」
「その誰が見ても王族だと分かる瞳を持っていて、まだここから出ていく気でいるのですか?」
どうやら忘れてしまったらしい。
「そういう約束で、ここにいるんです」
「死ぬよりは、ここで守ってもらいながら暮らしていくほうがいいと思いますよ」
「し……っ」
「それがいいですよ」
にこやかに物騒なことを口にしたシリルは、「ではまた明日」と勝手に話を終わらせ、私が何か言う前にガゼボの外に待機しているリオルガの下へ弾みながら歩いて行ってしまった。
その後ろ姿を眺めながら、ああいうところは子供らしいのにと苦笑する。
あと数日だけかと思うとどこか寂しく思うのは、母の姿絵を毎日眺めているからか、それとも夜眠るときに頭を撫でてくれる人がいるからか……。
ここでの生活は想像とは違い、とても穏やかなものだった。
だから、統括宮という鳥かごの中で安全に暮らしていた私は、ここがどういったところなのか忘れていたらしい。
母が何故逃げたのか、それを私は身を以て知ることになった。




